1896(明治29)年
3月
河井酔茗編「詞藻」(少年園)
3月
大塚保治、ドイツ、フランス、イタリアに留学。
7月に長女雪枝が誕生。妻の楠緒子は声楽と英語を松野フリーグに学ぶが、結婚後は明治女学校で英語を聴講(2年間)。ピアノを音楽学校教授橘糸重子に、絵画を跡見玉枝、橋本雅邦に学ぶ。
保治の留守中、楠緒子は保治の実家、鮮馬県笹井で約1ヵ月間、結核の静養を兼ね過ごす。
3月
与謝野鉄幹、朝鮮より帰国。
3月
製鉄所官制、公布。翌年5月、福岡県八幡村に開庁して建設開始。
3月
グスタフ・マーラー、「交響曲ニ長調」のタイトルでベルリンで初演。4楽章版、「巨人」のタイトル削除。
3月
エジプト軍司令キッチナー、スーダン遠征開始。遠征軍2万5800人。
3月上旬
一葉、大橋乙羽より口絵付きの新作を急ぐように催促される。
「通俗書簡文」、「たけくらべ」の「文藝倶楽部」への一括再掲など、博文館との仕事が錯綜していたが、ここでは新作(「われから」)の口絵の締め切りが迫っているので、これを優先させた。
この頃から肺結核かなり進行。病床の中で「通俗書簡文」を執筆、5月初めようやく完成。同時に「われから」を執筆、難行の末、4月に脱稿。
3月1日
改進党中心に、自由党離党者を含め自由党諸派と、進歩党(党首大隈重信)結成。尾崎行雄、犬養毅らが総務委員。3月末時点の議席(300議席中)、自由党109、進歩党100、他91。
「進歩党の新発足を機に二十九年の朝日社論は大きく転換した。陰に陽に支援を惜しまなかった自由党を見限って、改進党を母体とする進歩党に支持を移したのである。三月初旬、大朝は社説「進歩党の前途」、「進歩党の名と実」などをかかげて好意ある期待を寄せた」(朝日新聞社史)。
自由党実力者星亨の機関紙「めさまし」を買収し、全社員を引き取って発足した「東朝」は自由党色が強いが、伊藤博文内閣と自由党の提携を境に、進歩党支持の色合いを強める。
3月1日
皇帝メネリク2世率いるエチオピア軍、アドワで伊軍と衝突、壊滅させる
3月1日
フィリピン、秘密結社カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。地方組織拡大の契機に。
3月2日
佐藤紅緑(本名洽六)、初めて子規庵の句会に参加。
佐藤紅緑の子規との出会い(森まゆみ『子規の音』より)
明治7(1874)年生まれ。父佐藤弥六は慶応義塾に学んだ弘前の名士。東奥義塾、弘前中学に学び、同じ弘前出身、親戚筋の陸羯南を頼って明治26(1893)年春に上京し、陸家の玄関番を務めていた。国文学の研究をしたいという紅緑に、斜め前に住んでいる「正岡がよかろう」と陸がすすめたが、正岡は夏に東北へ旅行していてなかなか帰っては来なかった。
「それから秋の夕幕の頃である、書生部屋に灯を付けようと思って居たら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立って居たのは肩の幅が広く四角で丈けは余り高くない顔は白く平ったい方の人間である」(別巻②佐藤紅綬「子規翁」)
案内も待たずにのこのこ中に入ろうとする。名前を聞くと「正岡です」とハッキリ答えた。
「此年の冬である。正岡さんでは謡(うたい)を始め出した。われわれの日曜日は向いでも必らず謡をやる。开(そ)は二人若(もし)くは三人で其中に一番低い声で一番まずいのは正岡さんだろうと玄関で専ら評判であった」近隣騒音というべきか。対抗して玄関番3人は庭で撃剣を始めた。
弱った子規は玄関番と仲良くなるにしくはないと思ったのであろう。「道濯山の樅(もみ)の枝に鳶が巣をくうて無数の烏が毎朝之れを攻囲するというから見に行きませんか」と丁重にさそった。紅綬は2人で出かけた。そのときに義経船繋ぎの松や道濯山の由来やらを聞いて大いに驚き、この人は「ものを知ってる」と感服した。兵児帯を締めた書生っぽい「正岡さん」が急にえらく見えた。ただし、義経船繋ぎは道灌の間違い。いまの日暮里青雲寺の岡の上に、遠く荒川を行き来する船が目印とした道濯舟繋松というものがあった。
その後、子規は陸邸を挟んで反対側の上根岸町82番地に転宅した。紅緑が手伝った。どんな本を持っているんだろう。行ってみると「第一に驚ろいたのは写本である」。すべて自分で写している。それに感心した。
「発句はどうですやりますか」と聞かれ、紅緑は「イヤやった事がありません。狂歌ならば好んで読む位の事です」。子規は色の黒い五百木瓢亭と顔を見合わして笑った。
やがて紅緑は日本新聞社に入社。そこに「小日本」が廃刊になって子規が戻って来た。隣の「正岡さん」は7歳年上だが、同僚「正岡君」になった。「極めて無頓着な粗暴な、構わぬ方で、始終懐手で其の懐には売卜者の如く古書やら反古やらを食(は)み出したままに詰め込んで居る」。着物の着方もだらしない。兵児帯もゆるく、大きな俎(まないた)下駄をはいて引きずるように歩く。給料袋はいつも机の上にそのままほったらかし、大食漢で原稿の上にはいつも焼芋、蜜柑、菓子があった。硯箱には釣り銭の銀貨、銅貨が散らばっていて、暑い時に氷を飲みたいと思えば同僚たちはその小銭の恩恵を被った。日清戦争の頃は宿直があり、紅綬は子規と折々同衾した。
明治27(1894)年9月19日、紅緑の俳句入門の日。子規は俳句をやれとは言わなかったが、どの句が面白い、とある時間いた。これがいいというと、ここがまずいと答えた。興味を持って紅緑は俳句を作り出した。雄渾壮大なのがいい、というので、「隣村の案山子もてくる野分かな」とやったら、これでも困ると笑った。
入門してからは「正岡先生」となった。しかし子規が先生と呼ばれるのを嫌がるので、翁と呼ぶことになった。
子規が腰が立たなくなってからは紅緑は根岸の家を訪ねる。しかし俳句を作って行かないといけない。これがたいへんだった。(ここまで引用は別巻②佐藤紅緑「子規翁」)
子規は紅緑の才能を買い、愚直な勉強ぶりを楽しみにしていた。
(森まゆみ『子規の音』要旨)
3月5日
漱石、子規に宛てて句稿を送る。正岡子規宛に句稿その十二を送る。102句。24日にも。正岡子規宛に句稿その十四を送る。40句。
3月5日
大杉栄(11)叔父大杉権九郎が亡くなる。「一日無理に学校をやすませられた」
3月13日
小田原・熱海間に人車鉄道開通。8人乗りの客車を3人の車夫が交替で押す。小田原から熱海まで3時間。小田原の停車場は早川口。「あたみに冬なし」と宣伝されたので、利用者も多い。
3月14日
明治29年度歳計予算(戦後経営の第1年度予算)公布。歳入1億3789万・歳出1億5218。
3月15日
日本郵船、欧洲定期航路を開始。
3月15日
山県有朋(57)、横浜港から出航、ロシア皇帝ニコライ2世即位戴冠式に参列。7月28日横浜に帰着。
3月15日
一葉、関如来より立教学校文学会が出している雑誌「八紘」に寄稿するように請われるが断る。昨年末、野々宮菊子との縁談がこわれて以降、如来からの原稿は断るようになっていた。
つづく
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