ギョイコウ 2015-04-09 江戸城(皇居)東御苑
*康和6年/長治元年(1104)
この年
・イングランド、シュルーズベリ伯ロベール、ヘンリ1世から逃れノルマンディー公ロベールを頼ってノルマンディーに渡り対ヘンリ1世同盟を結ぶ。
ヘンリ1世はノルマンディーへ先発隊を送り遊撃戦を展開。
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・ルンド司教区設立(スウェーデン南部、デンマーク対岸)。
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・レーゲンスブルク、宮廷会議開催中の事件。
嫌われ者の貴族の裁判結果を怒ったミニステリアーレン、その貴族の館を襲い首をはねる。
皇帝ハインリヒ4世、「下層民」達の貴族に対する人民裁判を処断せず。
貴族、ハインリヒ4世を打倒対象とするに到る。
ハインリヒ5世(名ばかりの共同国王、王国統治から排除)、諸侯・有力者の側に立ちハインリヒ4世に反逆。
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・ムラービト朝、北上しアルバラシンとエブロ河流域フラーガを併合。1106年サラゴーサを従属させる。
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・アラゴン・ナバーラ王ペドロ1世、没(位1094~1104)。
弟アルフォンソ1世、即位(武人王、位1104~1134)。
29の戦いに勝利し武人王の渾名。カスティーリャ女王ウラーカ(位1109~1126)と結婚。
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1月27日
・六波羅蜜寺、火災。
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2月10日
・「長治」に改元。
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2月15日
・石清水八幡宮寺衆徒の強訴について評議。
朝廷が宇佐氏の系統の22代別当・故戒信の養子権上座高信(源高正の子)を修理別当に補任しようとするが、八幡大衆はこれに反対、神輿を担ぎ入京しようとする。
結局、高信は石清水を追放される(参議正三位右大弁藤原宗忠(43)「中右記」同日条)。
「光清また大衆の張本の嫌ひあり。天気極めて不快」(「為房卿記」2月22日条)。
八幡大衆は宇佐氏の家系を嫌うが、別当光清(21)は堀河天皇(26)の機嫌を損じる。
光清は八幡の大衆を把握した剛腹な人物で、祖師行教の衣鉢を守り、家運を隆昌に導く、紀氏石清水祠官家中興の祖。
この後、光清の子の別当(のち検校)勝清の子慶清は田中を号し、光清の異腹の子の別当(のち検校)成清の子祐清は善法寺を号す。
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4月
・この月、忠実は、陸奥の藤原清衡(きよひら、奥州藤原氏初代)が進めた馬を高陽院の馬場ではじめて走らせ、7月にも再び清衡から馬2匹を贈られている。
こうしたつながりから、清衡からの奥羽の荘園寄進に成功した。
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春
・アンティオキアとエデッサのフランク人、ハッラーンの砦(イラクとシリア北部の連絡路を支配)に共同作戦を展開。
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4月13日
・翌日にかけて地震。
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5月
・ハッラーンの戦い。戦争状態にあるモースル新領主ジェケルミシュー3千と元エルサレム総督ソクマン7千、同盟してユーフラテス支流バリーク川ほとりでアンティオキア(ポエモンと甥タンクレード)とエデッサ(ボードワン2世)を粉砕。ボードワン2世は捕虜。
ムスリム側は、フランクの武器・戦旗を持ち、フランクの服を着て偽装し、フランクの幾つかの城塞を奪う。
ポエモンは、この戦いで自信を失い、数ヶ月後故郷に戻る。
この戦いは、フランクの東への進出を永久に阻止。
一方、ムスリム軍は、エデッサにも向わず、すぐに仲たがいを起こし別れる。
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5月26日
・イェルサレム王ボードゥアン1世、エジプト人からアッコン(アッカ)の港を奪う。
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6月13日
・頭中将藤原顕実、亥刻に右大臣藤原忠実に越前遣為(気比)神人ら神輿をもって入京と報告。
14日にも報告。
19日、気比社神人、陽明門に群参、越前守高階為家の非法を訴える(「中右記」同日条)。
国司非法の内容は未詳。
国務が国司請負となり在庁官人による国衙領の「別名」化が進行するなかで、11世紀以降、国司の苛政を糾弾する人々の内裏直訴は盛んになる。
国衙・気比社の対立の深まりが推測できる。
気比社(敦賀市)は越前の一宮。
諸国一宮は国衙に隣近し、国衙の権力組織を構成する在庁官人の共同の守護神として、国衙支配をイデオロギー的側面から支える政治的役割を果たしていたとされるが、気比社は国衙所在の府中(武生市)とは地理的に隔たり、在庁官人との関係も希薄。
しかも既に寛平5年(893)、越前国から「移」という対等乃至直接の統属関係にない官衙間に用いられる文書が発給されるなど、国衙から相対的に独立した地位を得ており、気比社は一般的な意味での諸国一宮の機能を果たしていない。
越前で国衙在庁官人の共同守護神は、府中惣社(武生市)。諸国惣社は一宮以下の国内神社の祭神を合祀することにより、夫々の神社を拠りどころのする在地勢力を国衙の許に再編成する機能を果たすために創設された国衙の神社で、11世紀に成立、一宮の上位に位置付けられたともいう。越前では、気比社が惣社の下に編成されたとは考え難くく、国衙と気比社は政治的・宗教的に夫々自立した形で勢力保持していたと推定できる。
