2015年10月5日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(19) 「10 人の命のあるかぎり」 (その1) : 《正月一日 旧十二月四日 ・・・去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく・・・。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。》 (『断腸亭日乗』)     

萩 2015-09-28 鎌倉
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10 人の命のあるかぎり

 私は『おもかげ』を《よくまとまった好短篇》だといったが、すぐれた文学作品だとはおもわない。
 ・・・『おもかげ』では運転手豊と踊子=萩野露子の朋友との邂逅など、「趣向」かいたずらに陳腐さをまねく結果となって青年時代に歌舞伎劇の作者見習という修行体験をもったこの作家らしく、いかにもつくりもの然としている。・・・「趣向」が作品全体を古風なものにしてしまった。「現代」を映す鏡としての風俗小説としては、致命傷であろう。つづく『女中のはなし』に至っては、いかに捨てがたい味をもつとはいえ、小説としての骨格を欠いている。そのうえ『冬扇記』も、ついに作品として成立せずに終わった。

 要するに、『濹東綺譚』が実際に擱筆された昭和十一年以後、荷風の詩魂は急速に衰退した。日華戦争の勃発という事態にかさなったことも考慮に入れねばならぬ重大な原因のひとつだが、たとえ予感または自意識だけのものであって、事実とは相違していたとしても、荷風のばあい性的人間としての終末感が、作家としての終局に通じる一過程であったことはほとんど象徴的である

 明治十二年(一七七九)十二月三日生まれの荷風は『濹東綺譚』を脱稿した昭和十一年(一九三六)十月二十五日には満年齢の五十七歳未満で、彼が歿した昭和三十四年(一九五九)四月三十日には七十九歳四カ月であったから、時間的には詩魂がおとろえてから二十二年余を生きながらえたことになる。事実、戦時中に執筆して戦後に発表したものをもふくめて、彼の戦後作品に対する評価はおおむね低い。別の言い方をすれば、作家としての荷風の文学的生命は『濹東綺譚』をもってほぼ燃焼しつくされて、以後はその余燼をたもったにすぎないとみなされている。私にもそれを誤認だと言い切る勇気はないが、そうした評価が小説だけを文学作品とみがちな日本的慣習、あるいは旧来の固定観念に起因していることも看のがしてはなるまい。

 《文学者がその作品だけではなく、日記、書簡その他断簡零墨に到るまで、その自己を現わすものであることは、近時批評の発達によって明らかにされているが、断腸亭日乗はその具体的な例証であった。》

 岩波書店版「荷風全集」月報第五号に掲載された大岡昇平『日記文学の魅力』の一節だが、中村真一郎はおなじ月報第十五号の『荷風日記について』のなかでいっている。

 《荷風の日記は後日の推敲を経たものであり、それは殆んど、編集され、演出されている。私たちは、繰り返し、この日記の頁を飜している間に、その文体そのものの人工性によって、次第に事実の記録ではなく、一篇の長編小説を読むような錯覚に捉えられてくる。恐らくここで作者永井荷風は、文学者荷風という架空な想像上の人物を、長い年月をかけて創造したのである。だから、これほど巧妙に素顔を隠蔽した日記と云うものは類がない、と云うことになる。》

 ・・・こうした見解はもはやこんにちの大勢を占めていて、定説にまで到ろうとしている。げんに遠藤周作も、文芸春秋版「現代日本文学館」の永井荷風集巻末におさめられた『解説』で、《もし荷風の二作品をえらべと言われれば、どうしてもその一つとして選びたかったのは「断腸亭日乗」だった》とのべて、さらに《これは日記ではなく日記文学である。あえていうならば日記の形式をかりた荷風の長篇小説である。》といっている。したがって、私もまたこれらの見解を是認するという前提の上に立っていうのだが、明らかに他人に読ませることを目的としてしたためられたものであっても、日記はやはり日記であって、小説は小説だという現実にも儼(げん)として動かしがたいものがある。

 『断腸亭日乗』の読者なら、作品としての『来訪者』における白井巍(タカシ)と木場貞(テイ)のモデルが平井呈一と猪場毅(号・心猿)であることは誰の眼にも明らかだが、その事情は『西遊日誌抄』におけるイデスと『ふらんす物語』中の『雲』におけるアアマとの関係にも通じる。さらにまた『日乗』昭和十一年九月七日の記述にみられる《女》と『濹東綺譚』のお雪の例におもいめぐらせば、いっそう明瞭であろう。対人関係、世態風俗の推移など、事柄のなりゆきに対する興味ふかさからいっても、『断腸亭日乗』が長篇小説であることを私は譬喩(ヒユ)としてみとめるが、やはり文学の一ジャンルとしての日記だとしておくほうが妥当であろう。」

