2011年11月4日金曜日

延暦20年(801) 坂上田村麻呂による延暦20年の征夷終る

東京、北の丸公園 千鳥ヶ淵(2011-10-31)
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延暦20年(801)
・この年、最澄が、南都の各宗の高僧10人を招いて諸宗の立場からの法華経解釈を講演してもらう法華八講を行う。
南都の憎たちは、快く参加。この時点では、比叡山と南都とは相対立していない。
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・唐、杜佑の『通典』完成。
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1月
・この年正月、宮中でひらかれた祝宴の席で、桓武天皇は、おりしも降りしきる春の雪をみて、
「梅の花恋ひつつをれば降る雪を花かも散るとおもひつるかも」
と歌う。
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2月24日
・桓武、征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を与える(『日本紀略』)。
動員された征夷軍は4万人、軍監5人、軍曹32人(『日本後紀』弘仁2年(811)5月壬子条)。
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6月
・今後、班田収授は「一紀(12年)一行」とすると声明。
法典にも明記される。
これまでどうにか守ってきた6年毎の班田収授を維持する能力を失ってたことを示す。
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8月
・藤原葛野麻呂(かどのまろ、小黒麻呂の息、北家)・石川道益をそれぞれ遣唐大使・副使に任命。
3年後、唐に渡る。

大宝の遣唐使(702年出発)以来、10数年毎に派遣され続けてきたが、宝亀10年(779)に唐使孫興進らを送る使いを進発させた後、この年(801)の遣唐使任命までは22年の間があき、その出発(804年)から次の遣唐使が任命される承和元年(834)までは33年の間があいている。
唐の帝国構想の中に留まることの利点が目減りしていたことを示す。

重祚した称徳天皇を除けば、歴代の天皇が即位後10年以内には遣唐使を派遣しているのに、桓武天皇は即位後21年目にして初めて遣唐使を派遣しようとした。

遣唐使不派遣の意義は、唐帝国の埒外に自らの天下を構想しようとしたことを示している。
唐と付き合わなければ、朝貢しながら朝貢を受けるという複雑な事態を避けることができるし、唐に対する時と国内及び新羅や渤海に対する時とで顔を使い分けなければならないという屈辱を免れることもできる。
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9月27日
・この日、坂上田村麻呂から戦勝報告。
「臣聞く。云々。夷賊を討伏す」(『日本紀略』)と記すのみ。
蝦夷の大規模な反抗は鎮静し、律令国家の「帝国」版図拡張政策は終了。
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10月28日
・この日、坂上田村麻呂が入京して天皇に節刀を返却(『日本紀略』)。
7年前の10月28日は、同じように戦勝報告を受け平安京遷都の詔が発せられた日。

『日本後紀』の欠失のため詳しい経過は不明であるが、この征夷によって胆沢・志波の蝦夷は完全に制圧された。
また胆沢・志波の東に当たる閉伊(へい)村(現岩手県宮古市など)に対しても征討が及んだようである(『日本後紀』弘仁2年12月甲戌条)。

またこの年、移配蝦夷の田租を免除する法令が出されているので、前回の征夷と同様に多数の蝦夷が諸国に移配されたと考えられる(『類緊国史』巻83弘仁7年(816)10月辛丑条所引延暦20年格)。
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11月7日
・この日、桓武天皇が、
「陸奥国の蝦夷等、代を歴て時を渉りて、辺境を侵乱して、百姓を殺略す。
ここを以て従四位上坂上田村麻呂大宿禰らを遺して、伐ち平らげ掃き治めしむるに」
云々という詔を発して、田村麻呂に従三位を授け、副将軍にも位を授ける(『日本紀略』)。

同日、出羽権守の文室綿麻呂が正五位上に叙されている(『公卿補任』大同5年条)。今回の征夷に参加していたとみられる。
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2011年11月3日木曜日

昭和16年(1941)11月1日 「世間唯わけもなく騒しく後の月見る人もなきが如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
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昭和16年(1941)11月1日
十一月初一 舊九月十三日 午後時雨はらはらと降り來りしが暮方より空晴れ十三夜の月あきらかなり。世間唯わけもなく騒しく後の月見る人もなきが如し。
土州橋に行き芝口に飰してかへる。残蛩尚聲あり。
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11月2日
十一月初二 日曜日 快晴。
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11月3日
十一月初三。晝は晴れて暖く夜は月よし。淺草に徃く。
市中電車の雑沓甚しく街路に酔漢の嘔吐せし物悪臭を放つ。
少壮士官の女を携へ酔うて放歌するものあり。芝口電車停留場にて目撃せしなり。
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11月4日
十一月初四。晴。 十一月初五。晴。

正午芝ロに飯して品川に徃く。東海寺をたづね少林院に服部南郭の墓を掃はむとてなり。先年南郭先生文集を通讀してより此の儒者の元禄以後の江戸文学に影響を及すこと最大なるを知り平生折あらば其墓を見むと息ひつゝ遂に今日に至れるなり。

品川驛の前にて電車よりバスに乗りかゆ(換ふ)るに、女郎屋残りたる舊道の東裏にて駐りて行かねば、道を人に問ひ歩みて國道に出で品川区役所傍の道を曲る。五反田へ往復する白パスを見る。再び人に問ふにバスに乗るほど遠くはなし、せめんとの塀のつゞきたる道の左側を見て行きたまはゞ奥深き横町に東海寺の門を望むべしと教へられたり。

