【今日は何の日】旧暦の1月23日は、坂本龍馬が伏見の寺田屋で襲撃された日。事件の舞台となった寺田屋。京阪電車・中書島駅近くにあります。 http://t.co/JQULdt27XM ※現在の建物は、再建されたものとされています pic.twitter.com/jmNYZVQTvP
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この月の黙翁年表↓
慶應2年(1866)
1月1日
・坂本龍馬(32)、長府藩主の内命により印藤肇を介して下関福永専助宅で三吉慎蔵と会見、主客鼎座徹宵懇談。
2日、三吉慎蔵と引き続き面談、5日迄逗留。
10日、三吉慎蔵と共に船で京都へ向け下関発。西郷・木戸間の話合い結果確認の為。
この頃、高杉晋作から送別の漢詩を贈られる。
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1月1日
・マルクス(48)、「資本論」浄書・文体手入れ開始。
16日、中央委員会会議で自分の代りにロンゲをベルギー担当書記に推し採択される。
22日、ポーランド亡命者団体と国際労働者協会とが開催したポーランド革命祝賀会で演説。
30日~3月上旬、ねぷとが沢山でき重症。寝たまま「資本論」の仕事。前年までは全3巻を完成させ出版する意向であったが、エンゲルスの勧めで第1巻の浄書が済み次第、印刷に付すことに決める。
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1月3日
・(新暦2/17)赤根武人、山口に送られる。25日処刑。
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1月4日
・幕府、横浜に海軍伝習所を開設。
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1月7日
・桂小五郎(この頃、木戸貫治)ら(薩長連合の交渉のため)長州藩士一行、大坂に到着。
10日、薩摩藩邸に密かに入る。
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1月7日
・チャイコフスキー、職業音楽家としての仕事を与えられモスクワへ。ニコライ・ルビンシティン、自分の家の一室を住居として提供。
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1月13日
・ペルー、スペインに宣戦布告。
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1月14日
・高島秋帆(69)、没。
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1月14日
・土佐藩上杉宋次郎(近藤長次郎、29)、長崎小曽根別邸にて自刃。秘密の渡英計画発覚。
近藤長次郎(1833~66):
土佐の商家(餅菓子業)大里屋伝次の子。河田小龍・岩崎弥太郎らに学び、安政6年、由比猪内の下僕として江戸へ遊学。安積艮斎・手塚玄海らに学問を、高島秋帆に砲術を学ぶ。両親没後帰国、文久2年、再度江戸へ上り、学識を認められ藩から苗字帯刀を許される。この年、龍馬と同じく勝海舟に入門、翌年、佐藤与之助の仲人で大和屋徳と結婚。慶応元年、勝塾閉鎖後も龍馬と行動を共にし社中に参加。薩長提携運動で銃・艦船購入を担当、井上聞多と桜島丸条約を結ぶ。高杉晋作は長次郎について「頗る才子の様に思われ候」と伝える。翌年、長州から得た謝礼金を英国留学に利用しようとした盟約違反を同志らに問われ切腹。贈正五位。
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1月15日
・尊王攘夷派結城四郎(仙台藩士)、小野路の小島家を訪問。天然理心流の西村一平と試合(剣術・力術)。石阪又次郎(昌孝)も見学。
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1月16日
・坂本龍馬(32)、船で神戸着。
17日、池内蔵太・新宮馬之助らを加え、神戸より大坂へ。
18日、大坂薩摩藩邸へ。同夜、三吉慎蔵と共に在坂の大久保一翁・水野(癡)雲を訪問、厳重手配のこと忠告を受ける。
19日、留守居役木場伝内の計らいで一行を薩藩士として通行手形交付。ピストル・手鑓・本込め銃を寺町で購入、大坂八軒屋から淀川を上り、伏見寺田屋に宿泊。この日、風邪のため発熱。
新宮馬之助(1836~86):
土佐藩郷士寺内信七の2男。嘉永6年、高知城下の叔母の家へ寄宿、焼継業を手伝いながら河田小龍に学問と画を学ぶ。画術に優れ、その筆と伝わる劉備玄徳図が現存。文久3年、焼継業修行と称して江戸に出て、龍馬の誘いをうけ勝海舟に入門。航海術を研鑽し、その閉塾後、社中・海援隊と行動を共にする。維新後、蝦夷地開拓に従事し浦賀海兵団に勤務。明治20年没。
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1月18日
