大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;豊島区〉
三宅正一〔政治家。池袋の建設者同盟2階で被災〕
〔2日〕人心恟々としていたそのころ、朝鮮人が井戸へ毒を入れるとか、朝鮮人の暴徒が横浜方面から進撃しつつあるとか、社会主義者が暴動を計画しているとかの流言飛語がどこからともなく飛び出し、池袋でも毎夜各戸から自警団が出て、道筋を警戒することになり、建設者同盟の仲間もこれに加わった。建設者同盟の連中は、のんきにかまえて自警団に加わっていたが、われわれ自体が社会主義者の団体として自警団から狙われていたり、問題にされていたらしい。
〔略。3日か4日〕目白から早稲田へ下った辺で朝鮮人が詳衆に追われて逃げて来たのをかばったところ、逆に棍棒でなぐられてしまった。幸い、交番が近くにあったため大事に到らずにすんだが、このころすでに市中では朝鮮人に対する謀略宣伝が浸透して、到る所で朝鮮人が迫害されていたことがわかった。
(三宅正一『幾山河を越えて - 伝記・三宅正一』恒文社、1966年)
波辺順三〔歌人〕
〔池袋で〕2日の夕刻頃から例の「不逞鮮人」のデマがとびはじめて、いよいよ不安を深くした。「鮮人数百名が浦和の監獄を破って逃走し、途中次第に人数を増して、武器をもって東京に襲撃してくる」とふれまわっている男があった。
「各自武装して防衛して下さい」と巡査が知らせて歩いた。
「今夜豊島師範に鮮人が放火する計画がある」「井戸に毒薬を入れるかも知れぬから注意しろ」ともふれまわっていた。どこから出るとも知れぬこれらの流言蜚語が、私達をおびえさせた。町ではそれぞれ自警団が組織された。私の家の近くに上田という東大教授がいて、その人は、日本刀の抜身をさげて自分の家のまわりを歩いていた。ある医者の家の看護婦がうしろ鉢巻で薙刀をもって立っていた。近所の床屋のおやじは猟銃をかついで「敵はいまー」などと怒鳴って歩いた。私の家の隣は大工さんで、そこの若衆たちは、竹の先に商売道具のノミをゆわいつけてかついでいた。
夜になると町の角々に立って警戒線を作って通行人を監視した。私も棍棒をもって町角に立った。呼子の笛をもっているもの、提灯をもっているものがあって、怪しいことがあると笛を吹いて近くの警戒線に知らせ、怪しい者が通り過ぎると、提灯を振って次の警戒線に合図するのである。通行人があると「もしもしどこに行きますか」「どこから来ましたか」などと聞き、その発音が少しおかしいと、朝鮮人ではないかと、濁音をいわせてみる。こうしてそれが朝鮮人らしいとわかると、たちまち寄ってたかって撲る蹴るがはじまる。何の罪もない朝鮮人が、こうして震災後の数日間に、東京だけでも何千人か虐殺されたのである。
〔略〕私は何人かの朝鮮人の死体をみたが、私の生涯のなかで、最も不快を印象として、いまもなお記憶に残っているのである。
(渡辺順三『烈風のなかを - 私の短歌自叙伝』新読書社出版部、1959年)
『北海タイムス』(1923年9月5日)
「不逞鮮人兇暴を極め 飲食物に毒薬や石油を注ぐ」
巣鴨刑務所横道方面には従来多数の鮮人居住しおる関係上もっとも危険区域と見倣されているが、俄然2日夜に至り右警備隊によって600以上の鮮人を始め数十名の不逞鮮人を逮捕した。また日本婦人らしきもの松田と書ける商標の商品を用い朝鮮婦人を装い多数の不逞鮮人に通じあるを直に発見し、数百名の在郷軍人及び青年団員これを追撃したるも午後同時過ぎに至るも逮捕するに至らず。因みに警備隊は日本刀、棍棒、鉄棒等の各武器を携え不逞鮮人を見たる場合は呼子を鳴らして警備隊を召集する事になっているが、宇都宮師団の六六連隊、高崎一五連隊もこれに参加している。
〈1100の証言;中野区〉
内村徳子・大橋その子
朝鮮人さわざのうわさは、前記内村亀子の手紙にも、
「2日の晩も1日の通り往来の所へ皆寝ましたが、不逞鮮人がぱくだんを持ちここへ入りこんで来たから用心せよと申して参ります。夕飯も門にてローソクを付けて頂きました。真のやみ真黒です。家の中にやすみます人は御座いませんでしたけれども、不逞鮮人は入り込んで来たと申し在郷軍人青年団兵隊などけんをつけ、他の人は木刀を持ちなど致しましていつも見回りに来ます。時々今おさえた、今一人おったけれども逃げたとか申しますのでこわくてなりません。それかとて夜通しやはり揺れますので家の中へは入いれませず、実に女子供は戦々恟恟といたしておりました。兵隊や夜警の人などどこかで、つつの音が致します度に走り行きます。まるで戦争の中にでもいる様な気がいたしました」としたためられている。
