北の丸公園 2014-03-10
*前九年の役のまとめ(2終)
■王朝軍制と主従制
前九年合戦の追討軍は、源頼義軍と清原氏の連合軍であった。
「諸陣押領使(しよじんおうりようし)」という立場で補翼した清原軍は、この頃の軍制では、国衙を中心とした一国単位での諸国兵士とは異なる形で参じた「地方豪族軍」と呼ばれる軍事力であった。
清原軍は、平忠常の乱の平定に際し、『今昔物語集』に登場する常陸からの援軍平惟基(幹)の軍勢に相当する。こうした地方軍事貴族的存在は、かれら自身が反乱や騒擾の主体だったが、他方ではこれを鎮圧するための軍事的主体ともなった。
王朝軍制の基本的特色は、そうした「兵」的諸勢力の存在を容認したことである。
しかし、一方では律令軍制の流れに属す国衙統轄下の軍事力も存在していた。
前九年合戦において、度々出された追討官符や宣旨が(『帝王編年記』天喜4年8月3日条、『扶桑略記』天喜5年8月10日条など)、東山・東海の諸道や陸奥・出羽といった諸国に出されているのは、形骸化しつつあった「諸国兵士」の存在を前提としたものと思われる。
清原氏来援後の追討軍の構成は7陣あり、このうちの第5陣に中核ともいうべき①源頼義軍、②清原武則軍、③陸奥国府軍が配されていた。清原氏来援以前は①③が主体で、国単位で徴発された諸国兵士制に基づく公的軍事力である。
但し、①頼義軍には「坂東の猛(たけき)き士(さむらい)、雲のごとくに集り雨のごとく来る」と語られる「将軍麾下の坂東の精兵」が中心で、いわば私的軍事力も含まれいた。
王朝国家軍制の特色は、将軍なり国司なりの官職とは別の原理で参じた武力がみられたことであり、封建的主従制の萌芽ということができる。
この主従制を成り立たせている物質的基礎について、成熟した封建制は、それは所領(土地)を媒介とした人的結合とされる。
鎌倉幕府における鎌倉殿と御家人の関係、「本領安堵」「新恩給与」と表現される「御恩」に対する、軍役奉仕=「奉公」という関係である。
しかし、前九年の段階では所領は必ずしも恩賞の対象でなく、従者たる軍役奉仕者への官職推薦権が大きな比重を占めていた。
初期封建制の主従関係の特色はここにある。
その場合、官職か所領かという恩給・恩賞対象の別はあるが、そこに人格的結合(情誼関係)による主従関係が誕生しており、傭兵制から封建制への移行期として理解できる。
頼義の陪臣ともいうべき相模出身の佐伯経範(さえきつねのり)の「随兵(ずいひよう)」は、経範の討死に際し、主人の経範に忠節を尽くし、勇戦して死を選んでいる。この様に、頼義配下の「坂東の精兵」(戦闘集団)にはヒエラルキーも想定できる。
■源氏神話の源流;「征夷」の武勲
安倍氏との12年にわたる戦いで、頼義・義家にまつわる神話が誕生した。
「征夷」の象徴ともいうべきこの戦争は、源氏神話の宝庫であった。
『陸奥話記』は、頼義の安倍氏との戦いを、かつての坂上田村麻呂との征夷の戦争と対比し、「名世の殊功(しゆこう)」と称揚している。「兵(つわもの)の威を耀(かがやか)し、遍(あまね)く諸夷を誅せしこと」が、その理由だとする。
ここには「征夷」の内実が問題とされている。
「北天の化現(けげん)」「希代の名将」たる田村麻呂以後、完全なる軍事的勝利がなかった点を指摘し、頼義の武功を強調する。
「征夷」の系譜ということからすれば、頼義・義家によって実現したその勝利は、源氏神話の原点に位置するものだった。
頼朝の奥州合戦が、前九年合戦再現の場として利用されたことを考えると、この戦争の意味は限りなく大きい。
頼義・義家の「征夷」の武勲は、輝ける源家の象徴として語りつがれた。
『保元物語』(「新院為義を召さる事」)で、崇徳院側に参じた為義が、「年来将軍の宣旨」を望んだが許されなかったこと、また「祖父頼義が例にまかせ、伊予国を所望候ひしかば、地下の検非違使より、与州拝任の例なし」と許容されなかったことを語り、「今までに白髪をいただきてまかりすぎ候事も、只この先途をや遂げむと存ずるゆへ」と、不遇なる自身を鼓舞するための参陣であったと述べている場面からも、このことは理解できる。
鎌倉期には、この戦争が源家の存在証明に繋がるものと認識された。
『本朝往生伝』や『古事談』(第5)では、頼義をすぐれた往生人として、仏道に精進し堂を建立し、殺生を悔い極楽往生をとげた人物とする。前九年合戦で殺した1万5千人の耳を納めた「耳納堂」(ミノワ堂)を建立したことも記されており、武勇と慈悲の人物として描かれている。
頼義は、永保2年(1082)(『尊卑分脈』)或いは承保2年(1075)(『水左記』)、80歳をはるかに超えた高齢で没する。
この前九年合戦から八幡神との関わりが、自覚的に語られ、武勲神話と氏神信仰が結びついて登場する。
