2024年11月30日土曜日

大杉栄とその時代年表(330) 1901(明治34)年4月7日~10日 「日本の紳士が徳育、体育、美背の点に於て非常に欠乏して居るといふ事が気にかゝる。其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか彼等が如何に浮華であるか彼等が如何に空虚であるか彼等が如何に現在の日本に満足して己等が一般の国民を堕落の淵に誘ひつゝあるかを知らざる程近視眼であるか抔といふ様な色々な不平が持ち上つてくる。」(夏目漱石「倫敦消息」(一))

 

Clapham Common

大杉栄とその時代年表(329) 1901(明治34)年4月3日~6日 「春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。」(子規「墨汁一滴」)  より続く

1901(明治34)年

4月7日

「 この頃は左の肺の内でブツ/\/\/\といふ音が絶えず聞える。これは「怫(ぶつ)々々々」と不平を鳴らして居るのであらうか。あるいは「仏々々々」と念仏を唱へて居るのであらうか。あるいは「物々々々」と唯物説(ゆいぶつせつ)でも主張して居るのであらうか。

(四月七日)」(子規「墨汁一滴」)


4月8日

「 僕は子供の時から弱味噌(よわみそ)の泣味噌(なきみそ)と呼ばれて小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直(ただち)に泣き出すのである。そんな機会はなくても二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴があつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。

(四月八日)」(子規「墨汁一滴」)

4月8日

4月8日~9日 ロンドンの漱石


「四月八日(月)、 Easter Monday (イースター・マンデー)、 Bank Holiday (一般公休日)。 Kennington から Clapham Common (クラッパム共有地)に行く。 Mrs. Edghill から、十七日(水)のお茶に招待するとの手紙届く。田中孝太郎は夜遅く、旅行から帰る。

四月九日(火)以前(一ゕ月以内と想像される)、正岡子規から、病気がよくないという葉書届く。

四月九日(火)、午前七時二十分前に目覚める。朝食の時、田中孝太郎から Shakespeare の胸像と Stratford-on-Avon (ストラットフォード・オン・エーヴォン)のアルバムを貰う。旅行談を聞く。 ""The Standard"" 紙を読む。 Dr. Craig の許に行く。帰宅して聖公会の牧師 Rev. P. Nott (Mrs. Nott の夫)、突然来訪する。 Walker (ウォーカー)宅(St. James Place)に茶の招待を受ける。午後九時頃 Mrs. Edghill に十七日(水)の招待に対する、承諾の手紙を出す。夜、正岡子規・高浜虚子宛連名の長い手紙書く。(「倫敦消息」其一(『ホトトギス』第四巻第八号 五月三十一日刊)として発表される。但し、最初と最後は省略される。)」(荒正人、前掲書)


4月9日、漱石、「子規の病を慰める為め、当地彼地の模様をかいて遥々と二三回長い消息」を送る。この日(9日)、20日、26日付。ロンドン生活のエピソードを諧謔を交えて綴ったこの手紙は病床の子規を大変に喜ばせ、子規はこの手紙を「倫敦消息」と題して『ホトトギス』(第4巻8号及び第4巻第9号)に掲載。 

夏目漱石『倫敦消息』(青空文庫)

4月9日付け漱石から子規への手紙


「其後は頓と御無沙汰をして済まん。君は病人だから固より長い手紙をよこす訳はなし。虚子君も編緝(へんしゆう)多忙で『ほとゝぎす』丈を送ってくれる位が精々だらうとは出立前から予想して居つたのだから、手紙のこないのは左迄驚かないが、此方は倫敦といふ世界の勧工場の様な馬市の様な処へ来たのだから、時々は見た事聞た事を君等に報道する義務がある。是は単に君の病気を慰める許りでなく虚子君に何でもよいからかいて送って呉れろと二三度頼れた時にへいへいよろしう御座いますと大揚に受合つたのだから手紙をかくのは僕の義務さ。・・・・・それだから今日即ち四月九日の晩をまる潰しにして御両君に御詫旁(かたがた)何か御報知を仕様と思う。報知したいと思う事は沢山あるよ。こちらへ来てからどういうものかいやに人間が真面目になってね。色々な事を見たり聞たりするにつけて日本の将来という問題がしきりに頭の中に起る。・・・・・」

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「「倫敦消息(一)」には次のようなことが書かれている。

漱石はロンドンに来てから、どういうものか「いやに人間が真面目」になって、「日本の将来と云ふ問題がしきりに頭の中に」起きること、英国紳士は「如何なる意味を持つて」いるのか、一般の人がいかに「鷹揚で勤勉であるか」ということ、時にはロンドンがいやになって早く日本へ帰りたくなるが、「日本社会の有様」が目に浮かんで、「たのもしくない情けない心持」になること。例えば、

日本の紳士が徳育、体育、美背の点に於て非常に欠乏して居るといふ事が気にかゝる。其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか彼等が如何に浮華であるか彼等が如何に空虚であるか彼等が如何に現在の日本に満足して己等が一般の国民を堕落の淵に誘ひつゝあるかを知らざる程近視眼であるか抔といふ様な色々な不平が持ち上つてくる。                                          (『漱石全集』一二巻)

