1901(明治34)年
2月17日
梶井基次郎、誕生。
2月17日
2月17日~19日 ロンドンの漱石
「二月十七日(日)、吹雪。暫くして止む。ロンドンで四回めの雪である。田中孝太郎と Brixton (ブリクストン)で買物をする。(推定)
二月十八日(月)、床屋に行く。帰途、 Denmark Hill (デンマーク・ヒル)を散歩する。午後五時頃から下宿の女たちと話す。
二月十九日(火)、Dr. Craig の許に行く。 George Meredith (ジョージ・メレディス)の事を聞いたら、知らぬと云い、いろんな弁解をする。それにも及ばぬことだと思う。午後三時頃、 Piccadilly (ピカデリー広場)を通っていると、太陽が急に姿を消す。市中は真暗になり、ガスと電気がつく。(ガスも電気も日本では珍しい)また、日記に、「A thing of beauty is a joy forever : / Its lovelinness increases ; it will never / Pass into nothingness ; but still will keep / A bower quiet for us. and a sleep / Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing.」(美しきものは永久の喜び/その魅力はいやましにまして、絶えて虚無に移ろうことなし、保ち続く/われらの静寂の寝室、眠りは/甘い夢と良い体の調子と穏やかな息使い。)と書き込み、 Keats (キーツ)という男は、こんなことを考えていたと記している。」(荒正人、前掲書)
2月18日
子規の随筆「死後」(「ホトトギス」(4巻5号)掲載)。
2月19日
衆議院、増税諸法案を可決。
27日、貴族院本会議は、委員会で否決の増税諸法案を上程。
2月20日
ロンドンの漱石
「二月二十日(水)、鏡宛の手紙に、同宿している田中孝太郎と時時芝居に行くが、修業のためで贅沢ではない。自分は謹直方正だから安心するようにと書き送る。自分のような不人情なものでも、頻りにお前が恋しいと洩らしている。手紙を書いて散歩する。夕方、高浜虚子から『ホトトギス』(四巻三号 明治三十三年十二月十五日発行)を送られ、嬉しく思う。夜、それを読む。」(荒正人、前掲書)
2月20日付け漱石の妻、鏡子宛て手紙。
「国を出てから半年許りになる。少々厭気になつて帰り度なつた。御前の手紙は二本来た許りだ。其後の消息は分らない。多分無事だらうと思つて居る。御前でも子供でも死んだら電報位は来るだらうと思つて居る。夫だから便りのないのは左程心配にはならない。然し甚だ淋い。
「御前は子供を産んだらう。子供も御前も丈夫かな。少々そこが心配だから手紙のくるのを待つて居るが、何とも云つてこない。中根の御父つさんも御母さんも忙がしいんだらう。
「金巡りさへよければ少しは我慢も出来るが、外国に居て然も嚢中(なうちゆう)自(おのず)から銭なしと来ては、さすがの某(それがし)も中々閉口だ。早く満期放免と云ふ訳になりたい。然し書物丈は切角来たものだから、少しは買つて帰り度と思ふ。そうなると猶必逼する。然し命に別条はない。安心するが善い。
「段々日が立つと国の事を色々思ふ。おれの様な不人情なものでも頻りにお前が恋しい。是丈は奇特と云つて褒(ほ)めて貰はなければならぬ。夫から筆の事だの、中根の御父つさんや御母さんの事だの、御梅さんや倫さんの事だの、狩野だの正岡だの菅だの山川だの、親類や友達の事なんかを無暗に考へる。其癖あまり手紙は書かない。
「おれの下宿は気に喰はない所もあるが先々(まづまづ)辛防(しんぼう)して居るよ。妻君の妹が洗濯や室の掃除抔の世話をする。中々行届いたものだ。
「おれの下宿には○○と云ふサミユエル商会へ出る人が居る。此人はノンキな男で、地獄の話より外は何にも知らない人だ。此人と時々芝居を見に行く。是は一は修行の為だから敢て贅沢ではない。
「西洋は家の立て方から服装から、万事窮屈でいかぬ。そして室抔は頗る陰気だ。殊に倫敦は陰気でいけない。昨日も三時頃「ピカーデレー」と云ふ所を通つて居ると、突然太陽が早仕舞をして市中は真暗になつた。市中は瓦斯と電気で持つて居る騒ぎさ。
「からだが本復したらちつと手紙をよこすがいゝ」
2月21日
義和団事件の首謀者への処遇が確定。この日、載勛(さいくん)は従容と自殺。
北京陥落に伴い皇太子であった師傳宝豊、崇寿らは自殺している。また、剛毅は西安へ向かう途次の1900年10月21日に病没。
2月21日
キューバの制憲議会、大統領・二院制議会を定めた憲法採択。
