2019年4月12日金曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(12) 1929年(昭和4年) 松本竣介17歳、上京、太平洋画会研究所選科に通う 靉光の画家としての出発点

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(11) 柿手春三、寺田政明、古沢岩美、上京。松本竣介(16歳)盛岡中学絵画倶楽部に入部。佐伯祐三(30歳)パリで死去
から続く

1929年(昭和4年)
福沢一郎(在仏)
この年頃から、デ・キリコ、マックス・エルンストの作品に強い刺激を受け、シュール・レアリスムのコラージュの手法を用いた作品を制作し始めた。
同4年、第16回二科展に中山巍の推薦で、《シーン》《横たわる女》など10点が特陳され、また、1930年協会会員となる。

1929年(昭和4年)
松本竣介17歳
3月20日、中学3年終了して盛岡中学を退学
4月、兄彬の東京外国語学校ドイツ語部入学を機に、兄、母と上京。附属小学校の恩師で前年に上京していた佐藤瑞彦の世話でその隣家(現、池袋)に住む。
太平洋画会研究所選科に通う。研究所は下谷区谷中真島町(現、台東区谷中)にあり、指導陣は鶴田吾郎、阿似田治修等。特に阿似田の自宅を訪ね個人的にも指導を受ける。

「昭和四年三月、(中学校)三年生を終えるころ、兄が東京外国語学校の独語部に合格したのを機に、兄弟は母親につきそわれて上京した。池袋の停車場ちかく、羽仁吉一・もと子夫妻の自由学園教師をたよっての旅であった。たよられたその人は、竣介の小学校のころの恩師で、自由学園のすぐ裏の自宅のとなりに二階家を用意してくれていた。母もしばらくはいっしょに住んで子の面倒を見、そのもとから、兄は皇居にちかい竹橋の東京外語へ、弟は上野にちかい太平洋画会研究所へかよいはじめた。竣介はまだ十七歳であった。・・・・・
・・・・・研究所の騒動はすでにはじまっていた・・・・・。」(『池袋モンパルナス』)

太平洋画会研究所の騒動(『竣介』)
「・・・・・デッサンの消しゴム用のパンをめぐって騒動がもちあがろうとしていたのだ。
戦前の貧乏画学生たちはみんなそのパンをたべて飢えをしのいでいたのだが、ここでは竣介が入った年の正月からパンを配給制にした。授業料を払わぬ者が多いのに業を煮やしてのことだった。ところがそれをきっかけに竣介入学後の七月にストライキがおこり、できたばかりのプロレタリア美術家同盟から応援がきてビラも貼られ、それが新聞に大きくでた。経営者は門に丸太を打ちつけてロックアウトにでた。
まもなく夏休みに入って騒ぎはおさまったが、経営者はいったん研究所を閉鎖して晩秋、おとなしい生徒を呼びもどして学校法人太平洋美術学校をつくり、東京美術学校に似た制服制帽を用意して再発足した。ストライキの首謀者たちは追放されたり去っていったりした。竣介はもちろん残った組で、去っていったなかに靉光、井上長三郎、鶴岡政男がいた。かれらはのちに竣介と親しくつきあうことになるのだが、そのころは顔も知らなかった。かりに顔をみたとしても、相手はあまりに坊っちゃん坊っちゃんしていたから騒動に誘うにも気が引けたことだろう。」(『松本竣介』)
9月、盛岡中学校絵画倶楽部の秋季絵画展覧会に出品。

1929(昭和4)年
寺田政明、太平洋画会研究所(5年、太平洋美術学校と改称)で学び、鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎らを知る。

1929年(昭和4年)
靉光の画家としての出発点
この年、第四回一九三〇年協会展でも《風景》で同協会賞を受賞。

「靉光はそうしながら(公募展に応募しながら)、ときどき太平洋画会研究所をおとずれ、そこの創立記念日には、鶴岡らとともに、精神分析色の淡いユージン・オニールの芝居『鯨』を演じたり、また別の日には、築地小劇場の最大の当たり狂言となったマキシム・ゴーリキーの『どん底』の本読みにふけったりしていた。いま、埼玉県新座市に住む未亡人、石村キヱのもとに、女装した靉光の写真がのこっているが、それはこのころのものである。黒のつば広のボンネットをかぶり、口紅はピエロのように、うんと厚くぬっている。アイシャドーは頬骨のあたりまで拡がっている。・・・・・
・・・・・
野人たちの、こうした勝手気ままな振舞いは、研究所の経営者にとって頭痛タネだったようである。上野の画材屋「払雲堂」主人浅尾丁策は、研究所にえのぐや筆をおいて委託販売していたが、ある日おとずれると、その日は創立記念日で先生も生徒もいなかった。事務の池田老とふたりで一杯やるうちに老は「月謝をはらわない生徒が大勢いてこまる。名まえを貼りだしても、いつのまにかもぐりこんで平気で描いている」とこぼした。昭和四年春の話である。
実は、そんな状態はかなり以前からあった。それを、書家であった前任の事務員は、おおらかに見のがしていたが、池田老は、デッサンの消しゴム用のパンの配給をきびしくして対抗した。それまで、アトリエの隅の大きなみかん箱に山と積んであったパンをひっこめ、生徒ひとりひとりを首実検して、授業料をおさめている者にだけパンをわたしたり、あごひげの小使に命じ、パンに蝿取り粉をまぶして食えなくしておいたりした。"
"これでネをあけた若ものは、思いのほか多かった。かれらは、消しゴム用のパンを食って飢えをしのいでいたのだった。特別に安もので、ひどくまずいそのパンも、かれらにとっては、合法的にタダでありつける、ただひとつの食糧であった。・・・・・
・・・・・柿手(春三の回想)・・・・・。
「あれにゃあ往生しましたよ。わたしゃあ月謝はおさめよったんで、パンはもらいよりましたが、以前のようにゃあ、たんとはもらえんわけですよ。消しゴムにも使わにゃあいけんし。そのうち研究所を学校にするいう話になったんです。月謝を、きちっとおさめさせるためでしょうな。学校いうても、卒業免状もろうても、あんなもんは絵かきのたしにならんでしょうが。それよりパン食えんのがつろうて。月謝おさめんもんに同情があっまってストライキになったわけですわ。わたしゃあ、もうややこしゅうて、とにかく絵を描きたかったもんで川端画学校へ移ったんです。そう、後楽園のちかくの小石川富坂、藤島武二がやりよった学校です」
パン配給に対する生徒の抵抗は、昭和四年正月からはじまっていた。井上、鶴岡(政男)らが中心になって、池田老の解雇とパン配給の方法をもとへもどすことを研究所の常務委員会に要求したが拒否され、確執がしばらくつづいたころ、授業料未納者もふくめた十数人が、アトリエでスキヤキパーティをひらいた。怒った経営者は、授業料未納の十五人の名まえを貼りだし、除籍を通告した。十五人のなかには、数カ月も滞納しているものがいた。
一回の警告もなく、突然の除籍はけしからんと井上や鶴岡たちはいい、七月四日、生徒の署名をあつめ、授業料をプールし、連判状を常務委員会に提出、除籍者の復帰と池田老の解雇をかさねて要求し、石川寅治、中村不折、鶴田吾郎ら常務委員の家を一軒一軒たずねあるいた。石川らは酒をふるまい、本郷の洋食屋「鉢の木」に首謀者を招待し、かれらが一度も口にしたことのない洋食のフルコースをあてがって切りくずしにかかった。鶴岡たちは、ずるずると音をたててスープをのみ、ナイフとフォークをガチヤつかせてご馳走をベロリと平らげて平然としていた。そんな騒ぎのさなかに、できたばかりの日本プロレタリア美術家同盟から応援がきて、所内は騒然となった。
たまりかねた経営者は研究所を解散し、あらたに学校組織として再発足すると発表した。井上らはなおも抗議しつづけたが、常務委員会は、研究所の門に、十字に組んだ丸太を打ちつけ、ロックアウトに出た。やがて夏休みに流れこんで自然閉鎖の形となり、秋からは学校形式をとり、翌四年四月、正式に太平洋美術学校となった。鶴岡たち十五人は結局、除籍されたままであった。靉光は除籍されなかったが、以後姿をあらわさなくなった。」(『池袋モンパルナス』)

井上や柿手や鶴岡や靉光とちがって、太平洋画会研究所から太平洋美術学校へと、すんなり進んだ者(松本竣介、寺田政明、麻生三郎)もいた。
太平洋画会研究所が閉鎖されたのにともない、靉光は数人の画友とともに退学処分にあい、7月、その仲間たちとグループ「洪原会」を結成するが、創立会員に名を連ねただけでそこには出品せず、代わりに第6回槐樹社展に「Mキャンデストア」を出品して入選する。
その頃、太平洋画会時代からの画友である鶴岡政男や大野五郎にむかって
「こんな時代に、われわれはこんな絵をかいていていいんだろうか」
と弱音をはく靉光の姿がみられたという。

(つづく)

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」




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