2024年11月27日水曜日

大杉栄とその時代年表(327) 1901(明治34)年3月22日~31日 「おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

 

藤代禎輔

大杉栄とその時代年表(326) 1901(明治34)年3月15日~21日 「総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月22日

中江兆民、商用で大阪へ赴こうとして仕度を整えた際、突然ノド部分から多量の出血があったが、しばらくして止まったので予定どおり出発。

実は、前年秋頃から兆民の健康に異変を生じていた。11月頃より声がかすれるようになったが、痛みは感じなかったので放置していた。その後左首筋に硬いしこりがあり、押えると痛みを感じるので、咽喉専門医の診察を受けたところ、喉頭カタルと診断された。この年3月の長野遊説時には首筋のしこりは大きくなり痛みも感じるようになっていた。

3月23日

「明星」第11号、1ヶ月遅れで発行。巻頭に鳳晶子の「おち椿」79首、山川登美子は「紅鶯」15首を寄せる。「明星」第12号は5月25日発行。この月、鉄幹第3詩集「鉄幹子」、翌4月、第4詩集「紫」発刊。

3月23日

フィリピン、米支配に反乱を起こしたエミリオ・アギナルド、逮捕。

4月2日、米への忠誠を誓う。

3月23日

3月23日~26日 ロンドンの漱石


「三月二十三日(土)、夜、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Robert Marshall (ロバート・マーシャル)の ""The Royal Family"" (『王室家族』)を観る。翌朝のためワイシャツ・靴下を替える準備をする。

三月二十四日(日)、井原斗南を Balham (バラム)に訪ねる。不在。渡辺雷を Clapham Common (クラッパム共有地)に訪ねる。不在。田中孝太郎と同行である。

三月二十六日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。夜、井原斗南訪ねて来て、三月二十八日(木)の夕食に招待される。長尾半平(在パリ)から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


3月24日

東京地裁・区裁の判検事ら、司法官増俸予算削減に抗議し、辞表提出。各地の地裁にも波及。

3月24日

第15議会閉会。

3月24日

英外相、林董駐英公使に英独協商は満州にも適用と回答。

3月24日

ランズダウン英外相、揚子江協定(1900.10.16)を満州に適用することを回答。

3月25日

珍田捨己駐露公使、満州に関する露清約定等について露に抗議。

3月26日


「 ある日左千夫鯉(こい)三尾を携へ来りこれを盥(たらい)に入れてわが病牀の傍(かたわら)に置く。いふ、君は病に籠(こも)りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水(しゅんすい)四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更(か)へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。

 (後略)

(三月二十六日)」(子規「墨汁一滴」)"


3月27日

佐藤栄作、誕生。

3月27日

ロンドンの漱石


「三月二十七日(水)、 Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊している常陸丸の立花銑三郎より手紙あり、病気帰国の途中なので直ちに見舞う。容態悪い。立花銑三郎と同船の医学士望月淳一と渡辺雷を British Museum (大英博物館)と National Gallery (ナショナル・ギャラリー)に案内する。夜、渡辺雷来る。(立花銑三郎のことをさらに話したものと思われる)領事館の諸井六郎(推定)が examiner (試験委員)の件で来訪する。」(荒正人、前掲書)


3月27日 漱石、ドイツへ留学していた旧友立花銑三郎をアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に見舞う。日記には「気の毒限ナシ」とある。


「・・・・・立花銑三郎は肺を病み、帰国中の常陸丸からその旨を知らせてきた。漱石はすぐにアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に彼を見舞った。どう見ても重病で、立花はその後、香港を出てすぐに船中で死亡した。ドイツで立花と親しかった藤代素人(禎輔)の回想「夏目君の片鱗」に、立花の句として真偽不明の話が残っている。おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「立花銑三郎は、常陸丸で Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊中に芳賀矢一に手紙を出す。そのなかに、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」という句を書き添えている。日本とロシヤの戦争が近いことを知り、ロンドンに来ている日本人の生活を皮肉ったものと思われる。(藤代禎輔(素人)「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)


