2012年3月4日日曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(18) 「十五 隅田川を渡って - 深川」(その1)

東京 江戸城(皇居)梅林坂(2012-02-28)
*
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(18) 
「十五 隅田川を渡って - 深川」(その1)
*

「「裏町」ほど荷風の心をひきつける。
陋巷であればあるほど荷風はそこにすがれた情感を覚える。」(川本)

「日和下駄」の本所深川あたりを論じた文章。
「私は今近世の社會問題からは全く隔離して仮に単獨な絵画的詩興の上からのみかゝる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には龍動(ロンドン)や紐育(ニューヨーク)に於いて見るが如き西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨な中にも何処となく云ふべからざる静寂の気が潜んでゐるやうに思はれる」

「傍観者的な位置に自分を限定したうえでの荷風の零落趣味である。」(川本)

大正12年5月19日。
隅田川の東、本所深川。
「日比谷より本所猿江行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿うて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る」

麻布、日比谷、日比谷から本所猿江行の電車は、新大橋を渡り、現在、都営新宿線が走る森下町を通り、大横川に架かる菊川橋が終点。おそらく荷風はここで降り、大横川に沿って南へ歩き小名木川にぶつかったところでさらに大横川に架かる猿江橋を渡り、猿江の「裏町」を歩いたのだろう。大正2、3年頃に比べると「新開の町つゞき」となったと書く。深川の工場街が東に延びている。

「たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。
此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ」
(この項に註あり。(その2)参照)

翌5月20日もまた隅田川を渡って「裏町」をひとり歩く。
「昨日の散策に興を催せしのみならず、鴎外先生の抽齋伝をよみ本所旧津軽藩邸附近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ。
津軽藩邸の跡は今壽座といふ小芝居の在るあたりなり。
総武鉄道高架線の下になりて汚き小家の立つゞくのみなり」

抽齋の主、弘前城主津軽順承の上屋敷は本所二ツ目にあり、抽齋は縁町、のち亀沢町に住んだ。つまり、この日、荷風は、抽齋ゆかりの地を訪ねる文学散歩を楽しむ。

5月19日の町歩きでは、「裏町」に興を覚え、翌20日には、抽齋ゆかりの地を歩く。
荷風にとって本所深川は、「裏町」として、また、江戸の香りを残す古き良き町として二重に魅力的に見えた。

深川は、江戸以来の木場、洲崎遊廓、富岡八幡宮と深川不動尊の門前町と、明治以降に登場した浅野セメントのような近代工場が錯綜した東京の下町である。
「日和下駄」の言葉を借りれば、浅野セメントの工場と新大橋の向こうに残る古い火見櫓、つまり「工業的近世の光景と江戸名所の悲しき追蹟」が混り合った町である。
一帯には、小名木川、仙台堀川、六間堀、大横川、油堀など大川に通じるさまざまな掘割の流れる水の町である。

西村眞次著『江戸深川情緒の研究』(『深川区史』下巻、大正15年)。
深川は江戸の町のなかでもいちばんおくれて生成した土地であり、深川の人間は、隅田川を渡って市中に行くことを「江戸へ出る」といっていたという。同じ隅田川沿いの町でも、川の東側と西側とでは町の雰囲気が違う。東の深川、その北の本所のほうが陋巷の影が濃い。

「深川の唄」(明治42年)。
荷風が日本を去る明治26年頃まで「悲しい裏町」の深川には繁華な市中からの電車の便はなかった。市中から深川に行くには、汐留から出て三十間堀を通って隅田川をさかのぼる蒸気船か、八丁堀の河岸から出る櫓舟に乗るしかなかった。深川は、川の向こうの、陋巷の残る町だった。
荷風はそこに惹かれた。

「帰朝後、西洋化のすすむ市中の光景に反発した荷風は、川を渡った深川に、開化文明に取り残されたような「悲しい裏町」が残っていることに慰安を覚えた。」(川本)