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7月
・頃、パリ司教ルフク、没。
ガロンをパリ司教に任命することで、教皇・国王の妥協成立。1099年のフランスの叙任権闘争の原因が解決。
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7月24日
・越前守高階為家に尊勝寺阿弥陀堂を建立させるとの白河法皇の命出る(「中右記」)。
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7月30日
・フランス、ボージャンシイ公会議。フィリップ1世(53、位1060~1108)、和解への第一歩。国王、妾のベルトラードと「関係を持たない」と誓約(表面上の誓約)。
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8月8日
・天台座主慶朝、叡山大衆により山門から追却される。
天台座主慶朝:
大宰大弐高階成章の3男。高階成章は後冷泉天皇の乳母藤原賢子(紫式部の娘)と結婚。賢子は慶朝の義母。
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9月
・トリポリの守備隊、「カルアト・サンジル」を攻撃。トリポリのカーディー、ファルク・アル・ムルクとサンジル、トリポリの交易を妨げない条件で和解。後、トリポリ包囲は強化される。
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9月25日
・紀伊の悪僧ら、入京、国司を訴える。
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10月
・権門荘園群の形成、神人・悪僧らの活動の活発化、その相互間の合戦と闘争は、院政成立期以来の持続した傾向。(実力と闘争による知行の保持は、中世社会の基調)
この時期、諸荘の預所を兼任して住人編成と公事体系の確立に辣腕をふるい、諸国往反の交通系統を掌握し、さらにみずから武力を組織して「合戦」にそなえる悪僧・神人は、欠くべからざる存在となっていた。
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10月7日
・太宰府大山寺を巡る石清水と叡山の争い。
比叡山延暦寺東塔の法薬禅師という悪僧、自ら大山寺別当と名乗り、延暦寺下部・日吉社宮主法師など手下を大山寺に遣わし乱行。
「およそ一両年、諸寺大衆・諸社神人、かたがた以ておこり、みな濫逆を成す。…(悪僧の典型に延暦寺都維那法薬禅師をあげ)…武勇人にすぎ、心に合戦を好み・・・諸国末寺荘園みな以て兼ね任じ、数十人の武士□□を引率し、京都諸国を朝夕に往反し、あるいは人の物を奪ひ取り、あるいは首を切らんと欲す」(「中右記」同日条)。
比叡山の闘乱には必ず関係している。
諸国の末寺・荘園役人を兼任し、武士数十人を率い京都と諸国を始終往来。
朝廷はこれを押える事が出来ず。
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10月19日
・「叡山大衆使」とか「法薬禅師使」と名乗る者、大宰府大山寺に来て大山寺荘園乱妨。
大山寺別当は石清水別当光清が兼務。光清の目代は大宰府に訴えるも相手にされず。
11月9日大宰府の役人も悪僧の味方となり、寺の所司・庄民らも悪僧に味方し寺のことを疎かにする。また悪僧に同調する大山寺の信厳(前別当定俊の後見)・上座宗胤らは宋人らの物を借り請けるなど乱行を行い、仏事や寺塔修理にも支障がでる事態。
12月8日石清水八幡宮寺別当兼大山寺別当光清は、11月13日付け報告書に接し、検非違使庁に奏状を提出、宣旨を下し「法薬禅師使」と同意する輩を召し捕るよう訴える。
翌年1月検非違使別当は勅命を奉じ、「別当宣」(勅宣に准ずる)により大宰府に対し、至急悪僧達を召し捕るよう求める。
太宰府大山寺:
太宰府宝満山の竃門社(「延喜式」の名神大社に列せられる由緒ある神社)の神宮寺。中世天台宗徒が寺塔を興し、修験道道場として盛時は370坊を有す。延暦21年(802)最澄が太宰府大山寺に登山し入唐求法を祈願、翌年空海が参拝。最澄・空海は延暦23年(804)遣唐使一行に加えられ唐にわたり仏法を修める(官衙は大宰府、地名は太宰府)。
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10月26日
・延暦寺僧徒と座主慶朝との争いを審議。
30日、審議の結果、源義家・義綱、命を奉じて在京の延暦寺悪僧等を逮捕。
「近代、末寺の荘園と称し、悪僧ら諸国を滅亡」す(「中右記」同日状)。
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11月
・この月頃より、延暦寺の使者による神宮寺および「本宮石本」への押領が始まる(『平安遺文』1663・1646
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12月
・検非違使別当権中納言藤原宗通、辞任。後任は権中納言正二位左兵衛督藤原能実。
藤原能実:
のち大納言に至る。従一位摂政太政大臣師実(道長の孫)3男。能実3男に園城寺内供の法眼真勝があり、母は「八幡別当光清女」(のち、能実は石清水別当光清の娘と結婚。
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12月2日
・パリ公会議。フィリップ1世、ベルトラードと今後いかなる不正の交渉を持たないと誓約。1092年の再婚以来、12年間にわたりカペ王権と教皇にのしかかっていた「婚姻問題」解決。
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12月12日
・ハインリヒ5世、ハインリヒ4世の宮廷から去る。
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12月27日
・臨時除目。越前守高階為家、備中守藤原仲実と交替。
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