歩みを運ぶに果して古き門あり。本堂はむかし向嶋に在りし弘福寺に似たり。鍾楼もあり。白菊の咲匂へる垣の中の花壇に葉鶏頭おぴたゞしく西日を浴びて立ちたり。鐘楼のほとりに牡丹を栽培したるところあり。

小坊主一人雑草をとりて居たれば南郭先生が墓の所在を問ふに、それは門を出で表通を四五町行き省線のガードをくゞり線路に添ひ工場の間の細き道を登れば番人の家あり。澤庵禪師基のしるぺ立ちたる石段を横に見て、後方の岡に登るぺしと委しく教へくれたり。
行きて見るにその言ふが如く南部先生累世の墓は丘上の墓地の西北の一隅に在り。

省線の列車と電車絶間なく墓のうしろを通過す。
墓石の位置次の如し。
(略)
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11月6日
十一月六日。牛晴。風邪の気味。土州橋に至り注射。
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11月7日
・十一月七日。晴。薄暮物買ひにと淺草に行く。
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11月8日
十一月八日。世の噂をきくに本年九月以来軍人政府は迷信打破と称し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。
今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず、十月中日本橋べつたら市のことも新聞紙は一齊に記載せざりしと云。
清正公の勝まもりも迷信なるべく鰹節を勝武士なとゞ(ママ)かく事も軈て御法度となるべきや否やと笑ふ人もあり。
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11月9日
十一月九日 日曜日 陰。微恙あり。門を出でず。
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11月10日
十一月十日。北風吹きて俄に冬らしくなれり。午後土州橋より淺草に徃き夜ふけてかへる。
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11月11日
十一月十一日。晴。籾山半三郎俳号柑子當月二日急病にて歿せし由金兵衛の店にて聞く。
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11月12日
十一月十二日。晴。午後カメラを提げ再び少林院の後丘に南郭先生の基を展し其養子仲英の墓誌を寫す。
(略)
墓誌を寫し終りて・・・、南郭先生と其子孫の墳墓の今は既に無縁となれるが如く見ゆるにも係らず、戦乱の世に在りて尚恙なく保存せらるゝは、此岡の東側に國学者加茂眞淵の基ありて大なる石の華表の立てるが為なるぺし。
若これ無かりせば此岡は既に早く取崩されて工場及鐡道線路の敷地となされしなるぺし。そは近巷一帯の形勢を見れば明なり。墓地の東西両面ともに鐡道の線路にして南側には工場の立てるあり。工場前の廣き道路には鐡橋かゝりて運河の岸に三共製薬社の大工場あり。

余は今日江戸時代の詩人の如く晩秋の夕陽を浴びて少林院後丘の樹下に南郭先生の基を拝する事を得たるは實に不可思議なる奇事と言はざるべからず。
むかし江戸時代の漢詩人は御殿山に櫻花を見、海晏寺に楓を賞せし途次必こゝに來りて享保の才人が墓を吊ひしなり。

國学者加茂先生の墓は江戸の詩文に封してさながら右翼団壮士の任務を帯ぶるものと謂ふべし。

バスに乗るに直に省線大崎停車場前を過ぎて五反田に至れり。市電に乗換へむとする時久しくこの邊の陋巷を歩まざれば、入りて見るに、恰五時少し前にて女給の出勤時刻なり。
住込の女既に化粧をすませ店の戸口にて草履の鼻緒の切れたるをつくろへれる(ママ)もあり。
二三人ヅゝ道の上に立ちてふかし芋食へるもあり。
蓄音機の流行唄の漏るゝを聞けば愛染かつらの唄なるも今は何やら珍らしき心地するも可笑し。
表通に出るに五反田省線電車の出入口には乗客列をなして押合ひたり。

市電は幸にして雑沓せず苦しまずして家にかへるを得たり。風俄に寒し。
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11月13日
十一月十三日。灰色に空曇りて暮方より雨ふる。
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現在、山手線、東海道線、新幹線に挟まれた三角州のような場所に「東海寺大山墓地」というのがあり、荷風が行った服部南郭のお墓もあるそうです。(沢庵、賀茂真淵の墓も現存)
(「日乗」でも「墓地の東西両面ともに鐡道の線路にして」とある通りです)
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「対英米戦」開戦直前のこの頃、荷風は、意地でも世間に背を向けているように見えます。
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永禄10年(1567)5月~7月 松永久秀と三好三人衆らとの東大寺の戦い 五徳、信康に輿入れ 言継、風流踊りの豪華さに驚く [信長34歳]

