2019年6月22日土曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(13) 1929年(昭和4年) 「日本プロレタリア美術家同盟」(P・P)設立 「洪原会」結成 小熊秀雄が長崎町に移る 長谷川利行38歳《割烹着》「残された年月は両手の指の数も残っていない」   

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(12) 1929年(昭和4年) 松本竣介17歳、上京、太平洋画会研究所選科に通う 靉光の画家としての出発点
から続く

1929(昭和4年)4月
「日本プロレタリア美術家同盟」(P・P)設立

「岡本(唐貴)はそのことを「芸術の革命」から「革命の芸術」への転換だった、といったが、綱領は、つぎのように謳っていた。
一、我ガ同盟ハ美術ヲ武器トシテ無産階級解放ノ為ニ闘フ
二、我ガ同盟ハ一切ノ反動的美術ノ批判克服ノ為ニ闘フ
三、我ガ同盟ハ美術ニ加ハル一切ノ政治的抑圧撤廃ノ為ニ闘フ
同盟は、北豊島部長崎町大和田に研究所をもった。池袋のちかくであり、七年後にできた最大のアトリエ村「桜ケ丘パルテノン」とは、武蔵野鉄道の椎名町駅をはさんで至近の距離にあった。ただ「桜ケ丘パルテノン」ができる二年まえには、同盟は壊滅してしまっていた。つまり、「池袋モンパルナス」が花びらくのは、プロレタリア美術が線香花火のように燃えつきたあとであった。」(『池袋モンパルナス』)

1929年(昭和4年)7月
鶴岡政男、大竹久一、関川護、らグループ「洪原会」を結成、第1回展。

1929年(昭和4年)
小熊秀雄が長崎町に移る
「明治三十四年、洋服仕立人の子として小樽にうまれた。母マツが入籍されていなかったから出生届は出されず、三年後にマツが死んだとき、私生児として届けられた。十五歳のとき、樺太、いまでいうサハリンにうつった。継母がきびしい人だったから、泊居の高等小学校を卒業後、養鶏場番人など、それこそ底辺のあらゆる職業を遍歴して親にたよることはなかiつた。途中、パルプ工場で右手の食指と中指を失った。二十歳のころ、異父姉をたよって旭川へうつり、やがて土地の新聞の記者になった。大正十四年、絵の展覧会場で小学校の音楽教師をみかげて誘い、結ばれて翌年男児を得、焔と名づけた。その間に黒珊瑚などの筆名で詩と童話を発表したが、作風は白樺風であったり、ダダであったり、象徴主義であったりして定まらなかった。絵を描くこともあった。
記者の仕事をなおざりにしてたびたび上京したが、昭和三年からは東京をねぐらとし、翌四年、いまの豊島区長崎二丁目にたどりついた。例のどぶ川のほとりに建つ長屋であった。以後、長崎町や池袋の安下宿やぼろアパートを転々としながら、正確にいえば家賃をはらわぬので追いたてられながら、極貧のなか詩作をつづけた。」(『池袋モンパルナス』)

1929年(昭和4年)
長谷川利行38歳
1月
1930年協会第4回展(1,15-30 東京府美術館)に《停留所》《靉光像》(cat.no.15)《汽罐車庫》(cat.no,9)《人物》(cat.no.19)を出品。

「長谷川利行氏の〈汽罐車庫〉は黒と赤とのコントラストである、真赤に染め出された地面や車庫に対して黒々の汽罐車がとぐろを巻いて居るのがいらだたしい押さへつけられるような気持ちの詩である。〈停留所〉も一寸よい」(東京朝日新聞)
「長谷川利行氏の〈汽罐車庫〉〈人物〉共にいゝ力感を持つてゐる。然し全体に冷寒で豊富さに乏しい。画材が画面の中央に集まつて寒そうにしてゐる。この欠点が作者の本質的なものでない事を祈る」(中河与一「季節はづれの批評」)
「一般出品では長谷川利行氏の作品が面白い。〈汽罐車庫〉の赤は灼熱的で胸が空く。だが此絵ばかりでなく全体に素描的な厚みが足りないのは此人の最大の欠点」(田口省吾「一九三○年協会展を観る」)
「長谷川利行氏の五点、大作〈汽罐車庫〉は線が弱いのと朱の色が平面なために力が弱い。〈停留所〉〈人物〉が優れてゐると思ふ。これは仲々面白い」〈古賀春江「第四回一九三○年展感」)。

9月
第16回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《子供》(cat.no.18)《老母》を出品。
「長谷川利行氏 今度の画はよくない。感情だけで、智的配置(アランジュマン、アンテレクチュエル)の無い事は許されるにしても、プラスチック(造型的)な探索が殆ど無いために、三つ児の仕事に他ならない」(『美術新論』10月号)

