2015年4月12日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(64)「マヌエル・ゴドイ - 青年宰相」(1) : 「王、王妃、ゴドイのこの地上の三位一体なる異様な結合は、いわば一種の共犯関係であって、この三人のどれか一人の破滅が三人全体の破滅をもたらすという恐怖感による連帯であったようである」

マヌエール・ゴドイの肖像
(オレンジ戦争指令官としてのゴドイ)
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マヌエル・ゴドイ - 青年宰相

義兄ラモン・バイユーの死
「一七九三年三月一日に、師にして義兄のフランシスコ・バイユーの弟、ラモン・バイユーがマドリードで死んで行った。・・・」"

「ラモンは、ゴヤと同年であり、サラゴーサでのルサーン師の徒弟であったとき以来の同窓であり、仕事仲間でもあった。そうして双方ともにとっての師であり、家長でもあったフランシスコ・バイユーの実弟であった。また言うまでもなくゴヤの妻、ホセーファの実兄でもある。・・・
けれどもゴヤはこの同僚にして義兄でもある幼な友達の死について、たったの一言も触れてはいない。・・・」

「・・・彼の死によってサンタ・パルバラのタビスりー工場用のカルトン描きの地位が一つ空いたことになり、その空位の奪い合いが、すさまじい勢いで画家たちによってなされるのである。・・・」

「・・・その地位を与えてくれるように、という王への請願書が七人の画家によって提出されている。三月一日にラモンが死んで、三月三日にはもう最初の一通が出されている。・・・」

家長フランシスコ・バイユーの死
「・・・一七九五年八月四日には家長のフランシスコ・バイユー自身が死ぬのであるが、その八月四日のたった二日前の八月二日に、バイユーの病気に触れた手紙をサバテールにあてて書くのであるが、彼はこの手紙を冗談に、一八〇〇年八月二日、ロンドンにて、として出す。・・・」

「フランシスコ・バイユーが死去したことによって、アカデミイの絵画部長の地位が空席になり、ゴヤが任命をされた。アカデミイでの投票結果は、八対一〇であり、この結果は彼の人望がどの程度のものであったかを物語っているであろう。
こうなれば、残るものは首席宮廷画家の地位だけである。
・・・
この年、一七九五年、バイユーの死後数週間の後に、ゴヤはこの義兄にして師であった人の肖像をアカデミイのために描いている。しかし、ある意味では謹厳な、あまりに謹厳なこの家長の下で苦労をともにして来た筈の、幼な友達ラモンの肖像などは一点も描いていない。」

いまぼくが描いているアルクーディア侯の騎馬像・・・
「この、ふざけて一八〇〇年八月二日、ロンドンより、とされた手紙のなかに、次のような一節がある。

君よ、ぼくのところに来て、アルバ夫人を描くのを手伝ってくれたらいいんだが。彼女はぼくのアトリエに入り込んで来て、顔を描けって言った。ちょっと断れないよね。まず、ぼくは絵を描くより、彼女の方が好きだよ。彼女の全身像も描くことになっているので、いまぼくが描いているアルクーディア侯の騎馬像の下絵がおわり次第、また来るだろう。」

このゴドイは、偉大な政治家ではなかったとしても、しかし、莫迦ではなかった
「・・・新出来の「アルクーディア侯爵」 - これこそマヌエル・ゴドイその人にほかならぬ - なりたての新侯爵について書いておくことにする。
王妃マリア・ルイーサが一七八五年、アランホエースの離宮で近衛騎兵隊の兵隊であるにすぎぬゴドイを見初めたとき、王妃は三四歳、ゴドイは一八歳であった。これが五年後の一七九〇年には大佐になり、その翌年には中将となり、王室の秘密会議にも出席し、アルクーディア侯爵の爵位をうけて大貴族の一員となった。
・・・一七九二年にゴドイは総理大臣となる。まことにマドリードのみならず、全スペインの貴族も庶民もあれよあれよと呆れているうちにそうなって行ったのである。二五歳の総理大臣である。
ついでに言っておけば英国のウィリアム・ピットもまた二五歳で首相の地位についたものであったが、ピットの場合は、年齢のことはともかくとしても、家柄からして、なるべくしてなったと言えるであろう。一七九二年現在、ナポレオン・ボナパルトは二三歳の青年将校である。
このゴドイは、偉大な政治家ではなかったとしても、しかし、莫迦ではなかった。フランスの国民議会、海千山千の外務大臣タレイラン、後には執政政府、ナポレオン兄弟、またアメリカ大陸との海上交通を断ち切ろうとするイギリスとも、綱渡りのような外交をもって行かなければならぬ。密偵を使い、金を湯水のように使って(その一部を自分の懐に入れながら)仏英両国の大使や重臣を買収し、彼は相当程度にやってのけたのである。少くとも只者ではなかった。」

