江戸城(皇居)梅林坂 2013-02-20
*寛仁3年(1019)
この年
・仏師康尚、無量寿院の九体阿弥陀像の制作にいたる。
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1月1日
・『小右記』の筆者藤原実資(さねすけ)の正月
実資は道長より約10歳年長の公卿、道長に対しては辛口の記述が多い。
『小右記』には、官人として様々な行事や、中宮彰子を含む宮廷内の人間模様も細やかに記録されている。
この年正月元旦、実資はまず、明け方寅時(午前4時)、自宅で四方拝を行う。
四方拝は元旦に天皇が行っていた私的行事であったが、それが貴族へも広まった。天地四方、属星(ぞくしよう、生まれた年の干支によって決まる自分の星。北斗七星のうち三をあてる)、両親の墓所それぞれを拝する座を庭に設けて、拝礼を行う。拝する対象は年々増えていき、諸神や七星(しちしよう、北斗七星)などを加えている。
この年は前月12月に敦康親王が没したため、摂政頼通邸での宴会を伴う行事(「臨時客」)は中止されたが、実資は摂政頼通がたまたま近所に滞在していることから彼を訪問している。
しかし、頼通は大殿道長の所へ行った後だったので、そこを辞して参内し、内裏の清涼殿にある殿上の間に他の公卿たちと伺候した。
そこへ、摂政頼通が出てきて、後一条天皇へ御薬(ごやく、お屠蘇)を供ずることになった。
ついで、摂政頼通、左大臣顕光以下の公卿と殿上人は、小朝拝(こちようはい)を行なうために、清涼殿の東庭に行き、清涼殿にいる後一条天皇に対して新年の拝礼を行う。
その後、元日の節会が紫宸殿で行われた。
敦康親王が没したため、天皇は節会には出ていない。実資は左大臣顕光から節会の内弁(取り仕切る役)を務めるよう言われるが、疲れを理由に辞退した。
この日は雨が降っていたのに小朝拝に晴の儀式次第を用いるなど礼法にかなっていなかったので、「太(はなは)だ儀式を失す」、「謝座(しやざ)・謝酒(しやしゆ)の礼、既に作法無し」と実資は憤懣を日記に記している。これは、道長からも無能だと時々怒りをかう左大臣顕光が内弁を務めたためかもしれない。左大臣顕光も途中で内弁を大納言斉信(ただのぶ)に譲って退出してしまった。実資は翌日、参議である養子の資平に、内弁の作法を尋ねてチェックしている。
貴族にとっては、儀式をあるべき様に行うことが重要であり、そのために日記に記録して子孫に伝えていった。
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1月2日
・正月2日には、前太政大臣道長邸で「臨時客」という行事が行われ、実資も参加。左大臣顕光以下の公卿と殿上人が道長へ拝礼を行い、饗饌(きようせん、もてなしの膳)を受ける。
その後、道長に摂政頼通も従って皆で参内。
まず、太皇太后彰子のところへ行き、その後、摂政頼通と左大臣顕光以下殿上人以上は中宮威子、東宮敦良(あつなが)親王のもとへ行って拝礼を行った。
拝礼後、左大臣顕光以下は、中宮大饗(だいきよう)・束宮大饗に参列した。
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1月3日
・正月3日、後一条天皇の母后、太皇太后彰子に朝覲(ちようきん)を行う。
まず、前太政大臣道長や摂政頼通、公卿たちは内裏外にある皇太后妍子の御所に集合し、そこで饗座(きようのざ)につく。
その後、道長は諸卿を率いて参内。
日暮に、後一条天皇は母后彰子の御所(弘徽殿)に参上し、公卿たちが従う。天皇は御簾(みす)の中で母后に拝礼を行い、前太政大臣道長だけが御簾の中に何候した。
公卿・殿上人には饗が設けられ、儀式終了後、天皇は公卿たちをお供に御所に戻る。
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1月5日
・藤原実資は、皇太后彰子の枇杷殿時代にたびたび伺候していた。実資が枇杷殿に出入りしていたのは、養子資平の任官を皇太后彰子から道長へ頼んで貰うためという理由もあったが、それだけでもなかった。
後一条天皇(敦成親王)即位後、皇太后彰子から実資に対して、「枇杷殿に御坐(おわしま)すの時、屢(しばしば)参入の事、今に忘れ坐(おあわ)さざる由、仰事(おおせごと)有るなり。女房云はく、彼の時参入し、当時(現在)参らざるは、世人に似ず。耻(は)づかしく思(おぼ)し食(め)す所なり、と云々」(『小右記』寛仁3年正月5日条)とあったという。
後一条天皇即位後、皇太后彰子は実資に対して左近衛大将にならないかと打診したり、自分の年爵を分かち与えようとしたり、実資びいきの様子が窺える。
実資の方も、皇太后彰子を「賢后」と評している(『小右記』長和2年2月25日条)。実資が自分に有利な書き方をしているかもしれないが、皇太后彰子が父道長からは独立して独自の動きをしていることを示している。