大橋その子もこう話している。
「次の日(2日)になると、こんどは朝鮮人があばれるとか、今警官につれてゆかれたとか、血を流しながら引きずられて行ったとか、いやなことばかり耳にするので、何か悪いことがはじまるような不安の日夜がつづきました」
〔略〕軍は、大震災という天変地異にさいし、不安におののく民衆の前に、たとえば電信隊の活動のごとくその威力のほどをみせつけた。習志野騎兵連隊の現役兵だった矢島銀蔵(昭和57年波)は、補助憲兵としてかりだされ、上野に分駐したとき、不安におびえていた人びとは、歓声をあげて迎えてくれたと語った。当時、大学予科生だった向山武男(沼袋3)は、「警備のために軍隊が配備されたときは、本当にたのもしく、また、嬉しかった」と書いている。井伏鱒二も、「板橋に乗馬の兵がやって来たときなど、避難民が馬の脚にしがみついて感泣する場面があったそうだ」(『荻窪風土記』)と書いている。
(中野区民生活史編纂委員会編『中野区民生活史・第2巻』中野区、1984年)
大澤三平〔新宿郊外の連隊で被災(中野電信隊か?)〕
〔2日、東京市内で電線架設作業を終え〕連隊に帰ったのは夜の8時近かった。やれやれと思う間もなく非常呼集の喇叭がひびいた。スハ一大事とその準備して集まれば落着いた週番司令の口から東京焔上の次第と目下戒厳令下にある事と○○が入り込んだ報があるから警戒せねばならぬ事が漏された。兵には直ちに実弾が渡され火薬庫はじめ、連隊のまわり、及び付近の町には夜目にも物凄い銃剣をつけた兵士が警戒していた。人々はすべて軍隊を頼りにしている。
明くれば3日、飛行機と無線電信は盛に活動している。警戒の兵卒の報告によれば付近に○○等はおらぬ。所々の電柱等には「○△」だの「○下ノ」だのの記号あり、それにより或は放火を意味し或は毒薬を井戸に混入するを意味すると人々は称しおるとの事だった。
〔略〕5日夜8時突如、非常呼集の喇叭と共に「武装!!」の命令が達せられた。緊張し切った兵士は各自武装をととのえて我先にと集合する。実弾は渡された。命令は次のように落付いた週番司令から下された。それは「今じき近くの丁所に○○が起って○○の援助の下に○名からの○○が脱走しているとの報が来ている。直ちに出動して沈静せねばならぬ。第一大隊は・・・第二大隊は・・・」明確な部署に勇み立つ兵士は駆足で○○所へと突進した。しかし自分が伝令として行った時は僅少の○○によって全く沈静していた。報告ほどの○○でもなくほんの波紋に過ぎぬ尊が後でわかった。
(『大阪工業倶楽部』1923年10月号、大阪工業倶楽部)
片山進
〔2日夜〕中野の坂上から先に来て様子が少し変ってきた。要所に在郷軍人が警備しているのが凄いのだ。中に抜刀している者、竹やりを持つ者等物々しい。聞けば朝鮮人が長野県の工事場から大挙襲来するのだとか。
(「私の震災記」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)
後藤喜美子
〔中野神明町で〕2日目の夜、お寺〔聖光寺〕の住職の永見さんと父は刀を持ち、他の人々は竹槍を持っては家々に立ち、寝ずに番をしているので、どうしたのかと思っていると、誰ともなく「朝鮮人が代々木原の方面から日本を攻めにこちらにやって来る」といって、男は皆、竹槍で突く練習をした。それで今来るか来るかと布団の中にもぐっていてとても恐くて子供ながらに寝られなかった。うわさで聞くと、あの時戒厳令が敷かれて町を歩く時、「山」といわれたら「川」と答えないと日本人とみなされないで朝鮮人とみなされて、捕まってしまうという。今考えるとひどい目にあった日本人もあり、朝鮮人を逆にやったとのこと。気の毒な事だったと思う。
(「東京の関東大震災に関すること」『世田谷区老人大学修了記念論文集・第1期修了生』世田谷老人大学事務局、1979年)
中浜東一郎〔医学者。当時中野在住〕
9月4日〔略〕去る2日より居住民毎夜出て警戒す。就中不逞鮮人が各地を徘徊して放火し、又は爆弾を投ずるものありとてその噂専らなり。軍隊カを貸らんとて予は去る2日、安藤家の家扶青木、外1名と共に鳩研究所に少佐岩田厳氏を訪う。遂に承諾して連隊に相談して実行することとせんとて出て行きぬ。2日夜より6、7名兵を出して警戒しくれたり。〔略〕今夜も篝火を各所に焚き中々警戒厳重なり。
(中浜明編『中浜東一郎日記・4』冨山房、1994年)
長谷川周治
〔2日夜、中野で〕その夜から朝鮮人襲来の噂頻々、今にも押しよせるかの如き勢に、人心恟々、或いは日本刀などを抜いて、立向うような形勢をしている家もあった。向側の竹内という主人は、鉢巻抜刀の姿で立ち構えてなどいた。焼け出された私達は、そんなことをきいてもちつとも恐くなく、どこ吹く風ときき流した。
(長谷川周治著・武藤陽一編『偽らざるの手記 - 或るクリスチャンの一生』私家版、1957年)
人見東明〔詩人、教育者。中野で被災〕
〔2日〕日本刀、鳶口、竹槍、銃、ピストル、鉄棒、村の青年達は手に手に得物(えもの)を持って畑道を右往左往しています。そして今鮮人団がせめて来た、彼等は皆恐ろしい爆弾を持っている、東京、横浜の大火は彼等の爆弾投下によるのである。
横浜を焼き払った鮮人団が大挙して六合川〔六郷川〕にさしかかったとき軍隊と衝突した。その一隊が今淀橋に押しょせて、騎兵二個小隊と衝突して騎馬隊が全滅した、だから今にも本村に押し寄せるから、男という男は得物に身をかためて警護の任に当るのだといっています。
その物々しさといったら、千軍を前に控えた勇士のいでたちのように - だが、底知れぬ恐ろしさに胴震いをしています。顔は土よりも青いのです。こうした風ですから村はあげて亢奮しきってその真偽さえ考えるゆとりもない風であります。
気の毒なのは朝鮮人です。多数の中にはこの機に憤懣の情を多少満足させた者があるかも知れないが、徒党を組んで運動をするなどとは到底常識では是認出来ない事であります。
〔略〕夜が更けるに従って流言は益々甚だしい。半鐘を乱打する、太鼓を叩く、けたたましい喊声が起る、ピストルが鳴り響く。まるで狂気の沙汰です。
可愛相に私の子供は急造テントの下で、乱打する半鐘の音に小さな体をわなわなふるわせています。小さい者の霊は狂気じみた情勢に圧倒されつくしています。いや、それにも増して当の朝鮮人はどうであったろう。是非善悪の区別もなく一様に辱められ、苦しめられた事であろう。きけば命を奪れた者も少くないということであります。まあ何と云う残忍なことでありましょうか。
東京の空の赤みは夜明近くなって薄らいだが警鐘の乱打は依然として物凄い音を立てて騒然としています。まあ馬鹿な人達の狂態を想像して下さい。大正の十二年。しかも文化の進んでいるべきはずの帝都に近い所に於てすらこうであります。往昔の天変地異に対して様々な迷信や流言非(ママ)語が真実とされたのも当然であります。こうなりますと文明、知識という者も案外たよりにならないものであります。
私は丁度はじめて衆愚という者の存在を明らかに見ました、そして、そのカの恐ろしさをも知りました。そして人間が馬鹿らしくなりました。
(「一瞬間の前後」 『噫東京 - 散文詩集』交蘭社、1923年)
中野警察署
9月2日午前10時頃に流言あり曰く、「鮮人等は市内各所に於て放火せるのみならず、今や郡部に来りてまたその挙に出でたり」と、これに於て管内に自警団の生ずるに至れり、しかるに午後1時頃に至り「鮮人300名は高井戸・和泉村の各方面に襲来して暴動を為せり」との流言行われしが未だ真偽を詳(つまびらか)にせざるを以て、署員十余名を同方面に派遣し、その情勢を探らしめたれども遂に鮮人を見ず、即ちその訛伝・蜚語に過ぎざる事を民衆に宣伝し、人心の安定を図るに努めたるにも拘らず、容易にこれを信ぜずかえって悪化の傾向ありしかば、始めて自警団取締の必要を認め、即日署員を各村落に遣りてその軽挙妄動を戒むると共に、各自警団対し、兇器の携帯と通行人の誰何審問とを厳禁し、更に同5日某白米店雇人等が不良青年と気脈を通じ、種々の流言を放てるを発見し、これを検挙せる等により漸次穏健に趣き、民心また次第に安定するを得たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
つづく
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