頼義による鎌倉由比郷への石清水八幡宮の勧請は、前九年合戦での戦勝祈願のためとされている。「勅定を奉りて安倍貞任を征伐するの時、丹祈(たんき)の旨ありて、康平六年秋八月、ひそかに石清水を勧請」(『吾妻鏡』治承4年10月12日条)。
その後の永保元年、義家がこれに修復を加え、頼朝の鎌倉開府の鶴岡八幡へ継承され、こうした連続性の始発に八幡神は位置づけられた。
源氏神話の創世に寄与した『陸奥話記』にも随所に八幡神の霊威が語られている。
厨川合戦では、「八幡三所風を出し火を吹きて、かの柵(たて)を焼かむことをいへり。・・・この時に鳩あり、軍の陣の上に翔(かけ)る」とあり、そこでの頼義の行為は八幡神の「神火」の代行と解されている。
八幡神と源氏との関係は、頼義と共に前九年を戦った義家においてさらに明らかになる。
八幡宮の神前で元服したことから、八幡太郎と称され、その武勇談も”神がかり”に類するものが少なくない。「驍勇(ぎようゆう)倫に絶(す)ぐれ、騎射(きしや)は神のごとし」「義家が甲(よろい)の士を射るごとに、皆絃(ゆみつる)に応じて死せり」
義家は、頼義と共に八幡神の神託に堪えうる武将として、源氏神話の創造に寄与した。
■義家に関わる説話
白河院が物怪に襲われることがあり、義家がこれを退治すべく召出された。弓を携え、枕上(ちんじよう)に置くことで、院は以後物怪に悩まされなくなった。その霊験に感じ入った院は「この弓は十二年の合戦のときや、もちたりし・・・」(弓は十二年合戦のおりに使用したものなのか)と尋ねたとある。(『宇治拾遺物語』(「白河院おそはれ給事」巻14-4))
この説話は、『源平盛衰記』『古事談』(巻4)『源威集』にも登場するもので、中世にはかなり流布したもののようだ。白河院が堀河院とされるなど、人物の入れ換えはあるものの骨格に変りはない。義家の武勇に加え、武器(矢弓・太刀)の霊威を語るものだが、それが前九年合戦と同化する形で述べられている。
王権を物怪から守る「辟邪(へきじや)」性(邪悪・邪気の排除)が右の説話の主題ではあるが、これが「征夷」の象徴たる前九年合戦と対をなし、認識されている。
■戦争の果実-八幡太郎の不満-
康平6年(1063)2月、義家(25)は異例の抜擢により出羽守に任ぜられた。しかし、義家はこの人事に不満らしく、翌康平7年には越中守への転任を朝廷に申請している。
理由は伊予守となった父頼義への孝養だという。その上奏文で、義家は、
「征夷の勲功で出羽守を拝任したが、父頼義の任国伊予と出羽は遥かに隔てられており、孝養を尽くすことができないので、出羽守を辞したいと思う。ついては越中国守に欠員があるようなので、これに転任したい」と言う。
義家は、父頼義についで陸奥守・鎮守府将軍の地位の継承だったかもしれない。
清原氏は、戦争の果実をほぼ手中にした。
清原武則に従五位下鎮守府将軍という破格の賞が与えられた。
しかし、頼義・義家が清原一族の鎮守府将軍就任を手放しで喜んだとは思えない。
「出羽山北の俘囚の主」とされた清原氏は、中央から見れば夷俘の地の豪族にすぎなかった。清原氏の出自の真実が問題なのではなく、「俘囚の主」と観念されていた事実だった。
その貴種性を自負した義家にとって、清原氏が鎮守府将軍の地位を占め、自分が出羽国守にとどまることに屈辱を感じた。
朝廷側は、奥羽方面での治安対策のために義家を出羽国に任じたと思われる。
頼義の新任地伊予への赴任が遅れたのも、安倍氏討滅後の残党処理をはじめとした治安回復にあった。
従って、義家の出羽守任命は、清原氏の鎮守府将軍を支えるための措置だったと思われる。
治暦3年(1067)には、陸奥守に源頼俊(大和源氏、頼親の孫)が任ぜられている。
頼俊は、「治略をめぐらし、復興のために尽力したが、野心をさしはさむ連中が多く、これを討伐した」といい、奥羽方面での世情不安の様子がうかがえる。さらに、北方の蝦夷・俘囚にあたる「衣曾別島荒夷(えそわけしまあらえびす)並閉伊(へい)七村山徒」(「前陸奥守源頼俊申文」『平安遺文』4652)の騒擾鎮圧のことも指摘されており、奥六郡以北の地域の「荒夷」たちへの鎮圧と治安回復も課題だったようだ。
結局、義家の出羽守転任が実現された形跡はなく、この間題がどう解消されたかは明らかでない。
ただ史料上からは延久2年(1070)の頃には、義家が下野守であった(『扶桑略記』延久2年8月1日条、12月30日条)ことが判っている。同守就任の時期は不明だが、奥羽の地に接した下野守に任ぜられていることは興味深い。同国は父祖の満仲の受領任国であり、のちには義家の孫義朝が国守に任ぜられている。
この延久2年には下野守義家が、陸奥守の頼俊を授けて陸奥の賊藤原基通を降したことが見えている(『扶桑略記』延久2年8月1日、12月30日条)。
頼俊は治暦3年に陸奥守となり、その在任中に騒擾の張本散位藤原基通なる者と合戦し、国の印鎰を奪われ、下野守の義家が来援し、これを打破した。
安倍氏滅亡後の奥羽地域は必ずしも安定した状況にはなかったわけで、藤原基通のごとき存在や北方の俘囚たちの義動が続いていた。
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4月
・アプーリア、ロベール・ギスカールに対するノルマン諸侯の反乱(1064~1068)。
ビザンツ帝国が後ろ盾。
反乱指導者:
①コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス(南イタリアで最も有力な諸侯の1人、コンヴェルサーノ、ポリニャーノ、モノーポリ、モンテペローソ、ブリンディジの領主)。
②モンテスカリオーソ伯ロベルトゥス(ゴフレドゥス弟)。
③アベラルドゥス(ギスカール甥、フンフレドゥス息子)。
6月、反乱軍、マレーラとカステラネータを占領。
1066年、反乱者が東ローマと手を結び、東ローマが攻撃に参加。
東ローマ、ブリンディジ、ターラントを取り返しカステラネータまで侵攻。
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7月
・カスティーリャ・レオン王フェルナンド1世(カスティーリャ王1035~1065、レオン王1037~1065)、コインブラ地方(ドーロ川・モンデーゴ川の間)を再度攻略・併合。
モサラベであるセズナンドに与えられる。
モンデゴ川北側よりイスラム教徒を追放、シスナンド・ダビーディス伯にコインブラ支配を委ねる。
シスナンド・ダビーディス:
1091没、位1064~1091、セビーリャ王の奴隷狩りで連れ去れセビーリャで教育を受けたキリスト教徒、長じでセビーリャ民兵隊長や国王顧問となりアッバード朝に仕える、後、フェルナンド1世に仕えコインブラ包囲を勧める、コインブラではキリスト教徒の植民を奨励、トルトーサ司教(エブロ川河口)パテルノを説得してコインブラ司教に就任させる。
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8月
・夏の頃、ウェセックス伯ハロルド(エドワード証聖王義弟)、ノルマンディ(ソンム河口ポンテュー伯ギー(ガイ)領土)に漂着、ガイ伯(ノルマンディ公ウィリアム従兄弟)に捕わる。
ノルマンディ公ウィリアム、ガイ伯よりハロルド伯を救出。
ウィリアム公、ハロルド伯に娘との結婚を勧め、ハロルド伯が承諾、ウィリアム公の義理の息子となる。
ウィリアム公、ハロルド伯をブルターニュ地方征圧に連れ出す(モン・サン・ミッシェル、ドル、レンヌに進撃。ディナンに立て籠もったコナンを降服させる)。
ハロルド伯、バイユー城内の神殿でウィリアム公へ臣従誓約。
次期イングランド王はウィリアム公との了承、帰国。
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・アラゴン王サンチョ・ラミーレス、サラゴーサ王国バルバストロ(エブロ河支流シンカ河畔)を攻略。教皇アレクサンデル2世の十字軍教書によりフランス軍など支援。
①アキテーヌ人、アキテーヌ公ギョーム8世配下(1056~1086、アリエノール曾祖父)。
②ブルゴーニュ人、シャロン伯ティボー配下。
③ノルマン人、ロベール・クレスパン配下。
④カタルーニャ人、ウルヘール伯アルメンゴール3世配下。
包囲40日後、「助命され退去を許される」条件で降伏。
征服者は条件に背き多くの人々を虐殺、残りを奴隷に(殺人、強姦、拷問、掠奪横行)。
ノルマン人、大量の略奪品を持ち帰国、フランス中に大騒ぎを引き起こす
(掠奪の評判により将来もっと多くのキリスト教徒騎士がスペインにやってくることが確実になる)。
サラゴーサ王ムクタディル(位1046~1081)、カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世への貢納中止。
1065年12月サラゴーサ王ムクタディル、バルバストロを再攻略。キリスト教徒皆殺し。
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9月16日
・前下野守源頼資、上総介橘惟行と私闘した罪で佐渡に流され、惟行は土佐に流される。
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12月13日
・藤原頼通、藤原氏長者を辞す。
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