昭和2~4年頃、利行の芸術が充実した最初の時期だった。この時期、利行の将来を楽観したのか父からの仕送りも途絶えて、利行は自活の方法をかんがえざるをえなくなっている。日暮里から移って浅草の下層街山谷の簡易宿泊所に住む。
熊谷登久平の紹介で徳山巍を知ったのもこの頃か。
「彼と歩くと必ずと云っていい程雷門にある『カミヤ』の電気ブランを飲みに連れて行かれた。(略)酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォリー(浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない〈エノケン〉がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行ったl(徳山巍「長谷川利行と私」)

長谷川利行と彩美堂
「吉井(忠)たちがまだ谷中にいたころ、太平洋画会研究所のすぐちかくに彩美堂という額縁屋があった。主人は広島出身の僧侶で、額縁を貸す商売をしていた。貧乏絵かきたちはその恩恵に浴していたのだが、あるとき主人は宣伝パンフレットにこんな文章を書いて学校や美術団体に送った。
「沢山使用して戴だければ二科会樗牛賞受賞長谷川利行画伯の作品を贈呈します」
彩美堂には展覧会の落選作が山とつまれていた。貧乏絵かきたちが会場に放置した絵であった。主人は利行に酒を飲ませ、そんな絵に手を入れるようにいった。利行は酔いにまかせて筆を揮い、最後にT.HASEGAWAとサインした。一枚描くたびに利行は五十銭もらった。それをもって茶房りゝおむに姿をみせた。りゝおむの常連だった寺田政明や吉井忠などは自然、利行と知りあうことになった。そんななかで吉井の記憶がたしかであった。
「わたしは福島から出てきて右も左もわからんもんだから、文展に出していたんです。ところが仲間たちがそんな絵とはおよそかけ離れた利行さんの絵に興味をもったんですよ。惚れて、そっくりの絵を描いたのもいたんですよ。利行さんに手を入れてもらって入選したのもいるんです。それでわたしも興味をもつようになったんです」」

「寺田政明は彩美堂で、利行が名作「ガスタンク」を一気に描くの手つだいながらながめていた。やがて谷中三崎町の寺の奥に、寺田政明、安孫子真人、吉井忠、麻生三郎、大野五郎などがあつまり、利行もまじえてデッサン会をはじめた。寺田がすずめケ丘のちかくへ移ってから、利行は泊りにくるようになり、古キャンヴァスや木箱の板や馬糞紙にむかって、おどろくべきスピードでデッサンしていった。寺田のルフランのえのぐを指にのせて、音がするくらい強くキャンヴァスになすりつけたり、ペチャンコの筆でぐいぐい線をひいたりしていた。まずホワイトを塗り、そのうえにプルシャンブルーを巧みにのせていた。その勢いで寺田の妻をモデルに一気に六十号を描きあげ、「割烹着」と題して二科に出品し、評判を得た。」(『池袋モンパルナス』)

「若い絵かき仲間のうち寺田政明は画運にも恵まれ収入において一歩先んじていた。
利行は寺田のアトリエをよく訪ねた。
寺田は「りりおむ」で初めて利行に会って以来、よく一緒に飲み、酔った利行が口にする鋭い言葉に唸った。「女の感覚は緑色にして、女のガラス絵はタイアリンの挨拶です」と利行はアドリブの言葉を口ずさんだ。洒落た言葉が次々と発せられた。
大作「ガスタンクの昼」を利行が谷中の寺の中庭で描いたとき、寺田は助手をつとめ絵具を両手に掬(すく)って利行に渡した。下駄でキャンバス上を移動しながら描いた作品もそばで見ていた。
利行はキャンバスを自分でつくった。コーヒー豆を入れるドンゴロスや蚊帳のように目の粗い布を切り、横木を組み合わせてクギを打ちつけた。
貧乏な絵かきたちはキャンバス地にも困っていた。のちに古沢岩美が朝日新聞の懸賞絵画の一席になり、千円を手にした折、彼は仲間の絵かきたちに立派なキャンバス地を何反も送り生涯感謝されている。
利行は寺田の家へ行くと二、三日泊った。安酒を飲み、酔うと饒舌になる利行の独壇場だった。
晦渋で意味不明の言葉を速射砲のように並べたてたが、ときにドキリとするほど言葉を決めた。咳唾珠(がいだたま)を成す詩藻が充ちていた。
朝擾坊の利行は昼間は口数が極端に少なく畳の上でゴロリと横になって時を過ごした。
昼近くなると「精神がはっきりしてきた」といって立ち上がり、そこいらの寺田の古キャンバスに向かって絵筆をとった。
二科展に出品した「割烹着」は寺田夫人をモデルにしたもので、遣い手の剣士がエイヤーと敵を切り倒すように、ものすごい気魄でものの三十分もかからないうちに仕上げた。
気合が充ちたときの利行は異様な殺気や妖気を漂わせた。彼は直観の明晰を描いた。一瞬の感性をキャンバスに凝縮させた。一瞬を時間から強離した。一瞬の至福のために生活を捨てた。面子を捨てた。血族を捨てた。そして自分さえ放擲する。残された年月は両手の指の数も残っていない。」(『評伝長谷川利行』)

(つづく)

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」



0 件のコメント: