2024年7月7日日曜日

大杉栄とその時代年表(184) 1896(明治29)年3月16日~4月6日 子規、腰痛はリュウマチではなく脊椎カリエスだと知る 第一回のカリエスの手術 漱石の第五高等学校転任発表 星亨、駐米公使に任命

 

1896年アテネオリンピック(第一回オリンピック)開会式

大杉栄とその時代年表(183) 1896(明治29)年3月1日~15日 一葉の肺結核かなり進行 改進党を母体にして進歩党(党首大隈重信)結成 佐藤紅緑、子規庵句会に初参加 日本郵船、欧洲定期航路を開始 より続く

1896(明治29)年

3月17日

子規、往診にきたリュウマチの専門医に、これは結核菌が腰骨に食い入っているカリエスだと宣告される。

この日付け子規の虚子宛て手紙。


「子規の腰痛はリュウマチではなかった。それが脊椎カリエスであることを医者から知らされたとき、子規は、「五秒間」茫然としてわれを忘れ、やがてその自失状態のなかで、


「世間野心多き者多し。然れども余(お)れ程野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるゝ者多し。されど余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならず。縦(よ)し俳句に於て思ふまゝに望を遂げたりとも、そは余の大望の殆んど無窮大なるに比して僅かに零を値すのみ。」(三月十七日付虚子宛)


と思ったと記している。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


「三月一七日、歩行の自由を失うまでになっていた腰痛について、リウマチ専門の医師の診断を受け、リウマチではなく結核によって骨質が破壊されるカリエスであることが明らかになり、子規は大きな衝撃を受ける。この診断を受けたときの衝撃を、帰省中の高浜虚子に同日付の手紙で知らせていた。医者から結核性脊髄炎という宣告を受けた子規は、自らの生きることの出来る時間が残り少ないことを、はっきりとつきつけられたのである。

医師が帰った後、「十分許り何もせず」という状態になるほど衝撃は強く重かった。そして、自分の社会的野心の強さを「余レ程の大望を抱きて地下に逝く者ハあらじ」と明言したうえで、「俳句の上」においては「多少」はその思いを実現しているものの、「余の大望」の「無窮大」に比べれば、「零」でしかないとも述べている。自分の絶望と落胆を子規は虚子に素直に告白している。同時にこの手紙の中で、高浜虚子や河東碧梧桐らがつくった回覧小説集『菜花集』に収められている虚子の『糊細工』という小説を読んで、「一切の事物を忘れてしまふやう」な「笑ひ」によって「慰め」られたと記してもいる。文学的営為の中でこそ子規の生きる力が出て来るのだ。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

3月19日

午後2時、虚子庵で「俳譜散心」第1回開かれる。

3月23日

堀合節子、盛岡仁王尋常小学校卒業。早春の頃、伯父の許より盛岡市新築地二番地に住む従姉海沼ツヱの家に移る。当時ツヱは海沼家の戸主で、母のイヱ(啄木の伯母)と長男慶治と三人暮しであった。

3月24日

航海奨励法・造船奨励法、公布。大型鉄鋼汽船に対し奨励金を交付。

3月25日

田中正造、第9議会において永久示談の不当性を追及

3月25日

啄木(11)、盛岡高等小学校1年修業証書授与式。当時の成績は善、能、可、未、否の五段階で示されたが、啄木の修了成績は「学業善・行状善、認定書」の好成績であった。

3月26日

(旧暦3月3日)大刀会の劉士端、2度目の「唱戯」開催。山東省曹県西3kmの火神廟。4日間、5~6千人集合。知県・知府への威嚇・警告(強大な大刀会を討伐しようとする)。

「唱戯」の後、韓楼教会攻撃未遂事件。劉士端・曹徳礼らが曹県知府李銓と共同で曹県城南の韓楼の教会を攻撃し匿われている盗賊を捕らえようとする。曹州知府毓賢が知府李銓を説得したため、教会包囲威嚇で止まる。先に大刀会が盗賊岳二米子を討った時、残党が大挙して天主教の庇護のもとに走ったため(天主教は信者を増やすため無頼の徒も受入れる)。