東京、北の丸公園(2011-10-28)
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永禄10年(1567)
5月
・この頃、上野・武蔵の上武国境付近を巡り、武田信玄と北条氏康・氏政間で国分け協定。        神流川を境に上野の多野郡域は武田領となり、武田氏に帰属していた箕輪の領主・地侍層に知行地の大幅な再編がなされる。
これまで北条氏に属する安保氏の多野郡鬼石郷3ヶ村などが高山氏に、同じく安保氏の大塚郷(藤岡市)が小林氏に渡される。
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5月2日
・岩成友通・(摂津)池田勝正軍1万、東大寺へ移り念仏堂・二月堂・大仏殿回廊へ布陣。
対して松永久秀は戒壇院に籠もる。
多聞院英俊はこれらの行動を「大天魔ノ所為」と見なす(「多聞院日記」)。
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5月4日
・六角義賢・義治父子、領内に徳政令をだす。
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5月5日
・池田勝正・三好康長軍、「番替」として軍勢4~5千が東大寺へ到着。
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5月5日
・武田信玄、西上野支配完成。
武田信玄、上野惣社城(前橋市)を攻略。
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5月9日
・信長娘五徳姫(9)、徳川家康嫡子岡崎三郎信康(9)に輿入れ。(27日との記述もあり)
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5月15日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワート、ボスウェル伯ジェイムズ・へバーン(プロテスタント)と3度目の結婚。
国内はカトリックもプロテスタントも2度目の夫ダーンリー卿暗殺首謀者ボズウェル伯との結婚には反対。
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5月16日
・長尾輝虎(38、上杉謙信)、色部勝長を唐沢山城将に任じて春日山に帰国。
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5月17日
・池田勝正、摂津より大和西芳寺へ布陣。
三好政康は天満山から兵7~8千と共に西ノ坂へ陣替え。
岩成友通率いる軍勢(念仏堂に籠っていた)は氷室山法雲院後方の畠に布陣。
筒井順慶は大乗院山に留まり東大寺内への通路を遮断。
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5月18日
・多聞山城出撃の松永久秀勢、般若寺・仏餉屋・妙向院など焼く。
(多聞山が焼き討ちを受ける。般若寺・文殊堂など多数の伽藍が焼け、飛び火して戒壇院の授戒堂はじめ南北水門まで悉く焼ける。)
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5月24日
・三好三人衆、大和法輪院に入る。
これにより宝徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院、大和多聞山より火矢で放火。
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5月28日
・秋山衆、無量寿院屋敷門の築地に櫓を上げて押し寄せ、死者2名・手負い少々を出す。
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6月
・家康(25)、戸田虎千代(後の康長)に亡父の遺領相続を許可し、松平の称号を与える。
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6月4日
・筒井順慶、東大寺へ火矢で放火、効果無し。
5日、龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ布陣。
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6月15日
・スコットランド、反ボズウェル派貴族同盟がクーデター・挙兵。
女王メアリー・スチュワートはエディンバラ東13kmカーバリー・ヒルで捕縛。
メアリーはロッホ・リーベン城に監禁、退位要求される。
ボズウェルは逃走
(オークニー諸島に渡り海賊の頭目となる。後、ノルウェー海岸でデンマーク艦に囚われドゥラグスホルム城牢獄で12年後に狂死)。
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6月16日
・六角義賢軍、山門相論により一乗寺を焼打ち(「言継卿記」)。
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6月17日
・松永久秀軍、「箸尾衆」と協力して筒井郷椎木・小泉周辺を翌朝まで放火。
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6月25日
・今川氏真、甲斐への塩荷輸送者を討った大藤氏に感状を与える。
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6月27日
・筒井順慶、花厳院にて三好三人衆に松永久秀との和睦をもちかける。
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7月
・足利義秋(後の義昭)、上杉輝虎(謙信)へ、上洛の決意を固め、兵粮米調達及び参陣を命令。
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・若狭守護武田義統の弟武田信方(宮川殿)が叛旗を翻すが、白井光胤・勝胤父子ら信方の「年寄中」が相談し、「宮川御家中」を引き退く。
足利義秋が、義統に代わり遠敷郡宮川を拠点に勢力を伸ばし武田氏の実権を握っている庶子家信方に対して、越後上杉氏らと共に上洛随行の要請が出されるが、信方はその要請を受け入れず。
それは「国家」(公方や屋形を超えた公的秩序)に対する謀叛であるとされ、信方の年寄衆白井氏らは宮川家中を引き退き、孤立した信方は山県秀政ら義統側近の家臣たちによって失脚させられる。
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7月8日
・「古市方」(大和国人)、大和多聞山(筒井順慶)側へ「裏帰」る。
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7月13日
・細川昭元、広隆寺領を惣安堵(「広隆寺文書」)。
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7月23日
・松永久秀の軍勢(5人?)、三好三人衆の調略により内応、東大寺戒壇院・千手堂を焼く。
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7月24日
・洛外郷村の風流踊りの豪華さに言継驚く。
この日、吉田で見物した粟田口衆の風流は、2間四方の大灯呂が20も繰り出し、「前代未聞目を驚かす事なり。京辺土の群集なり」(「言継卿記」7月24日条)と記す。
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7月25日
・スコットランド、メアリー・スチュワート(24)、スコットランド王位放棄の書類に署名。
29日、長男ジェームズ6世(13ヶ月)、国王即位。
伯父マリ伯ジェイムズ・ステュワート摂政。
ジョン・ノックスと組んでプロテスタントと改革教会の強化、貴族間の私闘抑止、一般民の保護。
「良き摂政」の評判。
1570年1月23日、ハミルトン一族に暗殺。
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7月27日
・三好三人衆軍、波多野晴通(松永方)と京都西岡に於いて交戦。
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延暦18年(799)~19年(800) 問民苦使の派遣 怨霊を鎮めるため故早良親王に天皇号を追贈 薩摩・大隅両国で班田収授

