2018年10月5日金曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(5) 1921年(大正10年) 長谷川利行(30歳) 「俺は絵をやる」 矢野(文夫)との出会いは利行に絵の道を選択させることになった。

里見勝蔵(1895-1981)《静物》 1926大正15年 東京国立近代美術館蔵
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若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(4) 吉井忠 松本竣介 寺田政明 古沢岩美 生まれる
から続く

1913年(大正2年)
靉光6歳、生活苦から伯父石村梅蔵(広島市内で醤油つくりの職人をしていた)のもとに養子にやられる。
養母アサは非常に気性のはげしい典型的な明治女性だったといわれるが、梅蔵とともに日郎を眼にいれても痛くないほどかわいがり、靉光(日郎)もそうした父母の愛情に感謝していたという。

妻キヱの回想
「貰い子だったせいか、石村には生まれつき人間に対する用心ぶかさ、疑りぶかさ、それに、自分は自分で生きてゆくといった強い独立心があったようです。・・・。養父母とはいえ、親子の間柄なのに、・・・。石村には幼いころから、そうやって肉親の愛情すらも、まっすぐにうけとることのできない悲しい性分みたいなものがあったような気がします」

「けっきょく、石村はそんな素直でない自分の性格を自分でもよく知っていて、それを忘れるために絵を描いていたような気がするんです。・・・。絵を描いているときの石村の顔は、たしかに思った通りに筆が運ばないときなど、苦し気に歯を食いしばったり眼をとじたりしていましたが、ある意味でそれだって絵と自分だけの幸せな時間だったのかもしれません」

人の善意、親の慈しみをもどこかで心の秤にかけて生きねばならぬ靉光の孤独というか、どこか屈折した自我のようなものがあるような気がしてならない。ものごとにもう一つ素直になりきれぬ靉光のさみしさとでもいったらいいだろうか。私の眼には、その生いたちがもつ微妙な屈折もまた、やはり画家靉光の芸術をうちがわからささえていた大切なエネルギーだったのではないかと思われてくるのだ。
いや、屈折が芸術をささえていたというより、そういった自らの宿命に対する精神的な身構えのようなものが、靉光の絵をあれほど妖しく奥ふかいものにみせていたといえるのではないだろうか。
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯』)

広島市幟(のぼり)町尋常小学校から同市東高等小学校に進むが、その頃から画才を認められ本人も画家になりたいという志を持ちはじめる。
養父母はそれに反対で、小学校卒業後同市大手町にあった谷口印刷所に就職し、版下と図案を担当するようになった。
赤い軸の極細の面相筆で細い罫をひき、図案を描く技術を、たちまちのうちに身につけ、ちかくの活動小屋からハリウッド女優が映っているフィルムの齣(こま)を手にいれては、綿密な似顔絵をものするという慰みごとまでやってのけた。
印刷所では、野村守夫や灰谷正夫といった同じ絵描き志望の仲間と出会い、画家への夢は高まる。

1913年(大正2年)
3月23日、麻生三郎、東京府京橋区本湊町に生まれる。

1917年(大正6年)
3月、佐伯祐三(19歳)、北野中学校を卒業。上京して川端画学校で藤島武二の指導を受ける。秋には岡田三郎助の本郷洋画研究所に学ぶ。
1918年(大正7年)20歳
4月、東京美術学校西洋画科予備科に入学。秋には本科に進級、長原孝太郎にデッサンを学ぶ。
1919年(大正8年)21歳
池田米子と知り合う。米子は銀座の象牙細工問屋兼貿易商の娘で、川合玉堂に日本画を学ぶ。
1920年(大正9年)22歳
9月1日、父祐哲死去。
11月、池田米子と結婚。

1918年(大正7年)
福沢一郎、二高を卒業し東京帝国大学文学部へ入学したが、次第に大学から遠ざかり、朝倉文夫に入門し彫刻を学ぶ。
1921年(大正10年)
朝倉らの蛮呶羅社彫刻展に出品

