2018年7月1日日曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート10 (明治42~43年)

大船フラワーセンター
*
明治42年
黄興の鹿児島訪問
黄興は、日本亡命中の明治42年1月、西郷隆盛の墓(南洲墓地)へ参るため、宮崎滔天に案内されて鹿児島まで足を運んでいる。そのとき西郷隆盛を偲んで詠んだ詩が、2007年、南洲墓地の一角に記念碑として刻まれた。

八千子弟甘同塚 幾千もの弟子が師とともに塚に眠る
世事唯争一局棋 世事はただ一局の囲碁の争いなり
悔鋳当年九州錯 悔やむは往年の西南戦争の敗北にして
勤王師不撲王師 勤皇の師はもとより皇軍の師を滅す意にあらず

明治42年
魯迅の帰国
魯迅たちが住んでいた西片町の貸家から二人の留学生が帰国のため出て行った。もはや家賃を負担しきれず、魯迅と弟の周作人、許寿裳は同じ西片町の小さな借家へ引っ越した。許寿裳はドイツ留学の準備をしていたが、奨学金のメドが立たずに帰国した。魯迅と弟だけが残った小さな家には、家付きの賄い婦として働いていた羽太信子がいて、まもなく周作人と恋仲になり、結婚したいと言い出した。

そのとき魯迅は決然と行動した。
自分には親に強いられて結婚した女性がいた。「母親のプレゼントだから、自分には関係ない」と嘯いてみたが、中国の因習に逆らう力を持たない自分に、忸怩たる思いがあったのだろう。弟にだけは「自由恋愛」してもらいたくなった。魯迅は、結婚を渋る羽太信子の父親に向かって「破格の条件」を出した。弟・周作人の留学資金ばかりか、信子との結婚生活費、羽大家の両親と兄弟の生活費すべてを負担しましょうと約束した。それらすべてを賄うために、魯迅は自らの留学生活を断念して、収入の糧を得るため帰国して就職していった。

魯迅が出世作『狂人日記』を書くのは9年後の1918(大正7)年。夏目漱石、芥川龍之介、有島武郎に心酔し強い影響を受けたとされる作風は、風刺とユーモアにあふれ、世相や伝統を鋭く突いた社会批評であった。中国になかった「短編小説」という形式を用いたことで、中国の文学形式を「近代化」した典型例として絶賛された。
魯迅は、藤野先生の写真と上野博覧会で買った小さな七宝焼の花瓶をいつも机に飾り、朝顔の咲く家を終生忘れることはなかった。

明治43年
蒋介石の振武学校卒業
明治43年夏、蒋介石は振武学校を卒業した。総合成績68点。卒業生62名中で55番。
12月、蒋介石は新潟県高田町(現、上越市)の日本陸軍第13師団砲兵第19連隊に二等兵として配属された。
配属先ではもっぱら馬の世話をさせられた。しかし、蒋介石は乗馬が得意ではない。後年、国民政府大総統に就任して閲兵式に臨んだとき、騎乗して閲兵していたところ、なにかの拍子に驚いた馬が立ち上がり、蒋介石を振り落して逃げ去った。泥だらけになり足を引きずりながら閲兵したという逸話が残っている。

蒋介石は、日本兵を真似て毎朝冷水で顔を洗い、上半身裸になって雪中で乾布摩擦をした。そのあと厩へ行って馬の体を力いっぱいブラシで梳いてやり、床に散った馬糞を掃除して清潔な藁を敷きなおし、水と飼葉を新しいものに取り換える。すべてやり終える頃には、全身から汗が噴き出した。

入隊直後の蒋介石の身長は1m69.4cm、体重59.2kg。決して大柄ではないが、厳しい鍛錬に耐えて真剣に取り組んだせいで丈夫になり、多少のことでは動じない我慢強さも身についたと、蒋介石自身が振り返っている。彼は日々の訓練を通じて、合理的な教育方針が貫かれていることに感銘を受けた。このときの体験が、後に蒋介石が黄埔軍官学校の校長に就任した際、実地訓練の手法として大いに生かされることになった。

明治43年
宋教仁の「中部同盟会」
この年、孫文の九度目の武装蜂起が失敗したとき、東京の留守宅である中国同盟会本部で赤貧に甘んじながら細々と活動していた宋教仁は、とうとう堪忍袋の緒が切れて、孫文に反旗を翻し「中部同盟会」を組織した。

宋教仁の革命戦略は三つ。
上策は、首都・北京を一気に攻めて北京政府を倒すこと。
中策は、揚子江流域を攻めて地元の湖南省を中心にして独立を宣言すること。
下策は南部と辺境地区で蜂起することだが、これは孫文がやって失敗した。
仲間たちと相談した結果、いきなり北京を攻めるのは無理だと踏んで、中策の揚子江流域にターゲットを絞りこんだ。孫文のように外国勢力に頼らず、自分たちの力だけで短期決戦することが、大きなポイントだった。揚子江流域の南京、武漢一帯にかけて、地元の革命組織と連携を図り、ネットワークを広げていった。清朝の新軍内部にも革命勢力を浸透させた。
(翌1911年、武昌の新軍が蜂起を成功させ、以降、次々と革命が成功し、全国18省のうち11省が清朝政府からの「独立」を宣言した。)

(つづく)

0 件のコメント: