2018年11月11日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その29)「.....大塚警察署に青年たちに連行された。警察に行っても話にならない。「今日殺す」「明日殺す」という話ばかり。半分死んだような人が新しく入れられてくるのを見て、信じないわけにはいかなかった。これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いまは腰がいたくて階段も登れない。.....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その28)「.....「鮮人数百名が浦和の監獄を破って逃走し、途中次第に人数を増して、武器をもって東京に襲撃してくる」とふれまわっている男があった。 「各自武装して防衛して下さい」と巡査が知らせて歩いた。 「今夜豊島師範に鮮人が放火する計画がある」「井戸に毒薬を入れるかも知れぬから注意しろ」ともふれまわっていた。.....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/大塚〉
会田有仲〔大塚宮仲で被災〕
〔2日〕朝鮮人及支那人の内不良性の奴等が、昨夜数人隊を組んで兇器を携え市内外各所に於て露宿の避難者を脅迫し、財物を強奪して巡査、憲兵、在郷軍人などと格闘の未斬殺されたる者数人ありたる由。
〔略。3日〕夕方に至り不逞の朝鮮人が井戸に毒を入れ或は放火するに付気をつけて下さいと青年団より注意して来た。
〔略。4日、見舞に来た完助と禄蔵が〕「途中福島以南の汽車での話は不逞鮮人と社会主義者が一団となり東京市内外に於て兵隊と戦争中にて、大宮より先の停車場は陸軍で占領し官庁の証明ある者の外入京を許さぬとて、各駅に停車する毎に車掌が来て下車を勧告する」
〔略〕今朝来風説なるか飛語なるか、不逞鮮人は昨夜も各所に於て爆弾、兇器を携え大挙襲来、放火、井戸投薬等をなす。巡査、憲兵、自警団員と闘争の結果双方に死傷者多数ありたる由。逢人毎に専らこの噂で、殊に警察の調なりとて隣家より知らせの朝鮮人が白墨にて門や塀などに記しある符合なるもの左の如し。
ヤヤ:殺人、〇にヤ:爆弾、へに一:放火、△にヤ:井戸投薬。以上の如く震火両災に怯えている人心は更に数段の不安を加えられたり。
〔略〕日没に至り相談があるから出て下さいと子供の使が来た。〔略〕主催者いわく、不逞の鮮人と支那人が放火或は殺人或は井戸に毒薬投入等をする、又社会主義者はこの機会に乗じて大陰謀を挙行せんとし甚だ危険なるも警察も憲兵も取締行届かざるを以て、御互生命財産を保護のため各町村は適宜の区域により、自警団を組織し、その任に当り居る趣故、この同番地十軒も何とか自衛策を講ぜねばならぬという。〔その結果自警団が結成された〕
〔略。6日〕帝都に於てなお不逞鮮人、社会主義者が爆弾、兇器携帯にて、毎夜各地に製来したる噂あり。又大震大火により、横浜は全滅のため糧食なく、鮮人の大集団と同地の監獄にて、大震の時に開放したる囚人300人は食を求めて入京の結果、兇賊隊をなして各地に襲来し、焼け跡の金庫、或は焼け残りの倉庫を破壊して金銭並びに貴重品を掠奪する趣。
(会田有仲『東京大地震日記』私家版、1926年)

李性求〔教育者。当時行商等をしなから東京物理学枝に留学中〕
2日の朝、下宿先〔池袋長崎村〕を出ると、近所の人から「李くん、井戸に毒を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことはしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。
雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ!」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ狩りの記事があって、「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。警察に行っても話にならない。「今日殺す」「明日殺す」という話ばかり。半分死んだような人が新しく入れられてくるのを見て、信じないわけにはいかなかった。これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いまは腰がいたくて階段も登れない。
1週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく!」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、早足で行くしかない。「朝鮮人がいく!」その声が大きく聞こえる。当時はその青年たちに捕まったらその場で殺される。このときの恐怖といったらない。のちに朝鮮に帰ってから学校に勤めたが、うしろから生徒の走る音が聞こえると、身体がいつも硬直したほどだ。
目についた交番に飛びこんで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでもこづき、蹴飛ばした。驚察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き響き』1983年)

伊藤重義〔当時府立第三中学校生徒〕
〔2日〕やっと大塚坂下町の祖父の家へ辿り着いた。〔略〕夜になると町の方で何か騒がしくなった。何が起きたのかと心配していたら、近所の人4、5人が家へ来た。何でも「朝鮮人が暴動を起して日本人の家を襲い、井戸に毒薬を投げ込んだ。彼等は何時我々の町へ入って来るかも知れない。我々は自警団を作って警戒する事にした。お宅でも一人出て貰いたい。そして何か武器を持って来るように」との事だった。祖父の家は隣組8軒で共同の井戸を使っていたので、その防備をしなければならないが、我が家では大人達は疲れ果てているので私が夜警に出ることにした。私は背が高い方なので、見かけは大人の仲間入りが出来たのだろう。我が家には武器らしい物は、私が背負って来た日本刀しかない。仕方がないから父の許しを得て、私は日本刀を持つ事にした。〔略〕私達は井戸の警備と交替で巡回もした。時々町の方で大騒ぎがあった。日本人の避難者が朝鮮人と間違えられてひどい目に遭ったとの事だった。
〔略〕しかし間もなく戒厳令が出されて、地方から続々と軍隊が出動し、街角には銃剣の兵士が立つようになり、新聞の号外等で状況が判るようになったので、民衆の不安もやっと落付いて来たようだった。自警団も多分に行き過ぎがあり被害も多かったようで、解散命令が出たそうだ。私も毎日戦々恐々として参加していたので、これでホッと一安心したのだった。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

小石川大塚警察署
9月2日の正午頃「不逞鮮人等暴行を為し、或は将に兵器廠を襲撃せんとするの計画あり」との流言始めて起るや、民心これが為に動揺して自警団の発生を促し、更に鮮人に対する迫害行われたれば、本署は鮮人を検束するの必要を感じ、即日管内を物色して、85名を署内に収容せり。しかるに民衆はかえってこれを憤りて妨害を試み、一巡査の如きは、頭部に殴打傷を負うに至れり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『河北新報』(1923年9月4日)
「爆弾と毒薬を有持する不逞鮮人の大集団2日夜暗にまざれて市内に侵入 警備隊を組織して掃蕩中」
折柄不逞鮮大多数入り込み井戸に毒薬を投じ石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば、住民は直に警備団を組織すべしとの計画がありたるより人心一層不安の情に陥りたるも協力して直ちに多数の警備隊を組織し、久堅町大塚仲町養育院前等において約数十名の鮮人を引捕え、一々厳重なる身体検査をなし官憲の手にこれを引渡し、或は昂憤したる警備隊自ら適当の応懲を加え専ら放火の厄を免れんと努力しつつあるを発見したり。

『下野新聞』(1923年9月4日)
「大塚火薬庫付近で不逞鮮人と青年団格闘」
本所区を根城とする不逞鮮人約300名は2日の夜丸の内方面に向い、一方約30名の同団は大塚火薬庫を爆破の陰謀があるなどの風評が伝わったので、万一を慮り宮城付近は近衛騎兵隊が警衛の任に当り、各地から上京した青年在郷軍人団等不逞者に一歩も足を踏ませまいとの意気を揚げ、丸の内方面には何等変事を生じなかったが、火薬庫付近では不逞鮮人と青年団との格闘を起し数名の重軽傷者を出したと噂専らである。

〈1100の証言;文京区/小石川〉
石川泰三〔青梅で被災〕
〔2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。地蔵横町で小西氏が〕「潰れ家を見かけ、鮮人が火をつけするので、危険ですから見つけ次第打殺すのです」と、少しく興奮して語る。
〔略。護国寺境内で〕境内は避難者で満ちている。時々、火事と共に鮮人を捕えたのでもあるか、「わあ・・・わあ・・・」と、云うトキの声が聞えるのみだ。〔略〕護国寺裏の水窪は、鮮人の巣窟である。〔略〕遠く近く、境内をめぐって拍子木の音が聞える。夜は既に三更〔深夜0時頃〕を過ぎたであろう。夜露は、一同の衣類を透して、いやに湿っぽい。一同は、眠るともなく夢幻の現に入るのであった。拍子木は、護国寺の寺男であった。「別に変ったことはありませんか?鮮人が来ますから油断しないで下さい」言いながら行く。又、少し経つと、在郷軍人・青年会員が、手に手に棍棒などを持って夜警に来る。
〔略。3日青梅をめざす〕午前5時、護国寺門前を勢良く乗出した一同は、ホッとした。〔略〕2、3丁行くと、なんとなく騒がしい。在郷軍人や青年会員が、商店の小僧・番頭或は学生など、共に武装しているのだ。即ち、銃剣、棍棒、竹槍、洋傘、日本刀など携帯して、町の両側を固めて蟻の這い出る隙もないような厳重な警戒ぶりであった。ははあ・・・鮮人騒ぎで俄かに自警団の組織かなと思った。自動車は勢いよく通り抜けようとする。「止れッ!・・・」在郷軍人が、まず銃剣を閃かせて呼びとめた。「どこへ通るか?・・・」血走った顔の軍人や、青年会員、返答によれば、直ちに芋刺しにしようとするのだ。僕は、洋服のポケットより1枚の名刺を渡して言った。「避難者です。昨夜護国寺境内へ露営しました。今日は、これから田舎へ帰るのです」 彼等は、しきりに疑いの目で自動車を見ていたが、ようやく正真正銘の日本人と思ったらしい。「よろ
しい!・・・」「通れッ!」軍隊式だ。僕らは心密かに苦笑せざるを得なかった。
自動車が2、3丁進むと、また在郷軍人青年会員などが堅めて、誰何する。〔略〕郡部へ脱出するまで、7、8回の襲来を受けた。こんな厳重な警戒線は、市内にのみ限って、郡部は無論そんな警戒はあるまいと思ったところが、どうして、市内に劣らぬ、否、より以上の猛烈さである。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

岩川友太郎〔教育者、動物学者。神田で被災、小石川竹早町の修養杜へ避難〕
9月2日〔略〕その晩より小石川区は各家にて警戒して、朝鮮不逞の徒の放火を防ぐこととなり、ほとんど徹夜の状となれり。
(「大正の大震災の記」船永清『岩川友太郎伝 - 日本貝類学の開拓者』岩川友太郎伝刊行会、1983年)


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