2018年11月26日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その30)「先刻、大塚の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊が2千人ばかり、軍隊に追われて約20分後にはこの方面へ逃げて来ますから、みなさん警備について下さい」 すると約10分もたつかたたないうちに、また別の方面から伝令が来る。 「先刻、赤羽の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊2千人が、軍隊に追われて約10分の後にはこの方面へ退却して来ますから、みなさん警備について下さい」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その29)「.....大塚警察署に青年たちに連行された。警察に行っても話にならない。「今日殺す」「明日殺す」という話ばかり。半分死んだような人が新しく入れられてくるのを見て、信じないわけにはいかなかった。これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いまは腰がいたくて階段も登れない。.....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/小石川〉
生方敏郎〔随筆家〕
〔2日午後3時、音羽3丁目で〕「あれ。泥棒が捕まえられて来た」と老人が囁いた。〔略〕阿久津はすぐに席から駆け下りて、様子を見に警察の中へ入って行った。しばらくして出て来て、「放火です。朝鮮人が放火したんです」
放火と聞いて、私たちはゾツとした。〔略〕あれあれと言う中に、また一人連れられて来た。今度のは、腰に縄をつけて縄の端をお巡りさんが持っていた。その後から子供や群衆がゾロゾロついて来た。落人たちも足を止め、皆振り向いてその方を見ていた。「太い野郎だ。火つけ道具を持ってやがる」と誰かが言う。なるほど彼の手には、5月のお節句にたべる熊笹で三角に長く包んであるちまきのような格好のものを持っていた。「ハハア。あれに火をつけて、ボンと投げるんだな」「何でしょうね」「大方、綿に石油を浸した物か何かがあの中に入っているんでしょう。恐ろしいことをする奴があるなあ」
それからは後から後から捕えられて来た。〔略〕私の知っている少年が、「僕、彼奴の捕まる始めから見ていたんだよ。彼奴8丁目の材木屋の倒れ掛っている材木の中にもぐり込んで火を点けているところを、近所の子供に見つけられたんだ。なかなか捕まらないのをやっとのことで捕まえたんだよ」と語った。
〔略〕5、6人目に来た者は小倉の詰襟の服を着ていたが、私はたしかに学生だと思った。その中に誰かが「社会主義者の火付けだ」と叫んだ。先刻の少年はじっとその学生を見ていたが、「おや。あれは早稲田中学の生徒だよ。3年級にいる人だ」と言った。私はまさかと思ったから、「間違いじゃないかね」と疑って言った(けれどもそれは少年の目の間違いではなかった。ただし彼は人々が放火犯人を殴るのを見て、「君らが殴るには及ばない、驚官に渡すがいいじゃないか」と言ったのを、聞きとがめられて、共犯者の嫌疑を受けて連れて来られたのだ。取調べの結果たちまち釈放された)。中には高手小手に縛められて来た者もあった。巡査がついているだけで何の拘束も受けずに来た者もあった。3人5人ずつ一かたまりに連れて来られたのもあれば、10人一度に自動車にのせて運ばれたものもあった。私は24人までは数えたが、それから先は数えつくされなかった。

〔略〕向う横丁、即ち私の家へ入る小路へと人がバラバラと駆け込んだ。朝鮮人が逃げ込んだというのだ。私は思わず立ち上った。家には赤ン坊と産婦と看護婦ばかりを残してあるのだ。追い詰められた朝鮮人がもしやそこへ逃げこんだら、家人の驚きはどんなだろう。裏には物置もある。そこへ忍ばれ放火でもされたらそれこそ一大事だ。こう思った瞬間に、私は子供を傍にいた近所の人々に托しておいて、自分だけ帰宅した。家の中は静かだった。

〔略〕お向うの家では、奥さんとお嬢さんとで雑巾を持って板塀を拭いていた。私はちょっとそれが不思議に思われたので、失礼とは思ったが立止って見ていた。奥さんたちは私に会釈して、「まあ。恐ろしいじゃございませんか。これが放火のしるしなんですと。そんな真似をされちやたまらないから、今一生懸命消しているところなんですよ」 私はその印を見せてもらった。英語のKという字を左向きに書いたような、得体の知れぬ符牒だった。朝鮮の文字かも知れぬ、と後になって皆が言っていた。
私はまず自分の家の塀をよく見たが、何も書いてなかった。お隣りの塀を見ると、明らかに2個所までも書いてあった。私たちの声をききつけてお隣りの小母さんが家から出て来た。「小母さん。やられてますぜ」と私が言ったので、小母さんもびっくりしてその印を見ていた。

〔略。2日夕方〕阿久津が外から駆け込んで来た。「先生。大変です。もうどうしても一刻も早くどこかへお逃げなさい。前の山へ朝鮮人が30人入って、爆弾を持って警察の巡査とここで戦争するのだそうです」と息せきあえず言った。そして庭へ回って子供の蝉取りのもち竿を取り出し、「私にも手伝って防げ、といいますから、これで竹槍をこしらえてもいいですか」と訊いた。私は、「馬鹿馬鹿。それは兵隊と巡査の仕事だ。我々足手まといを多く抱えている弱者の手を下すべきことじゃない。明哲身を保つ、という言葉を知らないか」と大声で叱った。〔略〕更に、「馬鹿なこと言うなよ。先刻から捕まえられて来た朝鮮人を見ると、一人だって刀も槍も持っていやしない。棍棒すら持っていないじゃないか」「今は先生。そんな議論をしている時じゃありません。〔略〕前の家でもお隣りでも皆立ち退いてしまいました」「何、みんな立ち退いた」と私はそれには驚いた。〔略〕私はうろたえて表通りの方へ出ようとすると、郵便局の裏の細い路からお隣りの小母さんが出て来るのと出逢った。「皆な立ち退くのですって」「はい、もう子供たちは立ち退かせました。前の山へ朝鮮人が沢山入ったそうで、ここで何か恐ろしいことが始まるかも知れないそうです」と早口に小母さんは答えた。手には大きな風呂敷色を抱えていた。
(生方敏郎『明治大正見聞史』中央公論社、1978年)

江口渙〔作家〕
〔2日〕夜、7時ごろ、やっと丸山町の弟の家につくと、街頭には、早くも自警団がこん棒や竹やりをもって警備していた。そして、多勢の朝鮮人が暴動を起し放火掠奪して歩き、それを背後から社会主義者がせんどうしている、という噂で街は殺気立っていた。私も弟といっしょに、自警団の中にまじって警備についた。実はこれらの流言がはたしてどこまで真実であるかをたしかめようとするためであった。
最初の夜の流言は大たい次のようなものであった。「本所深川では朝鮮人の親分達がすっぱだかで馬にのり、日本刀をふりかざして指揮をしては、部下の何百何千という朝鮮人に放火略奪をさせている」とか、「朝鮮人はみんなピストル日本刀爆弾をもち、缶詰のあき缶にぼろをつめたのを投げては放火をして歩いているから気をつけろ」とか、「朝鮮人の女が爆弾を入れた小箪笥を背中にしょって行くと、男がその後からついて歩いて、箪笥の引き出しから爆弾をとり出しては、ボンボンと両側の家になげ込む。現に、上野広小路の伊東松坂屋は、そういう爆弾のひとつで一瞬に爆破された」とか、「日本人の女社会主義者が軒から軒を飛びわたっては、火をかけて歩くから屋上をも警戒しろ」とか、「女の社会主義者が井戸に毒を入れて歩いているから井戸水をのむな」とか、こういう伝達を、竹やりを持ったり日本刀をさげた伝令が、向うの街角の自警団からこちらの街角の自警団まで、夜どおし引っきりなしにつたえて来るのだ。夜中の3時頃には、次のような伝達さえ来た。
「先刻、大塚の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊が2千人ばかり、軍隊に追われて約20分後にはこの方面へ逃げて来ますから、みなさん警備について下さい」
すると約10分もたつかたたないうちに、また別の方面から伝令が来る。
「先刻、赤羽の火薬庫を襲撃した朝鮮人の一隊2千人が、軍隊に追われて約10分の後にはこの方面へ退却して来ますから、みなさん警備について下さい」
それを聞いた私はそばにいる弟に「これは全然でたらめだよ。今、大塚の火薬庫は何所かへ移転してあとには何もないよ。引っ越したあとの空地なんか襲撃する馬鹿はいないはずだ。これはたしかにでたらめだ。また、何かの間違いで襲撃したとしても、赤羽と大塚とあんなに離れた場所から2組の朝鮮人がしかも同じ人数の2千人が同時に軍隊に追われて、たった10分か20分の差でこんな丸山町まで同時に退却して来るなんて、そんなことは断じてあり得ない。これは明らかに今夜のこの不安と動揺に乗じて、一そう人心を混乱させようとする者の陰謀だよ。朝鮮人の暴動よりもそういう陰謀の方を遥かに警戒する必要がある」と、いうと私の弟は見る見る顔色を変えた。そして「今、そんなことをいうと自警団に半殺しの目にあわされるから、どうかそれだけは止して下さい」とさえぎるので、止むなく口をつぐんだ。だがこのような人心混乱策が、たしかに右翼団体か、軍部の策動であると私は直感した。「社会主義者と朝鮮人とが一団になって、暴動を起し、放火、掠奪いたらざるなく、いつ革命が起こるかわからない」という流言は、このようにして一夜のうちに、全東京から京浜地区、横浜、神奈川までもひろがって行ったのである。
大地震に家を失い、食を失い、一夜にして流亡の民と化した市民達は、もうそれだけでも、平生の知性や良識をふり落して、すっかり殺気立っていた。そこへこのような流言の嵐が吹きまくったのだからたまらない。たちまち、狂暴きわまる暴民と化して、朝鮮人と見たらうむをいわせず叩き殺しにかかったのだ。ことに憲兵は、社会主義者を眼のかたきにしては、片っ端から留置場へ叩きこんだ。
(江口渙『わが文学半生記』青木書店、1953年)