随筆「大窪だより」(大正2~3年)には、当時、荷風が好んで深川と本所を歩いたことが書かれている。

両国の回向院、竪川、四ツ目牡丹園、猿江、小名木川、森下町、木場、洲崎。
そして、この深川への散策は「日乗」にも受け継がれる。

大正11年10月31日
「午後深川公園より浅野セメント工場の裏手を歩み、此頃開放せられし岩崎男爵別邸の庭園に憩ひ、薄暮に至るを俟ち明治座前の八新に往く」

大正13年9月15日
「午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木場を過ぎ、洲崎遊廓を歩む」

昭和3年8月28日
関根歌と深川不動尊の縁日に出かける。「是夜深川不動尊の賽日にて橋上人の往来多く、電車通り夜店賑なり」

「岩崎男爵別邸の庭園」は、現在の清澄庭園。
浅野セメントの工場はそのすぐ隣りにあった(現、日本セメント研究所)。

野口富士男『わが荷風』。
「荷風が好きな土地といえば、晩年の彼から浅草を想いうかべる人がすくなくあるまい。・・・が、その生涯を通じて彼がパリの次に最も愛したのは、深川といっていけなければ隅田川以東-げんざいの墨田区から江東区の一円にかけてではなかったか」
"
"親友井上唖々宛ての手紙。「金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね」(明治41年8月8日)。

翌42年、「深川の唄」で深川の町への傾斜を告白。

同年12月~翌年2月、東京朝日新聞連載の長編小説「冷笑」。
第4章「深川の夢」で江戸情趣の残る深川の町を礼讃。おきみさんという洲崎の引手茶屋の養女。その美しさを引き立てるのは、深川という水の町であり、町も美しい女を配されることによって魅力を増す。
「私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘ってくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである」

この「水辺の女」のモチーフはのちに「濹東綺譚」に受け継がれていく。

「深川は、単に散策の場としてではなく、荷風にとって”文学の生まれる場”と感受されている。
のちに荷風は、深川からさらに東は葛西、葛飾へ、北は濹東の玉の井、戦後は向島の鳩の町へと、関心の向かう場を拡大していくが、原点は深川にあった。」(川本)

「荷風にとって深川は曾遊の地である。
外遊後に「発見」した下町でなく、十代のころにすでによく歩いていた町だった。
・・・とくに小石川、番町、大久保と東京の山の手に住んだ荷風にとっては、隅田川を渡った本所深川が、ふだんの生活圏とは違った異郷として新鮮に思えた。
山の手が明治の新しい階層の町とすれば、下町は明治以降、工場地区となりながらもなお江戸の残り香を保っていた。」(川本)

「深川の唄」。
帰国後、性急に文明化していく「浅聞しい此の都会の中心」に違和感を覚え、思い立って、市電に乗り古き良き深川へ出かけて行く散策記。

12月20日過ぎ、あまりにもいい天気なので、深川を歩こうと、四谷見附から築地両国行きの市電に乗る。電車は、麹町、半蔵門、三宅坂、日比谷公園、数寄屋橋、尾張町、木挽町、新富町と走る。茅場町で乗りかえて、永代橋で隅田川を渡り、深川へと入る。

「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云蓋し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである」

「場末」「淋しく悲しい裏町」のなかにすがれた美を見ようとする荷風独特の零落趣味。
時代から取り残されていくもの、隅のほうに押しやられていくもののなかに美を見ようとする。
荷風のロマンチシズムである。

深川のなかに「場末」「裏町」と同時に、失なわれた江戸情趣を見ようとするのも同じ心情のあらわれである。
荷風は「深川の唄」で、水の町に残る江戸の残り香を回想してみせる。
堀割、深川不動の縁日、水に映る祭りの日々の衣服や提灯の色、夏の洲崎遊廓の灯籠、人影しずかな料理屋の二階から聞えてくる芸者の唄。
荷風は、ことさらに深川の古き良き江戸の町という側面を強調する。

「それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は實に平和であった」

「開化文明を嫌った荷風から見れば、「淋しく悲しい裏町」は、静かな隠れ里であり、逆説的なユートピアになる。」(川本)

