昭和18年(1943)
10月23日
・第1次ポンテイアナ(抗日未遂)事件(南ボルネオ)。ポンテイアナの有力者約100名検挙。
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10月23日
・「十月二十二、三日(金、土)
二等車には必ず土木請負人のような野卑な連中が乗っている。第一次世界大戦の時にいわゆる成金が日本を一変させた。今度も同じである。資本主義機構の欠点は確かにそこにある。しかし社会主義化、統制主義化しても別の弊害がある。要は教養の向上のみ。
この朝、家妻より手紙あり。嶋中君より電話あり。僕の身辺に関しデマが飛んでおり心配している。言動を気をつけてくれと。
この間も、そういう噂があった。僕のことを調べていることは事実ならん。しかし僕はどこに行っても不謹慎なことをいったことはないはず。戦争が始まった以上、戦争に勝ちぬくことは当然ではないか。
あるいは近衛、字垣のところに行ったことなどがいけないのか。とにかく、下らぬ誤解を受けないため、できるだけ注意をするつもりだ。信州の秋は寒し。」(清沢『暗黒日記』)
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10月23日
・メリトポリが陥落。ドイツ軍がクリミア半島に封鎖される
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10月23日
・ビスケー湾の駆逐艦戦でドイツ善戦
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10月23日
・イギリス『トンネル』作戦(ブレストから英海峡へ向かう独商船への巡洋艦での攻撃作戦)
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10月24日
・「十月二十四日(日)
ワー・アンド・ピースによると米国は二回ばかり、日本とのアンタントを希望したようである。ハルは野村に対し日、米、英の提携をいい、ローゼヴェルトもそういった。ただしそれはどうせできないからと考えたかも知れぬ。あの時、体かわしができれば非常な外政家であった。しかし一国の外交は、そう途中で変更できるものではない。いわんや日本の外交においては。」(清沢『暗黒日記』)
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10月25日
・朝鮮総督府、軍党局交え大学専門学校長会議開催。
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10月25日
・「国民教育に関する戦時非常措置に就て」。中学校4年修了での上級進学制、1945年からの中学4年制、中学の入学定員据え置き、増設・増科は工業・農業・女子商業に限定、男子商業学校の転換措置。
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10月25日
・~11月5日、臨時徴集検査実施。法文系・専門学校学生徴兵。
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10月25日
・東京、朝鮮奨学会、在日留学生の志願実務開始。
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10月25日
・泰緬鉄道完成、開通式。タイ領ノンプラドック~ビルマ領タンビザヤ、約416km。42年7月5日。日本軍1千、捕虜1万2千、現地労働者3万の計4万3千名死者。
戦後、約3千名が逮捕、101名起訴、96名受刑、内死刑30・終身刑12・有期刑44。
1942年6月、大本営、泰緬鉄道建設準備命令。鉄道連隊2個・現地労務者・連合軍捕虜を動員して昭和18(1943)年末迄に完成すべし。
43年2月、大本営は工期4ヶ月短縮を命じる。タイ側から鉄道第9連隊、ビルマ側から鉄道第5連隊が中心となり、捕虜約5万5千、現地人労務者(仏印、タイ、マレー、ジャワ、ビルマ、インド)約9万、計14万9千が動員。
例年より1ヶ月早い雨期到来による出水で補給路が断たれ、栄養失調、コレラ発生にも直面し、大本営は2ヶ月延長を認め、10月17日ようやく開通。25日開通式。
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10月25日
・廃油取締規則、公布。
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10月25日
・「昭和十八年十月念五日。細雨空濛たり。凌霜子黄橙のジヤムを餽らる。晡下瓦斯会社の男来り警察署より民衆の瓦斯風呂いよいよ禁止の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月25日
・ソ連軍、スモレンスクを奪回。
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10月26日
・磐線土浦駅で貨車と客車が3重衝突。110人死亡。