3月26日

一葉、高瀬文淵から原稿の催促を受ける。

3月27日

子規、佐藤三吉医師の執刀によりカリエスの手術を受ける。


「二十七日佐藤三吉博士の執刀で第一回のカリエスの手術を行なう。佐藤は大垣藩士で、ベルリンで学び、当時、東京帝国大学の外科教授。子規の従弟藤野古白のピストル自殺の際も蘇生措置をほどこしたのはこの佐藤であった。この人も満十四歳で大学東校に入学しており、森鴎外より五歳年上である。当時としては一流の外科医であり、よく名前を見る。

碧梧桐が立ち会った。背中の隆起に銀色の管を突き刺す。そして中の膿を誘い出すが、場所が当ず、二度刺し替えた。しかし軽快感は一週間と保たず、刺したあとも癒着せずに穴から膿汁が出ていた。子規は一月歩けなかった。」(森まゆみ『子規の音』)

3月30日

愛媛県尋常中学校第4回卒業式。漱石の第五高等学校転任が発表される。

「自分は松山を去るものだ」と前置し、学問であろうが芸術であろうが、一苦労せねば出来上るものではない、と述べ、校長排斥運動をした生徒たちに警告を与える。

3月31日

拓殖務省官制・台湾総督府条例により台湾民政移行。

3月31日

臨時軍事費特別会計終結。陸軍13師団に拡張。

3月31日

一葉、戸川秋骨に手紙。秋骨が、小出粲に「うらわか草」の題字を書いてもらえるよう一葉経由で頼んできたが、一葉としては直接頼みに行くことができないので暫く待つように返事する。「うらわか草」は、「文学界」が大衆化するのに反抗して、同人幾人かで企画した雑誌。結局、一葉の依頼は通じて、小出は大きさの異なる何種類かの題字を書いてくれた。


4月

清国政府が日本への初の官費留学生を派遣

4月

史上初のキスシーンを描いた映画『M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻』公開

4月

星亨、駐米公使に任命され、翌5月、妻と養子の光を伴い、ワシントンへ出発。

星は土佐派主導の提携には不満だが、代議士数の少ない星派は劣勢で主導権回復は容易でない。彼は党運営に加われず、外国行きを希望、それは政府にとっても好都合。提携が伊東・林ラインで既定路線となった時点で、彼の存在はかえって危険。星にとってアメリカは3度目。日米間には重大な懸案事項はない。

4月

一葉、喉に腫れを覚える

4月

坪内逍遥(37)、創立された早稲田中学校の教頭となり、以後、倫理教育に情熱を注ぐ。

4月

中里弥之助(介山、11)、西多摩小学校高等科2年終了ののち、同校教員助手となる。少年夜学会を主宰。

4月

後藤宙外「小説界の前途」(「早稲田文学」)

4月

アンリ・マチス(27)、ソシェテ・ナシオナル・デ・ボザール展に4点の作品を発表。『読書する少女』が国家買い上げとなりランブイエ城に飾られる。また同展の準会員に推挙される。

4月1日

広島大本営解散

4月1日

堀合節子(後、啄木と結婚)、盛岡高等小学校入学。渋民村出身の金谷のぶを知る。

4月2日

朝鮮、高宗、ロシア公使館より宮廷に戻る

4月3日

イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・スポルト」創刊

4月4日

森鴎外父静男、没。

4月4日

高野房太郎乗船マチアス号、済物浦(仁川)着

4月5日

一葉、高瀬文淵から、3日以内に「裏紫」続稿を送るよう差し即されるが、結局原稿は出来上がらず「新文壇」は5月で廃刊となる。

4月6日

アテネ、第1回オリンピック、開催。13ヶ国。~4月15日


つづく

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