*
*
(その2)に続く

東京 九段 日本基督教団九段協会

靖国神社の殆ど隣接しているといってもいいくらいの位置にある。
近くを通るたびに、そのデザインの斬新さが目を惹き、気になる建物だ。
空の青にマッチする。

明治8年に神田で設立された後、明治31年にこの地に移って以降、この地で頑張ってこられたとのこと。
靖国の近くだし、いろんな難しい問題もあったと推測できる。

受けるイメージが「尖塔」のイメージなので、カトリック教会かと思ったが、ここはプロテスタントの教会。

2012-02-24撮影


京都 年末の宗忠神社 竹中稲荷神社

病院通いの合間を縫っての散歩
昨年末の12月30日
真如堂(コチラ)から宗忠神社に向かう。

▼宗忠神社
年末だけあって、参詣者はゼロ
静かだった。

階段途中にいる人は、落ち葉を掃除している人
初詣を迎える準備中
▼真如堂からまっすぐの道で繋がっている


*
▼竹中稲荷神社
ほとんど宗忠神社の隣接してある


▼吉田山へ通じる道
*

*

永禄12年(1569)2月~3月 信長、堺を接収 矢銭を拒絶した尼崎を焼き払う 撰銭令を発す [信長36歳]

東京 江戸城北桔橋門(2012-02-29)
*
永禄12年(1569)
2月
・信長、山城慈照院へ、相国寺内塔頭慈照院境内の宜竹軒領の地子銭・年貢米を安堵(「慈照院文書」)。
*
・武田信玄、駿河蒲原城を陥れ、陣中から真田幸隆(57)、信綱に戦況を報じる。
*
2月1日
・柴田・森・坂井・蜂屋・佐々木、三好三人衆を助けた金剛寺を叱責し、罰として兵糧米を賦課。
*
2月2日
・信長、禁裏に鯨肉・鱒を献上。
廷臣にもおすそわけの配分をする(「御湯殿上日記」同日条)。
山科言継は鯨3きれを拝領し、持ち帰るが、「但し路次に於いて一切鵄(トビ)これを取ると云々」(「言継卿記」同日条)と、鵄に持ってゆかれる。
*
2月8日
・上杉・武田仲裁の足利義昭御内書、上杉輝虎へ。
10日、織田信長、輝虎重臣直江景綱へ親書。
*
2月11日
・信長、堺を接収(直轄地化=自治都市の敗北)。
この日、信長上使(佐久間信勝・柴田勝家・和田惟政・森可成など)、堺を接収。
津田宗及、信長上使100名を自宅に招く。
信長は自分に近い納屋衆で薬種商の今井宗久を堺近郊の堺五ヶ荘の代官職に任命、家臣松井夕閑を奉行として堺に常駐させる。
堺の経済力・交易力、鉄砲・武器の生産力掌握が狙い。

「永禄十二年己巳正月九日、信長本圀寺に至る。
江・濃・尾の兵、迅速に馳せ登り、五万人に及ぶ。
信長今度戦功の輩を賞し、且今度泉南堺津大商の長三十六人が三好家に荷担して、彼の津に於て軍用を調へしむる罪を鳴らし、尽く焼討にすべき旨沙汰せらる。
逆徒皆四国に逃渡ると云々。
堺津より黄金二万を以て罪を贖う。」(「武徳遍年集成」)。

統一政権と結ぶ「死の商人」として巨大化。
堺では今井宗久らが最も早く織田政権と結びつく。
堺は日本最大の鉄炮産地であり、かつ火薬の原料である硝石は貿易に頼っていた為、堺は戦争に不可欠の鉄炮・玉薬の調達を行った。