 「十三年の一月には『おもかげ』、二月には『女中のはなし』、三月には『葛飾情話』を脱稿し、五月にオペラ館で『葛飾情話』が上演されるに至ったため、四月には二十二回、五月には一日休んだだけで三十回、六月には二十三回も荷風が浅草に足をはこんでいることは前章でみておいたとおりだが、消閑の場所が銀座から浅草に移ってからのちも、しばらくの間はきゅうペるの定連であった高橋邦太郎、安東英男、沢田卓爾、竹下英一、杉野昌甫、酒泉健夫、万本定雄、大野俊夫(外務省書記生)らとの交遊は継続されながら、あらたに浅草で獲た友人知己が多数加わった。十三年は、ほぼその過渡期といえる年代である。ことに『葛飾情話』の上演を契機として深い親交をもったのは作曲者である菅原明朗と、のちに菅原の妻となった同劇の主役歌手=永井智子の両名であって、愛してやまなかったのはオペラ館の踊子たちであった。

 荷風は彼女らを喫茶店やしるこ屋へ連れ出すのをほとんど当時の日課としていて、祭礼に同行したり、その家まで送って行ったりもしているが、それらのおびただしい記述のなかから十八年十月六日の一節だけをぬいておく。

 《午後三菱銀行に行く。(略)三ノ輪行の電車に乗り合羽橋より浅草公園に至りオペラ館楽屋に憩ふ。こゝのみはいつ来て見ても依然として別天地なり。踊子二三人と共にハトヤ喫茶店に行き一茶して後仲店(ママ)を歩み請はるゝまゝにリボン化粧品など買ってやりぬ。余が老懐を慰るところ今は東京市中此の浅草あるのみ。》


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" そして、『偏奇館吟草』と二、三の小品文だけを例外として、戦後になってから発表された『浮沈』、『勲章』、『踊子』、『来訪者』、『問はずがたり』などの諸作はいずれも十六年十二月八日 - 太平洋戦争の開戦以後に執筆されているのだが、十四年、十五年から十六年上半期にかけての二年半というものほとんど何ひとつ書いていないのは、すくなくと『日乗』に関するかぎり、岩波文庫ほかの旧著が重版されたり、『下谷叢話』のような旧稿の改訂出版がおこなわれたことと無関係ではなかったように読める。金額は略すが、岩波文庫の重版にかぎっても、十五年七月には訳詩集『珊瑚集』二千部、短篇集『雪解』が二千部、同年八月には『おかめ笹』三千部、『腕くらべ』三千部、十月には『腕くらべ』五千部、『おかめ笹』八千部、『雪解』六千部といった状態である。

 しかも、その状態は十六年に入っても持続される。二月には『雪解』がまた六千部、三月には『珊瑚集」が六千部、七月には『腕くらべ』が七千五百部も増刷されているいっぽう、全集の出版企画なども中央公論社、岩波書店、弘文社(ママ)(弘文堂)の三社から申入れを受けるというありさまで、十五年五月十八日には彼自身《全集編纂のため旧作を通読》したりしているが、そうした状況と同年十月二十四日の『日乗』にみいだされる次のような記述とを対照してみるとき、思いなかばに過ぎるものがある。

 《この頃ふとせし事より新体詩風のものつくりて見しに稍興味の加はり来るを覚えたれば、燈下にヴェルレーヌが詩篇中のサジエスをよむ。戦乱の世に生を偸(ぬす)む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよしと思ひたればなり。散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。》

 ・・・私が今回十三年から二十年末に至る八年間の記載をメモしながら最もふかい感銘を受けたのは十六年元日の記であった。

 《正月一日 旧十二月四日 風なく晴れてあたゝかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子(ユタンポ)を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢をしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしく又不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるゝ事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。

 この最後の一句に託されている信念こそ、未曾有の悪時代のなかにあって、彼に発表のあてのまったくない作品をえいえいとして書きつづけさせた唯一のささえであったに相違あるまい。

 次に、昭和十九年七月三十一日の記述につづけて、同年十二月三日の一節をかかげておく。

 《余今日まで人と雑談することをさして面白しともせず。孤独の身を悲しむことも甚稀なりしが今年はいかなる故にや。日と共に老の迫り来れる為にや。この三四月の頃より折々無限の悲愁と寂寞とを覚え孤燈の下に孤坐するに堪へさ(ママ)るが如き心地するやうになれり。》

