から続く
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
宇野浩二〔作家。上野櫻木町で被災〕
9月2日あたりから、一部の過激思想の✖✖✖がこの騒動に付込んで放火するとか、爆弾を投げに来るとかいう流言が伝わって、実際そういう事実が幾分はあったのだろうが、それが非常に過大に伝えられた。それで私たちの町内でも一軒に一人ずつの男が出て、辻々を警戒することになった。私もその一員として、5、6人の人たちと一緒に、ある晩四辻の角にステッキを持って出ていたところが、その中の一人が言うには、ここの所は東西南北ともに直そこにやはり辻があって警戒の人たちが大勢出ているから何にもならない。それよりも公園の中の、美術学校と図書館との角の入口のところを警戒する必要がある、あそこを通って、学校の中にもぐり込まれたら、それこそ何をされても分らない、と言われてみるとそうに違いなかった。しかし、そこは人家をかれこれ1丁も離れた所にあったから、誰も彼も表面は賛成しない訳にいかなかったが、内心余り動かなかったが、賛成した以上、否という訳にいかないので、6、7人の人数を選んで出かけて行くことになった、その中に私もまた入れられたのである。
そこは丁度三つ角になっていて、一方は図書館の前の木立で他は美術学校側の草の生えた石垣で、もう一方は公園の針金の垣を廻らした草原になっていた。その草原の中には数多の焼出された避難民たちが、思い思いの木の枝や、あるいは亜鉛板や、戸板や、テントなどで屋根を張って、野宿していた。私たち警戒員は思い思いにその三方に陣取って、通行人の張番をしていた。初め、これから谷中の天王寺へ行く者とか、これから埼玉県大宮へ帰る者とか、日暮里の方へ帰る者とかをつかまえて、その人たちを誰何している時分はまだよかったが、いつか夜が更けて、人通りがなくなり、時々2人連れ位の剣つき鉄砲の兵隊が靴音をさせながら通ったり、巡査が3、4人ばらばらに駈けて行ったりする外、すっかり四辺が鎮まりかえってくると共に、言わず語らずのうちに各は物凄い気特に襲われだした。
その時、突然、遠くの方で2、3人の叫び声として、「警戒!」と聞えてきた。間もなく在郷軍人のような恰好の男が暗闇の中から走って来て、「3名の黒い着物を着た✖✖が第一のお霊屋の中に入った!」と呼んで通った。すると間もなく、一人の巡査が走って通って言うには、「郵便配達の姿をした者に注意!」
その時、その第一のお霊屋と思われる辺で、トン、トン、トンと3発ほどつづいて銃声が起った。10人ばかりの兵隊がその方面に向って駈けて行った。「みんな火を消して下さい、避難の人たちもみな提灯を消して下さい!」と叫ぶ声が起った。
私たち警戒の者たちも持っている提灯の火を吹き消した。「みんな、危ないから地面に蹲(しゃが)んでください」とその中の一人が言った。「我々は飛道具を持っていないんだから、捕縛に行く訳にはいかない。ですから、ここでこうして息を凝らして忍んでいて、もし怪しい奴が通りかかったら、そッとそいつの後をつけるか、直に軍隊に報告するか、そうするよりしょうがないでしょう」
言うまでもなく、私は非常に驚かされた。その時、先とは違った方角でまた2発ばかり銃声が聞えた。警視庁と貼紙をした自動車が非常な速力で私たちの前を通り過ぎた。私たちは草原に腹這いになりながら、息を殺してそれらの様子を見ていた。
〔略〕やがて、曲者は2人お霊屋の門の傍で捉えられたという報告が来た。が、まだ明りは消したままにということだった。無論、言われなくても、誰も明りをつけようとするものはなかった。私たちは言わず語らずのうちにも、先の銃声(それは後で考えてみると、曲者側でうったのではなく、兵隊の方からの空砲らしかった)に嚇かされていたので、心の中ではこんな危険な線の警戒は一刻も早く引上げたく思っていた。しかし、お互いの手前引上げようと口に出すことができなかったので、それからいまだ1時間以上も、その暗がりの中で蹲んでいた。〔略〕その時私の蹲んでいる草原から、針金の柵を隔てた往来を巡査らしいものが歩いて来る靴の音を私は聞いていた。が、互いに警戒に従事しているものだからという位のつもりで、否私はほとんどそんな事は気に止めないで、一心に星と星の図を見比べていた。と、
「誰だ!」と真に破れ鐘のような声が私の前で叫んだ。それは無論決して巡査などの持っている声ではなかった。兵隊でなければ、外の誰もがこういう声を持っていなかった。そして声と共に、私の目の前へ剣つき鉄砲の尖が突き出されていた。その時の私の驚きは先の銃声の時の何層倍だったろう。だが、幸いな事に、私自身が不思議だったほど、それに対する答が落着いていた。「櫻木町の警戒の者です」と私がいつも興奮すると出るところの表面だけは妙に落着いて聞える声で答えたのだ。そこへ他の仲間の警戒員たちが弁解に来てくれた。
(「夜警」『新潮』1923年10月号、新潮社)
海住爲蔵
〔2日夕〕上野の山にては鮮人、井戸に毒を投じて毒殺を企てたとか、婦人に暴行を加えた上、惨殺したとか、残存家屋には片ッ端から、爆弾放火するなどと、さながら暴行の現状を見たるが如き流言蜚語盛んに伝わり人心恟々として避難者は極度の反抗心を起し、鮮人殺せの声が挙げられたり。間もなく、血どろの鮮人そこここに叫び馳せ回り一大修羅場を現出し、加えるに四囲の紅蓮は天に漲り煙風渦を成し、上野停車場及駅前の旅館、料理店を舐め尽したる猛火の動もすれば上野の山に向わんとし火塊吹雪の如く飛びこれに雨さえ加わる。幾十万の避難者は狂気の如く喚声を挙げながら逃げ回る。