2月21日
アインシュタイン、スイス市民となる。
3月13日、扁平足と静脈瘤の為、スイス兵役に不適と宣告。
2月21日
この日付け漱石の『日記』
「Carls-bad ヲ買フ」と記す。1月下旬以来、胃腸の変調が改善されず、漱石は持薬(胃腸薬カルルスバード、チェコのカルルスバード鉱泉の泉水から作った胃腸薬)を用いはじめる。
「二月二十一日(木)、 Karlsbad Salts (カールスパート塩)を買う。下宿屋の細君の知合いからお茶に招かれる。三時に出かける。 Dulwich (ダリッジ)三十分ほど早く着く。雪の中を歩き廻る。四時に訪問する。全く知らぬ女性六人も来ている。招かれた家の夫人も知らぬ。顔立ちは良い。良いイギリス語を話す。暫くして白髪頭の聖職者が現れたが、余り良い人物ではないらしい。雪の中を下宿に帰り、みんなでカルタやドミノをする。自分の部屋に戻ったが、読書する気にもなれず、三十分ほどストーヴで暖まる。時間つぶしである。」(荒正人、前掲書)
2月22日
「川俣事件」被告、全員釈放。~3月1日。控訴審のため、正造は、出獄者に出京を呼掛ける。
2月22日
独外相、井上公使に満州は英独協商の範囲外と言明。
2月23日
独領東アフリカ(現タンザニア本土部)と英保護領ニヤサランドの国境画定協定締結。
2月23日
漱石、シェークスピア『十二夜』を観劇
「二月二十三日(土)、昼頃から、田中孝太郎と英に、 Charing Cross (チャリング・クロス)に行き、 Her Majesty Theatre (皇后陛下劇場)で、 Shakespeare (シェークスピア)の ""Twelfth Night"" (『十二枚』)を見る。他の座席券が売り切れていたので、天井桟敷に坐る。高浜虚子宛に、葉書で七句書き送る。(その中四句は、二月二日(土)の項に記す)後の三句は、「吾妹子〔わざもこ〕を夢みる春の夜となりぬ」「満堂の閻浮檀金〔えんぷだごん〕や宵の春」「見付たる菫の花や夕明り」である。(最初はホーム・シック、次は芝居の光景、最後は文学作品を読んでの感想である) Mrs. Nott (ノット夫人)に手紙を出す。」(荒正人、前掲書)
2月23日付け漱石の『日記』。
「昼ヨリ市中ニ行キ、田中氏卜同道 charing Cross ニ至リ、Her Majesty Theatre ニテ Twelfth Night ヲ見ル。Tree ノ Malvolio ナリ。装飾ノ美、服装ノ麗、人目ヲ眩スルニ足ル。席皆売切不得巳 Gallery ニテ見ル」
「当時ロンドンの劇壇を代表していたのは、「英吉利の団十郎」サー・へンリー・アーヴィングを座長とするライシアム座と、サー・ハーバート・ピアポム=トリー(「イエロウ・ブック」の批評家マックス・ピアポムの異母兄)をいただくハー・マジュスティ座の二つである。トリーの演出は派手で、商業主義的色彩が強く、知識層に人気のあったアーヴィンクの演技も近代劇のリアリズムにてらしてみれば問題があったが、電力や水力を利用した舞台装置の妙は金之助をおどろかせた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
2月23日付けの漱石の高浜虚子宛て手紙。妻からの手紙を待ち侘びていると書く。
「もう英国も厭になり候。
吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
当地の芝居は中々立派に候。
満堂の閻浮檀金や宵の春
或詩人の作を読んで非常に嬉しかりし時。
見何たる菫の花や夕明り」(2月23日の高浜虚子に宛てた書簡)
「書かう書かうと思ひながらも、(中略)中々いざ手紙を書くといふ時がありません。すると家郷からの手紙が待たれると見えて、ちよつとも手紙を寄こさないぢやないか、どうしたのか、いくら忙しいといつたつて、たまさか手紙の一本位書く時間のない筈はないと言つて参ります。(中略)」
其後手紙では彼方へ行つて見ると、方此でそれ程とも思はなかつたことが気になると見えて、よく私の頭のハゲのこと、歯並の悪いことなどを気にして、始めのうちは手紙の度にそれを言つてよこしたものです。ハゲが大きくなるといけないから、丸髷を結つてはいけないの、オウ・ド・キニーンといふ香油をつけるといいのなどと申して来ましたが、たうとう終ひには「吾輩は猫である」の中にまで、私のハゲのことを書いて了ひました。余程気になつたものと見えます。 (『漱石の思ひ出』)
つづく
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