2018年7月22日日曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート13 (大正5~6年)

平川濠
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大正5(1916)年10月
黄興の病没
清朝皇帝の退位と引き換えに、孫文が臨時大総統の地位を譲った袁世凱は「帝政」を強要したため、再び袁世凱打倒のための「第二革命」が起こる。だが失敗。
孫文は日本へ逃亡し、黄興は日本経由でアメリカへ旅立った。

そして4年後の1916年、黄興は再び孫文とともに「第三革命」を起こそうと、アメリカから帰国したが、その矢先、黄興は滞在先の上海で大量吐血に見舞われた。
10月30日、再度の激しい発作に襲われ絶命。末期の胃癌であった。見守りつづけたのは、日本生まれの黄興の息子、宮崎滔天、孫文ら同志たちだった。

東京朝日新聞(1916年11月1日付)には黄興の訃報が大きく取り上げられている。
「革命の一生」という見出しをつけた記事には、黄興の人生が詳しく紹介され、生前親しかった日本の著名人のコメントが添えられている。

支那の大西郷・・・・・一口に彼を評せば、底力の知れぬ丁度西郷南洲の如き人物であった。彼は平生から深く南洲に私淑し、南洲の経歴言行等に就いて、細大と無く調べて居ったが、彼の南洲に彷彿たる偶然では無い。

こうコメントしたのは法学博士の寺尾亨。東京帝国大学教授で、日本の国際法の開祖、辛亥革命に肩入れして日本政府から疎まれ、教授職を振り捨てて訪中し、中華民国臨時政府の初の憲法「臨時的法」の作成に尽力した。
大正5(1916)年当時、寺尾亨博士は東京で中国人留学生のための私塾、政法学校を開いていたが、黄興は最後まで政法学校の運営費用について気にかけていたという。

黄興の計報に接して、傷心のコメントをした人にもうひとり、政治家の犬養毅。

(黄興)氏は革命党の領袖中でも非常に調和性に富み、包容力が大きく、従って希望ある人で、他日大総統ともなる資格を持った人である。ことに氏は長く日本に遊んでおったので、東洋のことは日支親善に俟たねばならぬと堅く信じて居った人である。…‥この人物を失うは民国のため惜しむのみならず、東洋永遠の平和を確立する上に於いて頗る遺憾である。

「中国の西郷隆盛」は、当時の日本人の心にも深く刻まれた人だった。

生前の黄興は、こんな言葉をよく口にしていたという。

自分には大願がある。それは威力を得ることである。およそ支那の如き国でことを挙げるには、威力がなくてはならぬ。言論では駄目だ。自分は必ずこの威力を勝ち得て、自分の素志を達するつもりである(寺尾亨博士談)。

大正6(1917)年
天津出身者が親睦団体「新中学会」を設立
黄龍旗はためく清国チャイナタウン
早稲田大学の近く、鶴巻小学校前交差点を左折した鶴巻小学校正門前あたり(住所でいえば、新宿区早稲田鶴巻町107番地、112番地、140番地~142番地などがある区画)には、かつて早稲田大学の清国留学生のための第一、第二宿舎があった。「新中寄蘆(しんちゅうきろ)」と呼ばれた宿舎には部屋が17~18あり、炊事、洗濯、掃除、守衛まで、留学生たちが自主管理していた。宿舎周辺には中華料理店の「時新店」、「維新園」、「早稲田華園」、食品雑貨店、留学生が自主経営する清国式の理髪店などがあり、どの店先にも清国の国旗「黄龍旗」が高々と掲げられていた。

留学生は方言や生活習慣の違いから、出身地ごとに同郷会を作って助け合っていたが、辛亥革命(1911年)が成功して清朝が崩壊し、中華民国の時代になっても、「黄龍旗」が姿を消した以外、チャイナタウンの様子はあまり変わらなかった。

大正6(1917)年に天津出身者が設立した親睦団体「新中学会」では、毎週末に宿舎で座談会を開いていたことが『周恩来『十九歳の東京日記』』(矢吹晋編、鈴木博訳、小学館文庫、1999年)に記されている。
早稲田大学周辺には多くの下宿屋もあり、三国館、弥生館、保陽館、公文館、信陽館、福井館、東京館、金城館、静井館、大成館、鶴巻館、東陽館、鶴声館、秋林館、尚文館、北越館、愛宕館、岬館分店、寿館、日出館、都留館、風光館、千葉館、三吉館、春芳館、玉水館、崎越館、松葉館などの名前が残っている。

大正6年(1917)
周恩来(19歳)の来日
周恩来は、1898年、江蘇省の貧困家庭に生まれ、1歳で伯父の養子になり、9歳で実母が他界すると、養母の親戚の家へ引き取られた。翌年、養母も他界し、今度は実父の弟にあたる叔父に引き取られた。その叔父が天津へ転勤するのに伴い、天津にある全寮制のミッションスクール、南開学校の奨学生になった。

周恩来は成績優秀で、品行方正だった。学校の雑用係として働きながら勉強し、論文コンテストで一等賞をとり、校内雑誌を創刊したり、劇団を作って女役を演じて評判になったりと、学内ではだれもが知る積極的で優秀な学生だった。卒業時には89.72点の優秀な成績を残し、国文最優秀賞をもらい、日本留学生に選ばれた。