3月28日

北海道会法公布。

3月28日

3月28日~3月31 ロンドンの漱石


「三月二十八日(木)、朝、長尾半平(在パリ)から手紙来る。入浴のため外出する。夜、長尾半平に手紙を書き、借金を申し込む。その前か後に、 Miss Robert (ロバート嬢)とピンポンをする。多忙のため井原斗商の夕食招待は断る。

三月二十九日(金)、 Glasrow University (グラスゴー大学)の examiner に任命するとの総領事館(84 Bishopsgate Street Within, E.C.)からの通知を受ける。井原斗南から、夕食に応じられなかったことは残念だと葉書来る。

三月三十日(土)、「白シャツ襟ヲ易フ、近頃ハ毎日風ナリ、」(「日記」)昼、 Hippodrome (ヒッポドローム)を見に行く。安い席なく、五シリング払う。「帰リニ bus ニ乗ツタラ『アバタ』ノアル人ガ三人乗ツテ居タ、」(「日記」)夜、 Glasgow University (グラスゴー大学)の書記官 Clapperton に examiner 承諾したと書き送り、 Addison (アディスン)に試験問題を送る。

三月三十一日(日)、田中孝太郎と Brockwell Park (ブロックウェル公園)に行く。男女二人連れの一人は、金之助たちを日本人と云い、他の一人は中国人と云う。」(荒正人、前掲書)


長尾半平: "

「慶応一年(一八六五)七月二十八日生れ。昭和十一年(一九三六)六月三十日、京城にて死去する。明治二十四年(一八九一)七月、帝国大学工科大学土木科を卒業する。明治二十年(一八八七)、帝国大学に入学してまもなく麹町教会で受洗する。明治十五年(一八八二)、新潟中学校を卒業した年に禁酒を誓い、後に禁酒運動に尽力する。明治三十三年(一九〇〇)四月、台北市区計画委員の時に、ヨーロッパに出張し、八月、臨時台湾基隆築港技師になる。台湾総督官後藤新平の命令で、金銭や時間の制限なく出張していた。初めはホテル、次に漱石と同じ下宿、続いて近くに知り合いがあったので、そこに下宿した。漱石と同じ下宿にいた期間は、一月十九日(土)以後三月二十八日(木)以前と推定する。長尾半平は、四月中に、パリからロンドンに戻ったと想像される。その時、漱石の下宿にいたとも、近くの下宿に移っていたとも二通りの想像ができる。長尾半平の「ロンドン時代の夏目さん」(『漱石全集』二十巻 月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)には、次のように述べられている。

「或る時、夏目さんが金を貸してくれといふので、いくら位だいと問ねたところ、『まア二十ポンドぽかり』といふので、その時夏目さんがいかにも呑気なので、私はぷしつけに『一體その金は返してくれるんだか、それとも君にやるんだか』と問ねたところ、夏目さんはいかにも悠長に『いやア、返すんだよ』といつて、結局その時、二十ポンド程、夏目さんに貸したやうなわけである。」長尾半平は、日本に帰ってから、この金を返して貰ったと語っている。」(荒正人、前掲書)


3月29日

羽仁五郎、誕生。

3月29日

鉄幹、晶子に手紙。「粟田のかりね しのばれ候、あひたく候、四月の末とは遠き遠き候ことに候かな」。

3月29日

クラーク・ゲーブル、誕生。

3月30日

閣議、渡辺国武蔵相、突如、公債支弁国家事業の中止を提案。第4次伊藤内閣、渡辺と他閣僚の意見不一致となる。

5月2日伊藤は、閣内不統一で辞表提出。

3月30日

「荒城の月」「箱根八里」などを収めた「中学唱歌」、東京音楽学校から出版。

3月31日

アントニン・ドボルザークのオペラ『ルサルカ』初演(プラハ)。


つづく

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