皇太后彰子は敦成親王を三条天皇の皇太子に立てる時も、実子敦成親王ではなく、皇后定子が生み、敦成親王が生まれるまでの間、中宮彰子が手元で育てた敦康親王を皇太子にしたいという考えをもっていたとされており、父道長とは異なる独自の意見をもっていたことも注目される。
「夜に入って、(藤原)資業が、摂政(藤原頼通)の使として来た。「叙位の議を行おうとしたのに、両大臣(藤原顕光・藤原公季)が障(さわ)り申して、内裏(だいり)に参りませんでした。これを如何(いかが)いたしましょう」と。」
「私(藤原道長)が命じて云(い)ったことには、「叙位の召仰(めしおおせ)は、すでに行われている。叙位を停止(ちょうじ)すべきではない。大納言を召して、叙位の議を行うべきである」と。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月5日条)
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1月6日
「摂政(藤原頼通)がおっしゃって云(い)ったことには・・・「昨日、左大臣(藤原顕光)が参らなかったのは、蔵人頭(くろうどのとう)を遣わして召さなかったからでした」ということだ。不覚の事である。」
「摂政(藤原頼通)は大臣を兼ねている。すぐに召仰(めしおおせ)を行うべきである。そこで外記(げき)に、そのことを伝えた。左大臣(藤原顕光)は、召仰の時、蔵人頭が、これを伝え仰すのである。」
(『御堂関白記』寛仁3年(1019)1月6日条)
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1月13日
・放火・強盗
この日夜、三条辺で50戸ばかりの民家が焼ける。
翌14日夜、四条の検非違使別当権中納言藤原頼宗の邸が焼失。
29日夜、群盗が参議藤原通任の邸を襲い、女房らの室内の物を奪った。
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1月22日
・この年正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定において、道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)については、他の受領ににはいろいろ意見が出ているのに、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められた。
しかし、惟憲は、長和3年(1014)正月12日に「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
つまり、惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘かった。
また、惟宗貴重(これむねのたかしげ)は、3年間で下総守を辞めたにもかかわらず、2年分の官物を納めたという理由で褒賞に預かり、位階を上昇させた(『小右記』)。
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1月13日
・放火・強盗
この日夜、三条辺で50戸ばかりの民家が焼ける。
翌14日夜、四条の検非違使別当権中納言藤原頼宗の邸が焼失。
29日夜、群盗が参議藤原通任の邸を襲い、女房らの室内の物を奪った。
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1月22日
・この年正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定において、道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)については、他の受領ににはいろいろ意見が出ているのに、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められた。
しかし、惟憲は、長和3年(1014)正月12日に「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
つまり、惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘かった。
また、惟宗貴重(これむねのたかしげ)は、3年間で下総守を辞めたにもかかわらず、2年分の官物を納めたという理由で褒賞に預かり、位階を上昇させた(『小右記』)。
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