1919年(大正8年)
中学中退から10年、歌人、長谷川利行(28歳)のデビュー。利行の名前が突然、雑誌に登場。

珠草(たまくさ)の珠(ため)の実(みのり)の色づきて爽(さや)かの風に鳴る幽(かす)かなり
京都府山科村 長谷川利行
(『講談雑誌』大正8年1月号)

『講談雑誌』は博文館発行の大衆娯楽雑誌で歌人の生田蝶介が編集し投稿短歌欄の選者も兼ねていた。
特選作に賞金1円が贈呈されるため多い月は7千首が寄せられたこともあった。
利行のデビュー作は特選10首をはずれ佳作の第1席となったが、2作目は特選の第1席に選ばれ、以来、特選の常連となった。
利行にとって高い評価をしてくれる生田蝶介は、人生の転換期にあった彼に将来の水先案内人として望外の示唆をもたらしてくれることになる。

同年9月23日、私家版歌集『長谷川木葦集』を刊行。
巻頭序歌として生田蝶介の「やぶさやぐ音をきゝつゝひねもすを思ひくらす児にふくな秋風」を掲載。出版所は博文館印刷所。利行は博文館の『講談雑誌』短歌欄の特選の常連なので、て編集責任者生田蝶介となんらかの交渉があったと推測される。"

『講談雑誌』短歌欄で刊行より3、4年前に活躍した前田孤泉、それが緑で大阪の新聞社に職を得て、今は『講談雑誌』や『小説倶楽部』に小説・情話・探偵物を書いて身を立てている。
利行はこの時期、文芸を生業とすることを考え、その端緒の橋渡しを生田蝶介に求め手紙で事を相談している。そして、蝶介もまた利行の力に添えるよう心遣いを見せている。

1920年(大正9年)
『講談雑誌』(大正9年2月号)短歌欄では、前田孤泉は一文を寄せ、
「最近では京都の長谷川木葦君がふるっている。静かな心地で自然を見つめている姿が歌の上にはっはっと現れている。私はこの人の将来を嘱望してやまない」と利行にエールを送っている。長谷用木葦の号は、『木葦集』の上木が迫った頃から使い始めたものである。

同誌(大正9年4月号)では、2月号特選10首の寸評を利行が署名入りで書いている。利行への生田蝶介の思い入れの深さが伝わってくる。歌壇にあって生田は特定の師を持っていないため今日の地位を築くために数多くの辛酸を舐めており、それがいっそう若い才能に対して後押しさせているのかもしれない。
利行は翌大正10年、東京に出て行き、生田蝶介の世話になり、生田を煩わし、やがて袂を分かつことになる。"

1921年(大正10年)
長谷川利行(30歳)、この頃上京。歌人・生田蝶介への入門と訣別
生田蝶介との縁で『講談雑誌』に大衆小説「浄瑠璃坂の仇討」を発表する。

『講談雑誌』は時代小説が中心の娯楽雑誌でカラー口絵の伊東深水の美人画が評判になっていた。
上野駅に近い生田蝶介の自宅に編集部が置かれ、執筆者や画家など30人近いスタッフが出入りしていた。岩田専太郎が挿絵画家としてスタートしたのもここだった。
モボスタイルの長谷川利行は編集部の雰囲気が似合っていた。背が高くお公家さまを思わす顔立ちは目立った。彼は短歌をつくる以外にこれといった仕事はなかったが、1日のほとんどを生田蝶介の仕事場で過ごした。
文芸で身を立てるべく生田を頼って上京したものの、仕事の注文はなく、今までと同様短歌をつくり、絵を描いているばかりだった。
上京に先立ち父・利其が毎月30円の仕送りを約束しており、歩いて行けるすぐ近くの永住町に下宿を借りている。
利行の鬱々とした日々の心境は歌にも現われ、やがて『講談雑誌』の投稿もやめることになる。
そのきっかけとなったのは、生田の門人で大日本印刷の植字工である千葉文二(青花)と同郷の友人矢野文夫と出会ったことである。