喜田貞吉〔歴史学者〕
〔2日、小石川東青柳町で〕誰言うとはなく、この火事は震災の為ばかりではなく、不逞の徒の所為だとの噂が伝わる。道の辻々には火の元注意の掲示と共に、放火警戒の宣伝ビラが貼り出される。はては○○の名を以て、「放火せんとする無頼の徒ありとの風聞あり、各自警戒を厳にし、検挙の為に積極的後援を望む」というような注意書までが見え出した。市民の興奮はその極に達した。誰が指揮するともなく各自棍棒・竹槍等を携帯して警固に出かける。無論自分もその中の一人だ。中には短刀や抜身の槍などと物騒なものを持ち出す連中もある。道の辻々を警めて、一々通行人を誰何する。
何所では爆弾携帯の壮漢が捕われたの、何所では揮発油入の瓶を持っていた婦人が縛られたの、現に放火の現行犯が押えられるのを見て来たのと、誠らしい噂に人々が目を丸うする。牛乳配達者に気をつけよ、牛乳缶の中へ揮発油を入れているかも知れぬ、在郷軍人の服を着ているからとて、避難者の風体をしているからとて、それで決して油断をするな、救護班の腕章をつけて誤魔化している不逞漢があるそうな、婦人小児だとて安心してはならぬ、と、およそ自分等の知人以外のものは、ひとまず以て放火犯人の連累と見て警戒せよというのだ。
ことに自分等の東青柳町は、その背後に通称大塚の火薬庫なる兵器廠があるので、それを爆破すべく不逞の徒が念がけているという風説に、一層神経を鋭くさせられる。裏の空地を挟んだ火薬庫の崖の薮の中へ、怪しいものが入り込んだと誰かが言い出した。人々は手に手に獲物〔得物〕を提げて群集する。騎馬の憲兵が数騎右往左往に駆けまわる。その物騒な事ったらない。
(略)
「喜田さんの宅へ○○が放火した」と大声に呼ぶものがある。折から麦湯を沸かしていた妻が戸を開けに行こうとするうちに、早くも20〜00人の町内の衆が、それをも待たずに叩き破って闖入した。「ソレ灯を持って屋根へ上った」「ソチラへ逃げた」「コチラへ逃げた」と、はては屋上から床下まで捜索するが誰もいない。よくよく事情を聞いてみると、炊事場の煙突から火の粉が揚ったのを誰かが見て駆けつけてくれたのがもとであった。
〔略〕夜になると警戒がいよいよ厳重だ。空を焦す大火の炎は相変らず続いている。町内の人々は昨夜と同様電車線路や護国寺前の広場に露宿している。電灯もない暗闇の道を屡々騎兵の列が通る。道の辻々には銃剣を持した兵士が固めている。午後に戒厳令が敷かれたのだ。昨夜から続々として絶える間のない避難者の列は、夜になっても一向に減らぬ。
富士見坂上から護国寺前まで、宅の前の通り2町余りの間に5箇所の警固所ができた。○○が50人ばかり林町方面へ入り込んだから警戒せよといい継いで来る。〔略〕自転車上から赤筋の入った提灯を振りかざして、「ただ今松坂屋の火が本郷3丁目までやって来た、皆さん避難の用意をなさい」と触れながら駆けて来る人がある。〔略〕新聞の号外が続々電柱や板塀に張出される。いずれも恐ろしい記事の限りで、中には○○が200人抜刀で某所へ切り込んだなどと麗々しく書いたものもある。流言蜚語頻りにいたるで、人心恟々、何が何だか少しもわからぬ。
(「震災日誌」『社会史研究』1923年11月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1』緑陰書房、1996年)

つづく



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