東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
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延暦18年(799)
この年
・この年から、問民苦使(もみくし)を地方に送り地方民の陳情を受け付けさせ、国・郡司の行政状況などを調査させる。
予想通り、国司の乱脈ぶりは目を覆うばかり。
禁制を無視して農業経営に力を傾ける者があまりに多く、営田3町以下や、兵士を駆使している国司の犯状は、敢えて見逃すことにする。
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・この年、諸氏に本系帳(氏ごとの系譜の記録)を提出させ、『新撰姓氏録(しようじろく)』編纂が始まる。弘仁6年(815)に完成。
京・畿内に本貫(本籍)を持つ1,182の氏を、祖の系譜上の位置に応じて皇別(神武以来の天皇家から分かれた氏族)、神別(藤原氏などのように天神地祗の子孫とされる氏族)、諸蕃(渡来系の氏族)の3種に分類し、夫々の出自伝承や系譜を書き連ねたもの。
この時期に系譜伝承を改めて確定する必要があったと推測できる。
桓武自身の母方は、下級官人層で百済系渡来人の出であるが、天皇の系譜は父系で確定することとした。
桓武は、父系のみによって諸氏の系譜を類別することを望んだと思われる。
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1月
・この時点でも儀式を行う上で欠かせない豊楽院は未完成。
大極殿の前に仮殿を造って、来日した渤海使に饗宴を催す。
大同3(808)年2月の記事に「豊楽院」が見え、それまでには完成している。  
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4月13日
・この日、西海道以外の諸国の烽候(とぶひ)を廃止。
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12月
・この月、平安宮を造るため、伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などから役夫を差しださせる。
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延暦19年(800)
この年
・この年、筑前国宗像郡の大領(だいりよう、郡司のうち、最上席者)と宗像社神主の兼帯を止める。
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7月
・桓武の神泉苑行幸の初見
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・皇太子安殿(あて)の心身の不調が気がかりな桓武天皇は、故早良(さわら)親王に崇道(すどう)天皇の号を追贈、故井上内親王も皇后に復する処置をとる。
早良に天皇号を贈り、井上を皇后に復したのは、ともに怨霊を鎮めるためとされた。

皇太子安殿と、元来は皇太子妃の母であった種継の娘薬子との桓武にとっては許し難い関係も、怨霊と結びつけないではいられなかったろう。
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10月28日
・桓武朝第3次征討に向け、征夷副将軍(人名不明)を任じる。
既に延暦16年11月には、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられている。
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11月6日
・征夷大将軍坂上田村麻呂、諸国に派遣され、移配蝦夷の実態調査を行う(『類聚国史』巻190延暦19年11月庚子条)。
第2次征討で移配した蝦夷の抵抗が激しくなってきたこと(同延暦19年5月己未条)と、第3次征討に伴って新たに多数の蝦夷を移配する計画があったことから、事前に実態調査が行われたのであろう。
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12月
・隼人の居住地たる薩摩・大隅両国において全面的な班田収授を実施(『類聚国史』巻159)。
翌年、朝貢停止令を出し、延暦24年(805)に隼人の朝貢が終わる(『類聚国史』巻190)。

隼人は、大宝初年における大規模な反乱、和銅年間の反乱、養老年間の最後の反乱の後、中央政府に対して反抗的な姿勢をとっていない。
隼人の一部は畿内に移住させられ、残りは薩摩・大隅地方に居住しつつ、6年交替で朝貢隼人が朝廷に出仕させられてきた。

この年の班田を最後に全国一斉に実施する方針は廃止され、班田は国司に全面的に委任される。
やがて国司は班田をしなくなり、班田制の本来の目的であった経営保障機能・階層分化抑制機能は失われ、有力農民による田地集積を容易にしていった。

これらの規制緩和政策による階層分化のなかから、

①土着国司子弟・郡司・有力農民らは私出挙による債務関係を通じて窮乏公民から口分田(くぶんでん)・墾田(こんでん)を集積し、

②彼ら(窮乏公民)と私的隷属関係を形成し、大規模な私営田経営を展開する富豪層へ成長していく。

国衛は、富豪層による貧窮農民の搾取はほしいままにさせておいて、このような富豪層を課税対象としていく。
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2011年11月2日水曜日

東京 江戸城東御苑 もみじ 諏訪の茶屋 菊 ジュウガツザクラ ツワブキ

今日(11月2日)は、晴天ではあるが、終日、薄い雲が出て、すっきりとした秋晴れというわけにはゆかなかった。
昼休み時間の江戸城東御苑。
散歩、お弁当などさまざま。

▼天主台脇のもみじ
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▼諏訪の茶屋と菊
以前、文化勲章の授与式会場に置く菊だと聞いたような記憶があります。
名のある職人さんの手になるものなんでしょう、きっと。
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▼ジュウガツザクラ
どんどん花の数が増えています。

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▼ツワブキ(キク科)
かなり群生してます。
ご紹介するのは、天主台をバックにする、群生からは外れたもの。
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「目を背けては被災者に申し訳ないなどという消極的な理由からではなく、本当にあれは日本が変わる契機なのだ。」(池澤夏樹)