「初対面の利行はすでに三十近い年齢で、陰気で口数も少なく、東海道五十三次を、テント旅行でスケッチして歩いた、などと話した。一緒に、駿河台下の『カフェ・パウリスタ』でコーヒーを飲んだのであるが、利行は一隅に十五号位のカンバスを画架に立てかけ、一瀉千里の勢いでカフェの内部を描いた。それは、嵐のような烈しい筆勢であった。その時は、三原色だけでなく、ガランスやエメラルドやブラックをふんだんに使用していたように思う。…その時、あした京都に帰るといっていたので、東京に定住していたわけではないらしい」(矢野文夫『長谷川利行』)。

矢野は早稲田の予科の学生で利行より十歳年下だった。彼は詩をつくり、フランス語でボードレールの詩を暗誦して利行をひどく驚かせた。
利行の知らない外国の詩人や作家にも詳しく、遊郭にも出入りしていて話題が尽きなかった。自分の勉強不足を突きつけられて利行の気持ちは一番得憲であった絵に傾いていった。
「俺は絵をやる」
矢野との出会いは利行に絵の道を選択させることになった。
利行は、東京の街を歩き、そこらじゆうでスケッチをした。画架を立て油彩を描いた。赤・青・黄の三原色で描いた。
東京駅のすぐ前には丸ビルが竣工直前で、帝国ホテルや三菱銀行本店、東京会館が完成しており、東京はいたる所で都会の顔を見せ始めていた。
利行の絵心を刺激する風景がたくさんあった。浅草の凌雲閣は遠くからでも見えた。
歩き疲れると駿河台にいた千葉青花の下宿へ寄り道をした。矢野文夫も来ていて、彼が新しくつくった詩を披露し、利行は短歌を詠んで対抗した。
「矢野氏」「千葉氏」と、利行は年少の彼らをそう呼んだ。

神田の「パウリスタ」というコーヒーのうまい喫茶店によく行った。
ある時、席につくと、利行はいきなり隣の席を片寄せ、そこに画架を立て、15号くらいのキャンバスに店内の様子を描きだした。
三原色にあかね色や黒も使った。嵐に打たれたような激しい筆勢で利行は一気に描きあげた。
利行が絵を描くところを初めて見た矢野は呆気にとられていた。お公家のような印象とはがらりと変わり、この男のどこにこんなエネルギーが秘められているのかと思うと、矢野は体が震えてくるような衝撃を憶えた。

『講談雑誌』7月号に千葉青花の時代小説(20枚ほどの小品)が掲載され、千葉は20円の原稿料を貰った。
利行も対抗心して、「浄瑠璃坂の乱入」という短編時代小説を書き、8月号に掲載された。千葉青花も同じ号にまた書いていた。
利行もまた書いた。「小四郎の死」(大正10年10月号)「義経四国の巻」(同年12月号)「大岡政談・白衣の鬼」(大正11年2月号) 「霊夢の仏」(同年6月号)など、都合6作書いたが、読者の評判はとれなかった。
しかし、千葉青花はそこそこの評判をとり、その後も書き続けた。
利行は悔しがり、それは生田蝶介への不満にすり替わった。

大正12年、関東大震災後に利行が発行した個人雑誌『火岸』にこう書いた。
「歌の道の生田蝶介氏に接したこと、生田氏の芸術少くとも短歌に相当の作が成されていることは了解しているが、氏に煩っていたことは僕の不運で、今日では遺憾に思われる。氏の立場御境地としては御立派な人格愛は認められるが、直ちにそれらをもって氏の暴慢さを償える事とは思わぬ。氏と僕との門人の間柄は数年間に及びて情濃まやかきものとならぬのは当然の事だ。懇意芸術、情実生活、家庭や家庭的なものが何の足しになるものではない。このためブル(註・ブルジョワ)の生田氏とは没交渉となる」

師弟関係が持つ家長的服従や、疑似家族的なれあいに生理的に反発するものが利行にあった。
彼は自己の創作的表現において常に自分に対して絶対者であることを譲歩できなかった。

つづく

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
https://blog.kenfru.xyz/entry/2017/03/09/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%80%8C%E4%BB%8A%E3%81%8C_%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%81%97%EF%BD%9E%E9%AC%BC%E6%89%8D_%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%88%A9%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%9B




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