この年10月、「公方様並信長御台御料所」の代官として、豪商今井宗久は、南材本町・甲斐町の運上銭を徴収し、塩合物過所銭を収納するなどの活躍をする。
豊臣政権においても、宗久は河内直轄領の代官、伏見城造営奉行として物資調達にあたる。
また、徳川覇権の際にも、巧みに転進し、徳川氏と密接な関連をもつ。
宗久ほど顕著な活躍をしたのは少いが、天王寺屋宗及などが同様であり、伏見奉行長谷川宗仁、キリシタン大名小西行長も堺商人出身。
*
2月15日
・足利義昭、将軍家祈願所摂津忍頂寺へ、足利将軍家代々判形に任せ寺領以下に守護不入を安堵。詳細は細川藤孝・中沢元綱が伝達。(「寿泉院文書」)
*
2月16日
・柴田・森・坂井・蜂屋・佐々木、本興寺に軍が駐留することを禁止。
*
2月24日
・この月14日、山科言継は、信長に対し貧乏のあまり来たる26日の参内に行きかねる旨をこぼすと、信長は合力を約束(「言継卿記」24日条)、参内が迫ったこの日(24日)、銭貨10貫を信長から贈られ、「祝着満足せしめ罷り帰り了んぬ」と喜ぶ。
*
2月26日
・佐久間信盛、柳生宗厳へ織田側と松永久秀と連絡を取っていることを賞し信長よりの謝意を通知。また去年以来の結城忠正との談合については決して油断していない旨を通知。
*
2月28日
・信長、織田勢3千を尼崎に差向け矢銭を課す。
拒絶され尼崎を焼払う(「細川両家記」)。
*
2月28日
・信長、撰銭令を発し、条目を追加(「京都上京文書」)。
この日、禁裏へ米100俵を献上(「言継卿記」4)。
*
*
3月
・春、信長、唐物茶入れなど天下の名物を収集。
上京の大文字屋所持の初花肩衝、祐乗坊の富士茄子の茶入れ、池上如慶のかぶらなしの花入れ等の名品が差出される。
使者は松井友閑・丹羽長秀。所蔵主には金銀米穀が代償として与えられる(「信長公記」)。
*
・信長、山城誓願寺泰翁長老へ、「参銭」等と、また「如近年可為一職」を安堵(「誓願寺文書」)。
*
・ブリュッセル全国議会、 「十分の一税」・二十分の一税賦課。
*
3月初
・毛利元就、山陽道4ヶ国4万の軍勢を動員、九州に上陸。元就は長府に布陣、九州攻めの総指揮を執る。
*
3月1日
・信長、摂津天王寺・上京に撰銭令発す。流通銭の種類を定め品質により永楽銭の2、5、10倍の交換率指示。
16日、撰銭令追加条目公布。米による物品売買禁止。
*
3月2日
・朝廷より信長を副将軍とする使者(万里小路惟房・広橋兼勝)が遣わされる。信長は返事せず。
*
3月2日
・和田惟政・竹内秀勝(久秀家臣)・柴田勝家・蜂屋頼隆・野間長前・坂井政尚・佐久間信盛、摂津多田院に矢銭を免除。
*
3月3日
・信長、細川藤賢(「細川右馬頭」)邸の庭より人夫3、4千人で「藤戸石」を笛鼓にあわせて勘解由小路室町まで運搬。日暮れ迄には堀之内へは入れられず。山科言継、この「藤戸石」を見物し驚嘆(「言継卿記」4)。4日、堀之内へ搬入。
*
3月3日
・丹羽長秀、誓願寺泰翁上人宛て知行安堵の朱印状に副状を発給(「誓願寺文書」)。
*
3月5日
・家康、掛川城に総攻撃開始(~7日)。
*
3月7日
・義昭の二条御所の石垣工事終了。
11日、南門の櫓、28日、西門の櫓、完成。豪壮な景観。信長の実力見せ付ける。

この日、山科言継、他の公卿と共に信長の京都残留を願い出、石垣竣工を見物して「今日悉く出来、目を驚かす事なり。十一ケ国衆の普請なり」と感歎し、自宅まで送ってきた細川藤賢と驚くべき工事について語り合う。
言継は、この工事中しばしば信長の機嫌を見舞い、3月11日は日野氏らと共に信長の晩餐の相伴にあずかる。
*
3月10日
・この日付け織田信長宛ての武田信玄条目、「越甲和与の御内書」を請けたいとする。この頃、信玄は信長を介して将軍義昭の御内書により上杉氏との和睦工作を試みるが、実現しない。
*
3月11日
・フロイス、日本人修道士ロレンソと共に3年半ぶりに京都に戻る。
13日、信長、フロイスに謁見。信長は黒いビロードの帽子を受取るだけで、佐久間信盛・和田惟政に食膳をもてなさせ、フロイスとは話を交えず。
この日から40日間で、フロイスは計5回信長を訪問。
信長は京都で15回、安土で12回、その他入れて計31回以上バテレンと会談。