 《この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ。唯この二三年来かきつヾりし小説の草藳と大正六年以来の日誌二十余巻たげ(ママ)は世に残したしと手革包に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし。》

 それでは、その《二三年来かきつゞりし小説》とは、どのような経過をたどって執筆されたのであったろうか。

 前に『偏奇館吟草』だけを唯一の例外として、戦後になってから発表された諸作がいずれも太平洋戦争の開戦以後に執筆されたものであったと書いたが、《褥中小説浮沈第一回起草。》とあるのは昭和十六年十二月八日だからまさに開戦当日で、翌九日には《夜小説執筆》、十三日にも同一の記述、十七日には《燈下小説執筆。》、二十一日には《夜小説執筆。》、二十三日には《昏暮土州橋に至る。帰宅後机に憑る。》、二十八日には《燈下執筆三更に至る。》、二十九日には《燈下執筆毎夜怠りなし。》、三十一日には《帰宅後執筆。》とあって、十七年をむかえた一月二日には《燈下執筆。》、三日には《夜々机に憑る。》、九日《終日執筆。》、十一日《蓐中小説の稿をつぐ》、二十五日《小説浮沈執筆》、二月一日には《終日蓐中に在りて小説の草稿をつくりぬ》、五日《終日机に憑る。》、八日《燈下執筆暁明に至る。》。十一日《年譜をつくる。》、十三日に至って《小説の草稿稍進むこと得たり。〉、二十日《終日家に在り。小説執筆。》、二十四日には同文、三月一日には《午後執筆。》、六日には《薄暮浅草より玉の井を歩す。帰宅後執筆暁三時に至る。筆持つ手先も凍らざればなり。》、八日《終日小説執筆。》、九日《夜濹東に遊ぶ。帰宅後執筆。》、十二日《燈下執筆暁明に至る。去年十二月起稿の小説漸く結末に近し。》、十九日《小説浮沈脱稿。》ということになる。この間、約百日である。

 そして、同月二十一日に《終日小説浮沈草稿浄写。》とあるのは納得できるのだが、月の変った四月三日に《初更帰宅小説浮沈続編(ママ)起稿。》とあって、それきり後につづく記述がまったくみられないのはどういうことなのだろう。岩波書店版「荷風全集」第九巻の『後記』には、《中央公論社版・東都書房版には、このくだりは、「後半改竄」とある。とにかく、四月、新たに加筆したらしい。》とされている。

 のちにのべるが、『来訪者』のモデル猪場毅と平井呈一の二人に荷風が被害を受けたのはこの前後で、そのため『浮沈』の執筆もしばしば妨げられている。

 妨げられるといえば、誰にも思い違いや記憶しがたい文字はありがちで、私が親しくしているある作家は、推薦の薦の字がどうしてもおぼえられないという。私のみたものはすでに活字化された全集であって、原稿そのものではないから、中には誤植もあるかもしれないが、荷風のばあいは《防ぐ》を《妨ぐ》と書き、《妨害》を《防害》と書き違えるような習癖があって、《リヤカア》を《ギヤカア》と書いているような例もある。また、《ひとりごと》を《ひとりこど》、《一枚づゝ》を《一枚つゞ》、《だけ》を《たげ》とする濁点の打ち違いが、特に戦時中の『日乗』にはかなり目立つ。掌中の珠のようにしていた『断腸亭日乗』であるだけに、こうしたほんの些細な現象からも、当時の荷風の日常が悠々自適というわけにはいかなかったありさまがうかがわれる

 ところで、十七年三月十九日に『浮沈』を脱稿した荷風は、同年十二月二日の《夕飯後幼時の回想録冬の夜がたり》を起稿して《暁四時に至って就眠》ののち、翌三日にも《終日執筆。》したが、それを思い切って中途で放擲して(完成は十八年十一月九日)、四日から《短篇小説軍服》を起稿している。そして、早くも六日には書きあげて翌々八日中央公論社長嶋中雄作に郵送したのにもかかわらず、十二日の条には《島中氏返書あり。小篇軍服は掲載中止となす。》という記述がみられる。《掲載中止》は自発的なものではなく、掲載不能の意で、時代はそこまで行き着いていたのである。『軍服』は後年の『勲章』で、そのモデルは浅草オペラ館の楽屋に出入りしていた《堪忍屋》という実在の弁当屋の《年六十ばかりなる老爺》であったことが、十三年十月二十四日の『日乗』に照合すれば判明する。
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