と、日本の紳士にたいする、漱石の持論ともいうべき不満足感を披瀝している。イギリス紳士との比較であろうが、日本紳士への厳しい批判である。以下、「今日起きてから今手紙を書いて居る迄の出来事を、いま『ホトゝギス』で募集している日記体で書いて御目にかけ様」というもので、漱石の四月九日の起床後の行動が逐一冗舌に報告されている。新聞では「支那事件」(義和団の乱)、「トルストイ」のことなどを読んだこと。日本ではまだ見ることの出来ないロンドンの「地下鉄」や「昇降機」のこと、車内の風景などが写生的に描かれている。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

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「ステッキでも振り回してその辺を散歩する・・・。向へ出てみると逢う奴も逢う奴も皆んな嫌に背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背いに税をかけたら少しは倹約した小さな動物が出来るだろうなどと考えるが、それはいわゆる負惜しみの減らず口と云う奴で、公平な処が向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持がする。向うから人間並外れた低い奴が来た。占(しめ)たと思ってすれ違ってみると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な黄色をした一寸法師が来たなと思うと、これ。すなわち乃公(だいこう。尊大に、じぶんをさしていう語。我が輩)自身の姿が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。」(『倫敦消息(一)』) 


朝食の献立について

「例の如く『オートミール』を第一に食ふ。これは蘇格土蘭人(スコットランド)の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食ふ 我々は砂糖を入れて食ふ。麦の御粥(おかゆ)みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には『オートミール』・・・蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから『ベーコン』が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほか焼パン二片茶一杯、それで御仕舞だ。」(『倫敦消息(一)』) 


4月9日

幸徳秋水(31)「われは社会主義者なり」(「万朝報」)。

4月10日

小村寿太郎駐清公使、日本の義和団賠償金4,607万円(4月末まで)を財源調査委員会に通知。

4月10日

外務省(外相加藤高明)に林董駐英公使より電報。駐英ドイツ代理公使エッカルトシュタインが「日英独3国同盟」提案。

12日、再度電報。ドイツ代理公使は、清国の領土保全・門戸解放のため、欧州における「独墺伊3国同盟」なみの同盟を日英独間で締結したいとの提案。加藤外相は意志表示しない旨を訓令。前首相山県は、日露間の戦争回避の為、日英独3国同盟構想を支持する意向表明。伊藤はこれを無視。

4月10日

川上音二郎(37)一行、再渡航。神戸発。

4月10日

「 余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁(かっぺき)などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三、四人多きは二、三十人もつれ立ちて行くのである。それには先づ各自各家に弁当かまたはその他の食物を用意し、午刻(ごこく)頃より定めの場所に行きて陣取る。その場所は多く川辺の芝生にする。川が近くなければ水を得る事が出来ぬからである。また川辺には適当な空地があるからでもある。そこに毛氈(もうせん)や毛布を敷いて坐り場所とする、敷物が足らぬ時には重箱などを包んである風呂敷をひろげてその上に坐る。石ころの上に坐つて尻が痛かつたり、足の甲を茅針(つばな)につつかれたりするのも興がある。ここを本陣として置いて食時(しょくじ)ならば皆ここに集まつて食ふ、それには皆弁当を開いてどれでも食ふので固(もと)より彼我(ひが)の別はない。茶は川水を汲くんで来て石の竈(かまど)に薬鑵(やかん)掛けて沸かすので、食ひ尽した重箱などはやはりその川水できれいに洗ふてしまふ。大きな砂川で水が清くて浅くて岸が低いと来て居るから重宝で清潔でそれで危険がない。実にうまく出来て居る。食事がすめばサア鬼ごとといふので子供などは頬(ほお)ぺたの飯粒も取りあへず一度に立つて行く。女子供は普通に鬼事(おにごと)か摘草(つみくさ)かをやる。それで夕刻まで遊んで帰るのである。余の親類がこぞつて行く時はいつでも三十人以上で、子供がその半(なかば)を占めて居るからにぎやかな事は非常だ。一度先生につれられて詩会をかういふ芝生で開いた事もあつた。誠に閑静でよかつた。しかし男ばかりの詩会などは特別であつて、普通には女子供の遊びときまつて居る。半日運動して、しかも清らかな空気を吸ふのであるから、年中家に籠(こも)つて居る女にはどれだけ愉快であるか分らぬ。固よりその場所は町の外で、大方半里ばかりの距離の処で、そこら往来の人などには見えぬ処である。歌舞伎座などへ往て悪い空気を吸ふて喜んで居る都の人は夢にも知らぬ事であらう。

(四月十日)」(子規「墨汁一滴」)


4月10日

ロンドンの漱石


「四月十日(水)、午後三時から Mrs. Walker 宅のお茶の集りに行く。 Rev. P. Nott と Mrs. Nott 来る。イギリスとイギリス人について、 Rev. P. Nott と語る。帰宅すると、正金銀行から電信為替を送って来ている。 ""Century Ed. of H. of England"" (Cassel ed.)のページを切る。」(荒正人、前掲書)


つづく

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