・杉浦誠、箱館奉行となる(最後の箱館奉行) 。文久2年(1862年)目付に登用、家茂上洛に際しての浪士係に任命、新徴浪士組首領清河八郎と共に上洛。
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1月18日
・ニーチェ、「文献学研究会」で「テオグニスの最終的な編纂」について研究発表。リッチェル、ニーチェ提出原稿を読み賞賛、公刊を勧める。
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1月20日
・坂本龍馬、池内蔵太・新宮馬之助らと共に京都二本松薩藩邸の桂を訪う。
「防長二国焦土となっても薩摩が残って皇国のため尽くしてくれるであろう。薩長提携を先に切り出すことは士道の意地として出来がたい。明日一同帰国する」と別盃を用意。
龍馬は直ちに西郷に会い桂の心境を訴えて痛論、西郷態度を改める。
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1月21日
・薩長軍事(攻守)同盟成立
西郷、小松・桂・坂本・中岡。2月5日、龍馬、桂小五郎の要請により薩長同盟約定6ヶ条の保証裏書。
薩長連合盟約文。
「慶長二年一月二十三日付
一、戦と相成り候時は、直様二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事。
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其の節、朝廷へ申上げ、 屹度尽力の次第これ有り候との事。
一、万一、戦負色これ有り候とも、一年や半年に、決して潰滅致し候と申す事はこれ無き事に付、其の間には、必ず尽力の次第、屹度、これ有り候との事。
一、是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度朝廷に申上げ、直様冤罪は朝廷より御免に相成り候都合に屹度尽力との事。
一、兵士をも上国の上、橋・会・桑等も、只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み、周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無しとの事。
一、冤罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いずれの道にしても、今日より双方皇国の御為、皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽し、屹度尽力仕るべしとの事」(「木戸孝允文書」)。
薩長同盟の証判を請う書。
「・・・然しながらついに行違いとあい成り、拝顔も当分仕り得ず事と懸念仕りおり候ところ、ご上京につき候ては折角の旨趣も小(松)、西(郷)両氏などへも徳と通徹また両氏どもよりも将来見込のところもご同座にて、い曲了承仕りこの上無く、上は皇国天下蒼生のため、下は主家のためにおいても感悦の至りにござ候。他日自然も皇国のこと開運の場合にも立ち至り、勤王の大義も天下にあい伸び 皇威更張の端もあい立ち候節に至り候はば 大兄とご同様この事は滅せぬよう、後来のためにも明白文明に詳述仕置き申したく、然しながら今日のところにては、決して少年不羈の徒へ洩らし候は、ついに大事にも関係仕り候ことにつき、必ず心はあい用いおり申し候間ご安心は遣さる可く候。弟(私)も二氏談話のことも呑込みおり候へども、前に申上げ候とおり、必竟は 皇国の興復にもあい係り候大事件につき、試に左に件々あい認め申し候間、その場に至り候時は、現場 皇国の大事件に直にあい係り、事そこに及ばずして平穏にあい済み候とも、将来のためには相残し置きたき儀につき、自然も相違の廉ござ候はば、ご添削成下さり候て、幸便にお送り返し成遣候ようひとえに願い上げ奉り候。
一 戦とあいなり候ときは、すぐ様二千余の兵を急速差登し、ただ今在京の兵と合し、浪華へも千ほどは差し置き、京坂両所をあい固め候事。
二 戦自然も我が勝利とあい成り候希望これ有候とき、その節 朝廷へ申上げ、きっと尽力の次第これ有候との事。
三 万一戦負色にこれ有候とも、一年や半年にて潰滅いたし候と申す事はこれ無ことにつき、その間には必ず尽力の次第きっとこれ有候との事。
四 是なりにて幕兵東帰せしときは、きっと 朝廷へ申上げ、すぐ様冤罪は朝廷より御免にあい成り候都合にきっと尽力との事。
五 兵士をも上国のうえ、橋(一橋)会(津)桑(名)などもただ今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み、周旋尽力の道をあい遮り候ときは、ついに決戦に及び候のほかこれ無きとの事。
六 冤罪も御免の上は双方誠心をもって相合し、皇国の御ために砕身尽力仕り候ことは申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御ため 皇威あい輝きご回復に立ち至り候を目途に誠心をつくし、きっと尽力仕りべしとの事。
弟(私)においては右の六廉の大事件と存じ奉り候、念のため前に申上げ候様、戦不戦とも後来の事にあい係わり候 ・・・」(「1月23日付け桂小五郎より竜馬宛書簡」)。
薩長同盟裏書。
「表にお記しなされ候六条は、小(小松帯刀)、西(西郷隆盛)、両氏及び老兄(木戸孝允)、龍(坂本龍馬)等もご同席にて談論せしところにて、毛(すこし)も相違これなく候。後来といへども決して変り候ことこれなきは神明の知るところに御座候。」
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1月21日
・大久保一蔵、京都を出発、鹿児島に向かう。
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1月22日
・慶喜・春嶽・板倉勝静、小笠原長行と共に参内、長藩処分3項を奏請。朝議はこれを酷とし寛大にせんとするも慶喜らは固執。23日、10万石削封等の長藩処分の奏請、勅許。
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1月22日
・坂本龍馬(32)、西郷吉之助・小松帯刀らと共に桂小五郎の送別の会に出席。
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1月23日
・寺田屋事件
桂帰藩の途、大坂より龍馬あて同盟6条を書記し裏書きを求める書簡を発信。
同夜、龍馬、単独伏見へ帰宿。
八ツ半(午前3時)寺田屋にて伏見町奉行配下に襲撃される。お龍の注進、三吉慎蔵の奮闘で脱出。
24日朝、囲みを逃れて伏見薩藩邸に入る。吉井幸輔京都より見舞い、西郷は1小隊と医者を派遣。
29日まで三吉・お龍と共に伏見薩邸に潜伏。
29日、龍馬・三吉・お龍3人、京都薩藩邸に入り西郷吉之助の庇護を受ける。
この間、中岡の仲人でお龍(27)と結婚披露。
「このたびの使者村新(村田新八)同行にて参上仕り可なれども、実に心に任せざる義これ在り、故は先月二十三日夜伏水(見)に一宿仕り候ところ、不斗(はからず)も幕府より人数さし立て、龍を打取るとて夜八ツ時ごろ二十人ばかり寝所に押し込み、皆手ごとに鑓とり持ち、口々に上意々々と申し候につき、少々論弁もいたし候えども、早も殺し候勢いあい見え候ゆえ、是非なくかの高杉よりおくられ候ピストールをもって打払い、一人を打ちたおし候。何れ近間に候えば、さらにあだ射ち仕らず候えども、玉目少なく候えば、手を負いながら引取り候者四人ござ候。この時初め三発致し候とき、ピストールを持ちし手を切られ候えども浅手にて候。そのひまに隣家の家をたたき破り、うしろの町に出候て、薩の伏水屋敷に引取り申し候。ただ今はその手きず養生中にて、参上ととのはず、何とぞ、御仁免願い奉り候。いずれ近々拝顔、万謝奉り候。謹言々。
二月六夕 龍 木圭先生 机下」(慶応2年2月6日付け龍馬から桂小五郎宛書簡)。
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1月23日
・ホルシュタインのアルトナ、分割統治反対のアウグステンブルク派が「革命的な政治集会」開催。
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1月24日
・近藤勇、小笠原壱岐守長行・永井主水正らの広島出張に随行しての出張が命ぜられる。
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1月25日
・木戸孝允、大阪発。2月6日、山口着。毛利候へ復命。
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1月25日
・(新3/11)前奇兵隊総管赤根武人、山口近郊で斬刑。
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1月28日
・近藤勇・伊東甲子太郎・尾形俊太郎・篠原泰之進、小笠原壱岐守らに先立って広島へ出立。山崎烝・吉村貫一郎は探索方として出立。
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1月28日
・江戸滞在中の石阪蟠斎・小島為政、神道無念流の壁書を筆写。〔石阪至孝家文書〕
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1月29日
・フランス、ロマン・ロラン誕生。ブルゴーニュ地方ニエーヴル県クラムシー。 父は公証人エミール・ロラン。
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1月29日
・オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、エリザベト夫妻、ハンガリーに出発。
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