池澤夏樹の「朝日新聞」のコラムに「終わりと始まり」という欄がある。
このところ原発をテーマにしたものが続いている。
前回は、原発推進派を不始末をした子犬に喩えたやや過激な内容であった(コチラ)
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今回(11月1日掲載)は、ちょっと難しい問題だ。
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(見出し)
■遠い人々と身近な問題
温度差を理由とせず

(記事:但し、段落を施す)
(略)
先日、京都でタクシーに乗っていて、運転手氏とほとんど口論になった。
いわゆるタクシー会話で景気のことを話しているうちに先方が「日本中で今いちばん元気なのは福島ですよ」と言った。

「仕事はないのに金が上から降ってくる。パチンコ屋と居酒屋が満員御礼」と言うのを聞いて、むきになって反論するうちに、なんとも大人げないことを言っている自分に気づいた。

今年の三月十一日に起こったことは「東日本大震災」と呼ばれる。
できるかぎり広い地域名を冠しての「東日本」だ。

「西日本」からは遠いし、いわゆる温度差があることはよくわかっている。
日本中どこも景気が悪いことは誰も否定できない。

人が持ち得る関心の総量には限界がある。
だから、すべての日本人、あるいは世界のすべての人に、3・11に始まる地震と津波と原発事故の結果に強い関心を求めるわけにはいかない。

そうではないのだ。
あの日以来これまで「東日本」で進行してきたことは未来の何かにつながる種なのだ。
目を背けては被災者に申し訳ないなどという消極的な理由からではなく、本当にあれは日本が変わる契機なのだ。
だから遠い人も真摯に見ていてほしい。
*********(記事終わり)
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著者も書くように、「日本中どこも景気が悪い」。

出身が京都で、事情があってこのところ頻繁に京都に行っているが、私の聞くところ、「タクシー運転手氏」の景況判断は100%「あきまへん」である。

原発事故で外国人観光客が減る。
人々は外に出ずに屋内で遊ぶ傾向にある。

そして、なによりもベースの問題として、小泉「改革」(規制緩和)によるタクシー会社の乱立=タクシーの増加による1車当りの顧客数の減少がある。

出来高給だろうし、これら要因により、確実に、手取り給料は減ってきている。

更に、著者との会話の時間帯が、もし24時間に近い勤務の終盤近くであったら尚のことであるが、「運転手氏」が、著者の書くようなことを言ったとしても、それは理解できないことではない。

それは、嘆きなのだ。

だからといって、その「運転手氏」は自分が地震・津波・原発事故の被災者でありたいとは、決して思っていないと思う。

うんと希望的に言えば、距離の分だけ被災者への同情心は薄いかもしれないが、堂々たる脱原発論者だっていうこともありえる。

そう思いたい。

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延暦17年(798)6月~10月 移配蝦夷の優遇(優恤・教喩)政策

東京、北の丸公園、千鳥ヶ淵(2011-10-27)
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延暦17年(798)
6月21日
・この日付の勅で、相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等の諸国に対して、夷俘に時服・禄物・資粮を支給し、時節ごとに饗宴を行うことが命じられる(『類聚国史』巻190延暦17年6月己亥条)。

移配俘囚の調庸免除を定めた2ヶ月後の措置で、両者は一連の動き。
両者相まって移配蝦夷を優遇する体制ができ上がる。

夷俘を優遇する理由を、勅は、「帰望なからしめる」こととしている。
諸国に強制的に移配された夷俘たちは、故郷に帰りたいという希望を持っていたが、この「帰望」も「野心」とされ、移配先に定住させるためには「帰望」を失わせる必要があり、そのために彼らを特別に優遇することにした。

この時6ヶ国で始まった移配蝦夷に対する禄の支給はその後全国に及ぼされる。
『延喜式』には35ヶ国に俘囚料が設置されている。
俘囚料は「俘囚禄料稲」(『続日本後紀』承和14年(847)7月丁卯条)とも言われる出挙稲で、その利息が俘囚の禄や食料の財源に充てられていた。

延暦17年太政官符では、調庸免除は「蕃息」(はんそく、子孫が増えること)に至るまでとされ、弘仁2年(811)に定められた公粮支給は、子の世代までに制限されている。
しかし、貞観11年(869)でも公粮支給は続いており、調庸免除も継続されている(『日本三代実録』貞観11年12月5日戊子条・『類聚三代格』巻18同日太政官符)。
延長5年(927)に完成した『延喜式』において、俘囚料が35ヶ国に計上されていることは、彼らに対する支配が当初の思惑通りには進展しなかったことを物語っている。

延暦13年の征夷を終えた段階で、律令国家は移配蝦夷の調庸民化を楽観視しており、この年、延暦17年に方針を転換したものの、当初はあくまで暫定的な政策の変更であった。
移配蝦夷の支配にこれほどまでの手間と費用がかかるとは想定していなかったと思われる。
一方、移配蝦夷は、国家の楽観的な見通しを覆し、政策の変更を迫り、さらにはそれを永続させるほど、強固に抵抗を続けたということになる。