「・・・中世的な貴族専制を復活しようなどという時代錯誤なことを考えはしなかった。
・・・自身が王妃の寵を一時的に失って宰相の地位を退かざるをえなくなってからも、ホベリァーノスやサーベドラ・オラピーデ、ウルキーホなどの啓蒙派を王が登用することを積極的に妨げはしなかった。」

しかしその品行は無茶苦茶であった
「しかしその品行は - これはもう愛人であり保護者であった王妃同様に、無茶苦茶であった。・・・一八〇一年にゴヤは”オレンジ戦争”と呼ばれたポルトガル征伐に完勝を得たゴドイの大肖像画を描くのであるが、そこに元帥服を着てだらしなく長椅子に腰をおろした青年元帥は、赤ら顔に肉づさのよすぎる体躯を見せて、その好色さ加減を十全に表現している。
・・・この図のゴドイの背後に、副官のテバ伯爵が畏まっているが、このテバ伯爵なる男が王妃マリア・ルイーサの最初の愛人であった・・・。
フランスのスペイン史家であるジャック・シャストネがあつめた記録によると、この男の宮廷内の総理執務室の前には、いつもあらゆる種類の女たちが、「生れも社会的地位も立派な女性たちまでが」寵をかけられることを望んで待ちかまえていたというのであるから大変なものだ。」

王、王妃、ゴドイのこの地上の三位一体なる異様な結合は一種の共犯関係、恐怖感による連帯であった
「結局、王、王妃、ゴドイのこの地上の三位一体なる異様な結合は、いわば一種の共犯関係であって、この三人のどれか一人の破滅が三人全体の破滅をもたらすという恐怖感による連帯であったようである。何分にもフランスは革命最中であり、スウェーデン王は暗殺され、カルロス四世は政治にしろ経済、外交一切に如何なる決断も行動も責任もとりたくないのであるから。」

民衆はこの三人を”淫売と淫売屋の亭主とヒモ”と呼んでいた
「しかし民衆の眼には、ただの三角関係・・・というふうに見えていた・・・、彼らは正確にも、この三人を”淫売と淫売屋の亭主とヒモ”と呼んでいたものであった。・・・」

「そうしてヒモはまことにヒモらしく、淫売女を時には悲鳴をあげさせるほどに殴りつけたものらしい。・・・」

「・・・王妃を愛人として持ち、その上で眼をつけた女という女が、女の方から総理大臣執務室の扉を叩きに来るという有様でありながら、彼はアンダルシーア女のベビータ・ツドォなるものを公認のメカケとして王室の費用で養うに至る。」

しかし、王妃もまたしたたかな女だった
「ここに至ってさすがの王妃も嫉妬心に狂い、ひそかに異端審問所を動員してこの男を逮捕させようとする。・・・けれども大審問官が王の意向を伺うと、王は逮捕などに反対であることが洩れ出て来る。
そこでひそかに王妃は、嫉妬のあまりローマに密使をとばして教皇じきじきの告発令状をとろうとする。事実、告発令状は出たのであるが、これをもった教皇庁の飛脚がイタリア戦線にいたナポレオンにおさえられ、令状はひそかに当のゴドイその人に届けられて握りつぶされる。ナポレオンはゴドイに恩を売ったことになり、こういうところからもナポレオンのスペイン王室への軽侮と野心が芽生えて来る。」

「しかし、王妃もまたしたたかな女だったのである。一八〇一年頃までは王妃がゴドイに金や宝石類をやっていた。が、その後は王妃がゴドイから金をとっていた。投資した資本は回収されなければならぬ。おそらく異端審問所騒ぎの時には、ゴドイは大枚のものを搾り上げられたものであったろう。」

王は何をしていたか
「王妃がこういう男出入りに明け暮れていたとき、王は何をしていたか。
例によって日がな一日、そうして年がら年中、狩猟である。この狩猟も病い膏盲、昂じて行って大砲までが持ち出された。アランホエース離宮にはタホ川の流れを引いた大きな運河があり、ここに巡洋艦を模したポートを浮べ”艦隊”をひきつれて、この”軍艦”から小さな大砲をぶっぱなして鹿、ウサギ、イノシシなどをやっつけ、手を拍って喜んでいた。これらの”軍艦”類は、今日では離宮付属の陳列館に収めてあり、スペイン海軍省がそこを管理している。
雨が降れば作曲家のボッケリーニを呼びつけ、ヴァイオリンを演奏してこの音楽家を苦しめる。
これは、もうどうにもこうにもならぬ、放蕩三昧の世界、政治だの経済だのという段ではない。・・・」
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