(『大阪工業倶楽部』1924年8月号、大阪工業倶楽部)
風見章〔政治家。当時『信濃毎日新聞』主筆〕
〔『信濃毎日』老記者の話〕2日の夕刻薄ぐらくなってから上野公園にさしかかると、そこで何人かが鮮人と間違えられたのであろう、民衆から或いはピストルで射殺され、或いは木刀や棍棒などで撲殺されたのを目撃した。
〔略〕越後のある地主が娘の緑づいた家に地震見舞いのため上京したが、〔略〕2日の夜上野に着いてみると、どこもここも見渡すかぎりの焼野原になっていたので、まず上野公園へたどり着いたのであろう、そこで無惨にも鮮人とまちがえられなぐり殺されたことが、何日か経ってあきらかにされたそうだ。
(河北賢三・望月雅士・鬼嶋淳編『風見章日記・関係資料』みすず書房、2008年)
加太こうじ〔評論家〕
上野公園では2日の午前中から、朝鮮人を焼け木杭といえる材木に縛りつけて、台地下の燃えている上野駅の火中に投げこんで焼殺した。それは、浅草の家が焼け落ちるのを見届けて、一夜を上野公園ですごした私の父が目撃している。
(加太こうじ『浅草物語』時事通信社、1988年)
清水正〔当時浅草区千束町在住〕
「2日から3日の火災は不逞鮮人の放火上野駅岩崎邸の焼けたのも彼等の放火のため」
私は上野の交番前で市民のために打殺された30名ばかりの鮮人の死骸を見た。私の避難した七軒町のお寺でも2人の鮮人が捕縛されて打ちのめされていたし、浅草方面では軍隊に突殺されたり在郷軍人青年団員のために多数の不逞鮮人が撲殺されていた。
(『河北新報』1923年9月6日)
曾我祐準〔軍人、政治家。上野精養軒に避難〕
〔2日〕中夜又突然鮮人暴挙の蜚語頻りに至り、警吏の如きもの〔上野〕山中を大呼して避難民を谷中墓地に行かしめんと欲したるも、応ずるもの甚だ多かざりしが如し。
(曽我祐準・坂口二郎編『曾我祐準翁自叙伝 - 天保より昭和・八拾八箇年』曾我祐準翁自叙伝刊行会、1930年)
高齢峰吉〔上野動物園飼育係〕
動物園に兵隊さんが配置されたのは、2日目の夕方からであった。朝鮮人が、猛獣たちを市中へ放すかもしれないとまことしやかに噂されていたので、私たちも兵隊さんの気持ちで、「山」と「川」の合言葉をつくり、不気味な動物園の庭を警戒しなければならなかったほどである。
(「動物たちと五十年」東京都『上野動物園百年史』東京都恩賜上野動物園、1982年)
橘家圓蔵〔落語家〕
〔2日、上野公園で〕ホッとしたのも束の間、「朝鮮人が竹槍で押し寄せてくる」という噂が流れた。嘘だという人と逃げようという人とに意見が別れた。〔略〕松坂屋が燃え始めていた。
(山口正二『聞書き 橘家圓蔵』青蛙房、1981年)
寺田虎彦〔物理学者〕
〔2日、千駄木曙町に〕帰宅して見たら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇人の放火者が徘徊するから注意しろといったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩く為には一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
(『寺田虎彦全随筆5』岩波書店、1992年)
橋爪芳次郎〔神田金沢町で被災、神田明神境内へ避難〕
〔2日夕、御成街道上野歓楽郷前で〕家財にとりついてウトウトとまどろむや、忽ち「不逞○○が荷物に放火して歩くから注意しろ!」という警報が、乾き切った人々の口から口に伝わった。
〔略。3日朝〕○○来! の流言は益々猛烈になった。曰く「井戸に毒薬を投入した!」 曰く「避難民に毒を入れた握り飯を与えた!」 曰く「小屋の集団地へ爆弾を投じた!」。遂に壮者は日本刀を鞘払い、或いは鉄棒をふりかざした。やがて大雨が来て、余塵が漸く細々の白煙をあげる頃には、「今夜あたり、○○活動の好機会であるに違いない」と言いふらされた。
(中央商業学校校友会編『九月一日 罹災者手記』三光社、1924年)
村田重○
〔2日、上野公園で〕その夜から地震火事のほかに鮮人騒ぎが起った。避難者は巡査の注意で女子供は草木の蔭や土手の後ろの暗い所に身を潜め、男子は適宜の獲物を持て防禦の準備をなし、或は警戒に立った。中には提灯や裸蝋燭を灯している人もあったが、鮮人襲撃団に目標を明示する恐れあるとて皆消灯した。まず小さな戦争騒ぎである。
山の手方面の焼け残りの市街は、鮮人が放火の恐れあるからとて、これも巡査の注意或は懇願で自警団を組織して版画にかいた山賊という体裁で巡警しおる。〔その後避難した〕中野でも町内で自警団を組織したが、拙者の宅は団員の希望により邸内を自宅で自警することになった。しかし渡辺爺や池田運転手が恐怖して、邸内さえも巡警しないから、2日夜は拙者が夜警団の一人となった。いかに一般が恐怖していたかが推察されるであろう。例の掠奪や殺人事件の起ったのもこの時である。
(『大正十二年九月一日大震災回顧録』1924年、国会図書館所蔵)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