移配蝦夷の中には、「野心」などを理由に処罰される者がいる一方で、移配先で富裕化したり、善 澗行によって叙位されるなど、国家側に順応する蝦夷も存在していた。
自ら課役の負担を申し出た例や、播磨国印南郡権少領の浦田臣山人のように、郡司に任命された例もある(『日本後紀』弘仁3年正月乙酉条)。
しかし大多数の移配蝦夷は、社会的差別と貧困の中で、「帰望」を抱きつつ見知らぬ土地での理不尽な支配に抵抗を続けたのである。
その主な方法は、反乱と越訴であった。    

俘囚の内国移配と教化政策
蝦夷征服戦争によって発生した大量の帰服蝦夷を、俘囚として国内各地に強制移住(内国移配)させた。
移配された国は、『延喜式』に俘囚料を計上されている国を中心に45ヶ国。
俘囚の内国移配は、大量の俘囚を陸奥現地で管理・支配することの困難さと、再反乱への警戒が直接の理由で、これらの俘囚を教化を通して「野心」(粗野な心性やライフスタイル)を改めさせ、公民に同化させようとした。

政府は受領に「夷俘専当(いふせんとう)」を兼任させ、俘囚を優恤(保護し給養すること)し教喩(きようゆ、教化)する責任者とし、優恤・教喩政策を行わせた。

①男女を問わず全員に俘囚料として米・塩・燃料を支給。
これは、俘囚の生存は受領に全面的に依存することを意味する。

②「存問(そんもん)」(慰問)。受領が直接、俘囚たちの生活状態を訪ね、慰め、要望・苦情を聞き、野心を改め忠・孝・礼などの善行を励行するよう教喩した。
受領は俘囚の要望に応えたようしたが、いくら待っても要望に対応してくれない受領に怒った俘囚が、しばしば上京して政府に訴えている。

③季節ごとに俘囚たちを国衙に招待して饗宴を開き、俘囚に禄と衣服を支給。冬服は絹と布を混ぜて支給。

戦闘能力(疾駆斬撃戦術)に優れた俘囚たちは群盗海賊追捕に招募され、勇敢に戦った。
群盗海賊追捕において、おそらく受領やその子弟・従者、あるいは勇敢富豪層は、俘囚とともに戦うことによって彼らの戦術を学び取っていった。
それに伴い、蕨手刀は武芸好きの官人や勇敢富豪層の間に次第に普及していく。
こうして俘囚は、国内に騎馬個人戦術・疾駆斬撃戦術を持ち込んだ。
武士はこの戦術の忠実な継承者である。
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10月
・この年秋頃、桓武(62歳)は北野に遊猟し、その帰途に伊予親王をその山庄に訪ね、父子を中心に盛大な酒宴をはる。

その席上で、桓武は群臣を前にして、
「今朝(けさ)の朝(あさ)け鳴くちふ鹿のその声を聞かずば行かじ夜はふけぬとも」
の即興歌を披露したという。また、桓武は公卿の別業(別荘)へも気軽にでかけている。
それがかれの人心収攬の術のひとつであったのかもしれない。
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2011年11月1日火曜日

東京 「ぬぐ芸術」 東京国立近代美術館

ネーミングの妙である。
通りがかりに、ついつい、「ん! ぬぐ芸術?」と、
じろじろ見てしまった。

オモシロ看板の類で見たら主催者には悪いが、
ネーミングは上手だ。

東京、竹橋の東京国立近代美術館
興味のある方はコチラ。
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永禄10年(1567)1月~4月 上京の真如堂で義輝追善の六斎踊  義昭、越前一乗寺の安養寺入り [信長34歳]

東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
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永禄10年(1567)
この年
信長34歳、光秀40歳、秀吉32歳、家康26歳
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・今川氏真、北条氏と謀り伊豆・駿河・相模から甲斐への塩の輸送禁止。
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・黒田官兵衛(22)、父小寺職隆から家督を譲られ、主家小寺(政職)家の家老となる。
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・フランス、新教徒・陶工ベルナール・パリッシー、パリに迎えられテュイルリー宮に工房を与えられる。
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1月
・毛利元就末子秀包、誕生。
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2月
・足利義秋(後の義昭)、上杉輝虎(謙信)へ武田信玄・北条氏政と和睦し出兵することを要請。
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2月9日
・曲直瀬道三、元就父子の求めにより鑑戒(「雲陣夜話」)を書き送る。
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2月10日
・この日、上京の真如堂(現、左京区浄土寺真如町、当時は一条西洞院付近)で足利義輝追善の六斎踊。
「真如堂に於いて光源院(義輝)殿御訪のため、京辺土・摂州池田衆・坂本衆六斎の念仏大施餓鬼これあり。
十六七ケ所先づ別々念仏これを申す。
次いで各一度に又念仏これあり。
鉦鼓の衆二千八百人と云々。
貴賎男女の群衆七八万人これあるべきけつ歟の由各これを申す。
四方の土居その所なし。
先代未聞の群衆なり。」(「言継卿記」同日条)