大正6(1917)年8月、周恩来(19歳)は学校から提供された奨学一時金を懐に、同級生5人とともに天津から船に乗り日本に向かった。
東京では、友人と2人で神田区の家具屋の二階に下宿した。入学したのは神田区中猿楽町5番地にある東亜高等予備学校(戦後、学校跡地にできた愛全公園に「周恩来ここに学ぶ」の石碑が建てられた)。

周恩来は東亜高等予備学校で日本語を学びつつ、官立の高等学校の受験準備をする積りだったが、入学してみると、思いもよらない誤算が生じて大きな壁に突き当った。

周恩来が天津の友人に宛てた手紙に、「私は今、日本語の準備中ですが、たいした困難はありません」と書きながら、一方では、南開学校で学んだ数学、物理、化学などの英語の教科書を見ながら日本語で考えるのが大変だと訴えている(『留学日本時期的周恩来』、中国・中央文献出版社)。

天津の南開学校はミッションスクールであったため、授業は国語(中国語)以外、すべて英語で行われていた。そのため周恩来は数学の数式から物理や化学の実験、美術のデザイン表現にいたるまで、すべて英語で習い覚え、英語の教科書を持参して来ていた。
ところが日本では、これらをすべて日本語で表現しなければならないため、これまで学習した知識はそのままでは役に立たず、改めて日本語で学び直さなければならない。つまり、頭の中で、英語-中国語-日本語という具合に翻訳した後、新しい知識を吸収する準備ができるという手間のかかる作業をこなさなければならなかった。
周恩来はジレンマに陥り、留学に思い描いていた高い理想と知識欲が急速に萎んでいくのを感じた。天津時代のはつらつとした態度は影をひそめ、積極性を失い、勉強に身が入らなくなった。

留学した時期が悪かったこともある。
明治38(1905)年の日露戦争で勝利した日本は中国大陸への進出を企てていたが、大正3(1914)年、第一次世界大戦勃発を好機ととらえ、ドイツに宣戦布告してドイツが占領していた山東省の膠州湾を攻撃し占領した。翌大正4(1915)年、西欧列強がヨーロッパ戦線に追われて戦力が手薄になった中国で、日本は袁世凱の北京政府に対して二十一ヵ条要求を突きつけた。山東省の権益、南満州から内蒙古、華中にいたる広大な地域の権益を要求するという強引なものであった。5月7日、日本に最後通牒を突きつけられた袁世凱は受け入れることを承諾し、5月9日、条約に調印した。

中国の人々は激しく反発した。日本にいた留学生たちも学業のボイコット運動を展開し、一斉に帰国して反日運動を起こしたが、北京政府の手で鎮圧された。この屈辱を肝に銘じて、中国では5月7日を「国恥記念日」と決めた。

周恩来の来日は、その2年後の大正6(1917)年で、翌大正7(1918)年、間もなく「国恥記念日」(5月7日)を迎えようとしていた時期に、留学生たちは新たな難局に直面した。
ロシア革命後、社会主義の支配力が極東へ波及するのを恐れた日本は、先手を打ってシベリア出兵をしようと目論んだ。そして内蒙古から外蒙古へかけて日本軍が自由に進駐する権利を得ようと、袁世凱亡き後を継いだ段祺瑞の北京政府と日華共同防敵軍事協定を取り交わそうとした。段祺瑞内閣はその代償として日本から借款を得る密約を交わしていることも発覚した。
留学生たちは騒然となり、日本が中国侵略の野望を露わにしたもめと受け取った。授業をボイコットして一斉に帰国しようとする運動が始まった。各校で留学生集会が開かれ、代表大会を5月6日に開くことが決められた。

周恩来の日記。
早大は昨日、授業を放棄して帰国することを議決した。昨日、各省の同窓会の幹事、代表は宴会を名目に維新號に集まり、帰国総機関幹事を選出した。そのあと、日警に拘束されたが、まもなく釈放された。昨日、帰国を議決したなかに広東、浙江などの省があり、今日にいたって各省がすべて議決した(『周恩来『十九歳の東京日記』)。

しかし、周恩来自身はこうした運動の中心的存在になることもなく、時局の推移を淡々と記録するに止まっている。南開学校から支給された奨学一時金がそろそろ底をつき、なんとか官立の高等学校へ合格して中国政府の奨学金を得なければならなかった。だが、日本語能力の不足から官立の高等学校の受験に失敗し、明治大学政治経済科に籍を置いた。"

安い下宿を探し求めて点々として、牛込区山吹町の金島金物店の二階、神田の玉津館、神田区中猿楽町3番地(現、千代田区神田神保町2丁目)の下宿、日暮里(現、台東区谷中5丁目)の霊梅院、神田三崎町の中国人の所有の家、中野の赤羽(現、中野区東中野5丁目18番)の下宿屋などを点々としながら、友人たちから借金して食いつなぐ日々が続き、激しいホームシックにかかった。
6月13日(旧暦の端午の節句の日)の日記には、「たちまち懐旧の情に囚われ、悲しく」なり、中華料理店の「第一摟」に駆け込んで母国の味を噛みしめる様子が記されている。

(つづく)

過去記事
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