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10月26日
・「昭和十八年十月念六日。積雨漸く霽れて日の光もうらゝかなり。午後浅草に行きオペラ館に小憩し新橋に夕餉を喫して帰る。窓外再び虫声あり。
街談録
一 この度▼突然▲実施せられし徴用令の事につき、其犠牲となりし人々の悲惨なるはなしは、全く地獄同様にて聞くに堪えざるものなり。大学を卒業して後銀行会社に入り年も四十ぢかくなれば地位も稍進みて一部の長となり、家には中学に通ふ児女もあり、然るに突然徴用令にて軍需工場の職工になりさがり石炭鉄片などの運搬の手つだひに追ひつかはれ、苦役に堪え得ずして病死するもの、又負傷して廃人となりしものも尠からず。幸にして命つゝがなく労働するも、其の給料はむかしの俸給の四分の一位なれば中流家庭の生活をなす能はず、妻子も俄に職工並の生活をなさゞるべからず。▼此れが為殆其処置に窮し▲涙に日を送り居る由なり。(徴集せられし者は初三個月練習中は日給弐円。その後一人前になりても最高百二三十円がとまりなりと云。▼この度の戦争は奴隷制度を復活せしむるに至りしなり。軍人輩は之を以て大東亜共栄圏の美挙となすなり。▲)
一 大森辺に在るアパート二三個所此程突然軍部に買上げられ、兵器製造職工の宿舎となる由、従来こゝに居住せし者は本年内に立ちのきの命令を受けたれど東京市の内外には住宅もアパートの空室も皆無なればいづれも行先見当らず困難最中なりと云。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月26日
・イギリス、考古学者スタイン(80)、没。敦煌の千仏洞を発見。
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10月27日
・ハルゼー軍、ショートランド島近接のチョイセル島・モノ島、上陸。
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10月27日
・タール製品統制規則、公布。
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10月27日
・「午后の夕刊にて中野正剛の自殺を知る。僕は大東亜戦争勃発に続いてのショックを受けた。これは僕が、かれにローマにて御馳走になれるからかも知れず。しかしとにかく万感こもごも沸く。僕はかれを憎んだ。かれの思想が戦争を起したのである。だがかれの自殺を見て、僕はその罪を許してやる気持になった。けだし僕も日本的伝統を心深く持っているのである。ただ、かれの自殺の理由については全く不明である。
かれは生一本であった。かれは開戦すれば、米国は直ちに屈服すると公言していた。これは謬りであった。その自省の気持ちが自殺の一因をなしていたろうか。それなら立派だ。それともムソリー二、ヒトラーを夢みたかれが、事志と遠い、そのため失望したからか。とにかく、典型的日本志士である一事は認めざるを得ぬ。」(清沢『暗黒日記』)
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10月27日
・「昭和十八年十月念七。晴れて好き日なり。ふと鷗外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋傘家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨(はぜ)の紅葉花より赤く芒花(すゝき)と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて「禅林寺」となせし扁額を挂けたり。「葷(くん)酒不許入山門」となせし石には「維(この)時文化八歳次辛未春禅林寺現住旹宗(=時宗)謹書」と勒(ろく)したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧(かや)かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷(のき)辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に「元禄九年丙子朧月」の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飯す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月28日
・古賀連合艦隊司令長官、航空撃滅戦計画。「ろ」号作戦発動。第1航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」をラバウルに進出させる。
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10月28日
・稲垣浩監督・阪東妻三郎主演の映画「無法松の一生」が封切。
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10月29日
・汪兆銘の南京政府、中日同盟条約締結。
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10月29日
・医薬品等統制規則公布。
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10月29日
・モスクワ会議。英イーデンと米国務長官コーデル・ハル、モロトフに対しポーランドとの関係修復希望。モロトフはポーランド国内軍への武器供給に関し安全な受け取り手の存在に疑問。
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10月30日
・朝鮮総督府、大学専門学校学徒臨戦決意大会開催。学生3万人。
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10月30日
・「京城日報」(社長高宮太平、総力連盟宣伝文化委員)、報国報道へ邁進と称する紙面刷新の緊急幹部会。
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10月30日
・汪兆銘南京国民政府と日華同盟条約調印(南京)。日華基本条約は失効。
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10月30日
・スチルウェル中将訓練の中国軍第38師団斥候、ビルマ・フーコン渓谷北端タナイ川で日本軍第18師団(田中新一中将)偵察中隊と接触。現場に急行した第18師団第56連隊(長久節郎大佐)は、損害多く退却。
しかし、中国軍第38師団と後続する第22師団も、翌44年1月29日、スチルウェル中将の意図に反し、蒋介石の指示により進軍停止。
米国側:
中国大陸からB29を発進させる計画があり、補給ルートとして北ビルマ(特にミチナ)攻略は必要。ミチナは昆明に通ずる旧ビルマロードの基点で、レド~ミチナロードを確保し道路沿いに送油管を敷設すれば、ミチナを一大軍需物資中継地にできる。その為、米国側の強硬な主張で、レド~フーコン峡谷~ミチナを攻める「アルパコア」作戦実施が決まる。
アーケディア会談(41年12月)の結果、蒋介石大元帥が中国方面連合総司令官になると、42年3月、ジョセフ・スチルウェル陸軍中将が参謀長として着任。同時に中将はCBI(中国、ビルマ、インド)方面米軍司令官、南東アジア方面副司令官の肩書も持ち、中国軍を再訓練・組織し、北ビルマ攻略を任務とした。
スチルウェルは、米式装備の中国軍2個師団(孫立人中将の第38師団、廖耀湘中将の第22師団)3万2293を率い、レドを出発。両師団の前進は遅く、空中投下による補給も十分であるのに、とめどなく要求し、同行の米軍衛生隊は、自分たちの食糧・医薬品まで奪取され、懸命に看視。
日本側:
9月、牟田口は、インパール作戦準備認可を受け、第56師団と第18師団第114連隊を雲南省怒江(サルウィン川)に派遣、左岸の中国軍第36師団を一掃し、第18師団にはフーコン峡谷確保を命じる。
フーコン峡谷は、東西20~70km、南北200kmに及ぶ大盆地で、大小無数の河川が交錯し雨季は大沼沢と化するジャングル地帯。
急派された第56連隊はユパングで孫中将の第38師団を包囲するが、第38師団は戦車と重火器で円形陣地を築き、空中補給を受けながら踏ん張る。
第56連隊の突撃は損害を増すだけなので態勢再建のために退却。田中中将は、反撃を計画し峡谷北側入口シンプヤンに向かおうとするが、牟田口中将はインパール作戦の妨げになるのを恐れ、反撃を中止し、マインカン(峡谷中南部)保持を命じる。
よって、スチルウェル軍は小規模な日本軍の抵抗を受けるだけで、前進。
スチルウェルは、快進撃を期待し突撃を命じるが、第38師団もその後方の第22師団も、のんびり進み、44年1月29日、蒋大元帥から、無用の出血を避けるようにとの秘密指令が出て、孫将軍は停止。
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10月30日
・重臣ら、東条を華族会館に呼出し。
米内が東条批判、近衛が辞職勧告、若槻が後継に宇垣を推すシナリオ。
東条は閣僚4人を伴い、初めから居丈高に戦争貫徹を主張、重臣らの計画崩壊。
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10月30日
・防空法改正。鉱石配給統制規則公布。
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10月30日
・洲崎遊郭廃業。
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10月30日
・ドイツ軍、トリーニョ川で反撃
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10月31日
・裁判所構成法戦時特例改正。軍需会社法公布。
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月末
・大本営、「ろ号作戦」決定。空母3隻173機の部隊をラバウル方面に派兵。
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