この年10月、
同じく真如堂で安芸の国の人々が義輝の奉公衆や女房衆に扮した人形武者の仮装行列にて600人ばかりの風流踊を行う(「言継卿記」10月7日条)。

町衆は義輝を追悼する踊りによって、三好三人衆政権に抵抗を示す。

三好氏を恐れる言継にはその行動が理解できず、「如何あるべき事か、不可説々々々。好事(コウズ)無きに如かざるの儀歟」(同日条)と評す。
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2月10日
・天王寺屋道叱(津田宗及の叔父、宗麟の御用商人、豊後~堺を往復)、堺に帰る。
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2月10日
・スコットランド、女王メアリースチュワート夫ダーンリー卿、エディンバラの教会カーリ・オ・フィールドで暗殺。
対立しているメアリー秘書ボズウェル伯爵ジェイムズ・へバーン一味の仕掛けた火薬で爆死。
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2月12日
・上杉謙信、下野・佐野昌綱が再び背いたため、小山秀綱・太田資正に参陣を促し佐野昌綱の唐沢山城を攻める(唐沢山城攻め)。
15日、謙信(輝虎)、小山秀綱・宇都宮広綱に佐竹義重の参陣を要求。佐竹義重はこれに応じず、結城義親を攻め武田信玄に内通。謙信は佐竹義重と断ち、結城義親と提携し白川城救援を承諾。
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2月16日
・三好長慶の養子義継・高屋城主三好康長・安見直政、三好三人衆と不和となり堺の松永久秀と手を結ぶ。
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2月19日
・毛利元就、吉田に凱旋。
25日、内藤就藤に九州の動静を監視する命令の書状を送る。
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2月25日
・足利義秋(後の義昭)、越前一乗寺の安養寺入り(「朝倉始末記」では前年10月21日)。
信長が岐阜を押え上洛実現が近づきつつある状況に対応し急遽義秋を迎え入れる。
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3月
・織田軍(滝川一益)、北伊勢進出。員弁郡・桑名郡の地侍を降参させる。
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・武田方の真田幸隆(55)、計略により上野白井城を攻略。
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・足利義秋(後の義昭)、吉川元春へ、尼子氏撃破を祝賀。毛利元就へ、義秋帰洛援助を要請。(「吉川家文書」)
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・朝倉氏と加賀一向一揆の戦い。
越前坂井郡の有力国人堀江氏、加賀一向一揆と結び朝倉義景に謀叛。
加賀一揆勢は金津上野まで出張し、熊坂口・牛屋口・高塚で激戦。
同年冬、加賀一向衆と朝倉氏は和睦。
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3月7日
・毛利隆元に従属していた赤川元保、養子又三郎・弟源左衛門尉を誅殺。
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3月13日
・この日付け跡部勝忠宛て武田勝頼書状。
信玄の上野出陣中の留守居役として勝頼が、「駿州境目本栖・河内の用心」や「尾・三・遠の様子」を信玄に言上するよう依頼。
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3月20日
・三好三人衆、京都久我荘百姓へ年貢収納を命令(「久我家文書」)。
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3月29日
・山梨言継、北野千部経会において初めて「手くゞつ」(操り人形)を見て、巧妙さに驚嘆、「目を驚かすものなり」(「言継卿記」同日条)と書く。
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4月
・春、備中の三村元親、備前に侵入。
宇喜多直家属城明禅寺城落城。
直家、明禅寺城を奪回。兵5千で、猿掛城主穂田元祐7千の先手、幸山城石川久智5千の中軍、三村元親の本隊を粉砕。
元親、退却。
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・ブリュッセル政府マルゲリータとホールネ、エフモントの妥協策。
ヴァランシェンヌ陥落。ヤン・ファン・マルニクス軍壊滅、ギ・ド・ブレ極刑。*
・オランイェ公子フィリップス=ウィレム誘拐及びオランイェ家財産没収。
ウィレム、ブレーデローデ ディレンブルクへ亡命。  
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4月6日
・厩橋城将北条高広、北条氏康に応じて謀反。
上杉謙信(38)、沼田城将松本景繁・小中大蔵少輔・新発田右衛門大夫に高広討伐を命ずる。
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4月6日
・松永久秀(58)、三好長慶養子後継者義継を擁し堺から大和信貴山城に戻る。
7日、筒井順慶、奈良の陣を払う。多聞山衆は奈良を出陣、五本松に陣を置く。
11日、久秀・義継、信貴山城から多聞山城へ移る。
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4月18日
・三好三人衆1万、奈良入り。大和奈良近辺に布陣し、南都対陣が始まる。
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4月18日
・北條氏政、簗田晴助・持助と盟約を結ぶ。
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4月24日
・三好三人衆・筒井順慶、大和天満山・大乗院山に布陣。
松永久秀、興福寺大乗院・東大寺南大門、布陣。
東大寺塔・南大門に上がり「鉄砲」を放ち、昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
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延暦17年(798)1月~4月 移配蝦夷から調庸を徴収しないと定める

東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
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延暦17年(798)
この年
・この年以降、桓武の治世は、右大臣神王(みわおう)、大納言壱志濃王(いちしのおう)という2人の皇親(ともに桓武の従兄弟)をトップとする台閣体制となる。
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・政府が畿内諸国の神主の任命権を握り、終身制から6年任期に改める(後には全国を対象)。
有力な神社は著名な氏族の氏神の場合が多く、氏族の在地支配は祭祀に支えられていた。
そこに楔を打ち込み、神社祭祀を国家の管理下に置こうとした。

この年、出雲大社の祭祀を司っていた出雲国造が意宇(おう)郡司を兼ね、神事にかこつけて、地元の女性を「神宮采女」と称して娶ることを禁じる。

延暦19年には筑前国宗像郡の大領(だいりよう、郡司のうち、最上席者)と宗像社神主の兼帯を止める。
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3月16日
・この日付の勅により、郡司の譜代制を廃止して才用制を採用し、具体的な郡司の任用基準を示す(弘仁2年に再び譜代主義に戻る)。
郡司の任用基準の能力主義(才用主義)化。
在地の伝統的有力者層を分解し、国家支配が直接末端まで及ぶことを企図した施策であり、在地の伝統的郡領氏族にとっては大きな打撃となる。
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4月
・得度の条件に追加項目を加える。
この月、35歳以上(のち20歳以上に緩和)の品行方正かつ学殖豊かな者で、毎年12月に僧綱が課す試験をパスして、初めて得度が許されることとされる。
これまでは経典の暗唱能力が問われていたのに対し、新たに施行される試験は経典の解釈を問うものであり、質も問題にする段階に至ったことを示す(『類聚国史』巻187)。

この制度の導入の結果、南都六宗(三論・成実=じようじつ・法相=ほつそう・倶舎=くしや・華厳・律各宗)の内では、論理の追求に重点を置いていた法相宗が盛んになり、後に最澄と対立することになる護命(ごみよう)など、数学的にも優れた僧侶が、この中から生まれてくる。

得度の条件は、天平6年(734)時点では、『最勝王経(さいしようおうきよう)』もしくは『法華経』といった護国経典を暗唱し、かつ3年以上修行していることとされていた(天平6年(734)11月20日太政官奏。『類聚三代格』巻2)。
国家の認める僧尼の条件は、呪術的な験力(げんりょく)を十分に持ったうえで、護国法会で経文を唱誦(しようじゆ)できることであった。
得度を希望する者は、師の僧に優婆塞貢進文(うばそくこうしんもん)という推薦状を書いて貰うが、正倉院文書の中に残っている優婆塞貢進文を見ると、『法華経』や『最勝王経』の読経能力の他に、密教の陀羅尼・神呪(しんじゆ)といった呪文を唱える能力を備えていることが記されていることが多い。
雑密のある程度のマスターも沙弥の条件になっていた。
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4月16日
・この日付け太政官符で、大宰管内諸国の解(げ、上申書)に基き、全国の移配俘囚から調庸を徴収しないと定める。
移配蝦夷の処遇に転換をもたらした法令。

大宰管内諸国の解の現代語訳。
「例の俘囚たちは、常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(服従しない荒々しい心)を改めようとしません。
狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。
それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています。
調庸を徴収しようとすると、山野に逃げ散ってしまいます。
調庸の末進が累積するのは、主にそのためです。
そこでお願いしますことは、本人からの徴税を免除して、子孫が増えたら、はじめて課役を徴収したいと思います。
そうすれば俘囚は次第に日本人の習俗を学習し、国司は永く後の煩い(補填責任のこと)を免れることができるでしょう。」

この年まで移配俘囚に調庸を課す原則があったが、調庸を収取できていないため、俘囚の調庸を当分の間免除することにしたという。
陸奥・出羽の蝦夷(俘囚・夷俘)は調庸を負担しないが、移配先では調庸を賦課されていた。

調庸を収取できない理由として、大宰管内の諸国司は、俘囚はみな狩猟・漁労を生業とし、養蚕を知らず、定住しないからだと述べている。

しかし胆沢の蝦夷は基本的に農耕民である。
狩猟・漁労も行っていたとしても、農耕の占める割合はかなり高い。

延暦8年(789)の征夷で惨敗した征東将軍紀古佐美は、「蠢爾(しゆんじ)たる小寇(しようこう)、且(しばら)く天誅を逋(のが)るると雖も、水陸の田、耕種することを得ずして、既に農時を矢へり。滅びずして何をか得たむ」と述べて、桓武天皇に征夷軍の撤退を進言している(『続日本紀』延暦8年6月庚辰条)。

「蝦夷たちは攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植えができなかったので、放置しても滅ぶであろう」という論理である。

移配蝦夷が農耕を知らない狩猟民とされている理由としては、
①彼らが故郷から強制的に引き離され、移配先で社会的な差別を受けるという特殊な境遇に置かれていたこと、
②彼らが倭人とは異なる文化・習俗を持っていたこと、
という2要因が想定される。

延暦末年は班田収授制の崩壊が始まる時期であり、その状況下で班給された移配蝦夷の口分田が、生活に十分なものであったとは考えられない。
彼らに公粮(国家が支給する食料)が与えられたのも(『日本後紀』弘仁2年2月癸酉条)、公粮を支給しなければ生活が立ち行かない者が多かったからであろうと推測できる。
与えられた口分田の条件が悪ければ、農耕民であっても、山野で狩猟をしたり、定住を断念したりすることもあり得るわけである。
それを大宰管内の国司は「恒に旧俗を存し、未だ野心を改めず」とみなし、調庸を取れない責任を俘囚の習俗や不服従性に転嫁した。
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