永録12年1月の三好勢の本国寺襲撃に堺町衆が協力していた事を知り、信長は堺に矢銭を要求。
町衆がこれを拒否し、町は殲滅されるとの噂が広がり、フロイスは本拠を尼崎から高山飛騨守の居城高山(大阪府豊能郡)の山中に避難。
ここに和田惟政が、信長の許可により京都復帰が可能と知らせが入る。
フロイスは堺に戻り、堺奉行となった和田惟政の世話になり、豊後から戻ったロレンソと共に京都に戻る。
*
3月13日
・フランス、ジャルナックの戦い
シャラント川湖畔ジャルナック、ブルボン家コンデ親王ルイ(ルイ・ド・コンデ、39)とコリニー提督の新教軍、アンジュー公アンリ率いる国王軍と戦い、国王軍勝利。
コンデ親王が捕らえられて処刑。
コンデ公に代わってアンリ・ド・ナヴァール、アンリ・ド・コンデが首長に仰がれるが、実際の指揮権はコリニーにある。
*
3月13日
・武田信玄、下総関宿城主梁田晴助を誘い武蔵を攻めさせる。
*
3月14日
・上杉輝虎、北條氏との同盟に同意。使僧天用院、これを氏康に報告。上杉家からの条件は上野の領地を旧領主へ返還、北条家からの人質の提出(養子)。
この同盟で武田信玄の策謀は消える。
*
3月16日
・信長、上京(惣町に宛てて)へ「銭定」など全7ヶ条の「精撰追加条々」を下す。

「一、銭定(ゼニサダメ)違犯のともがらあらば、その一町切(イッチョウギ)りに成敗たるべし、その段あい届かざらば、残りの惣町一味同心(イチミドウシン)に申しつくべし、なおそのうえに至りても手余りの族(ヤカラ)においては注進せしむべし、」

(撰銭令に達犯した者がいたならば、まずは個々の町で処罰せよ。それができない場合は、惣町が心を一つにして処罰せよ。もしそれでももてあますような者がいたならば、訴え出るよう)

かつては、「銭定に違犯の人が出た町は、その町人すべてを処罰する。違反者を届け出ない場合は惣町を一味同心と認め処断する」と、町と惣町とを連座させて処罰するという意味に解釈されていた。
近年の研究では、この一文は、信長が洛中へ命令を伝達するにあたって、その命令を惣町へくだすことで個々の町にまで伝わることを認識していたことを示すものと理解されるようになった。
*
3月17日
・丹羽長秀、三井寺花光坊に、買得の田地を安堵(萩野由之氏文書)。
*
3月20日
・伝奏・右少弁両名を勅使とし信長に副将軍を推任。
*
3月23日
・武田信玄、信長に図り、上杉・北条氏との和睦を画策。
この月、佐竹・里見・宇都宮氏の小田原攻撃態勢を完成させる。
*
3月23日
・島田秀満、丹波船井郡11村(北野社領)へ義昭下知・信長朱印で「如先々」く命令したので早々に年貢・諸公事物などは北野社松梅院雑掌に渡すよう通達(「北野神社文書」)。
*
3月23日
・信長、大和奈良の方々へ「銭定ノ制札」を下す(「多聞院日記」2)。
*
3月26日
・輝虎(40、上杉謙信)に包囲された越後村上の本庄繁長、葦名盛氏・伊達輝宗を通じ降伏。
輝虎、繁長の子・顕長を人質として本領を安堵、春日山城に凱旋。
*
3月28日
・山科言継、信長を訪問し御城普請を見物。
烏丸光康・烏丸光宣・三好義継・松永久秀らが見舞に来訪。
*
*

仁和5年/寛平元年(889)~寛平3年(891)1月 太政大臣藤原基経(56)没 宇多天皇の親政(寛平の治)始まる

東京 北の丸公園(3月1日)
*
仁和5年/寛平元年(889)
4月27日
・「寛平」に改元。
*
5月
・桓武天皇の曾孫高望王に平姓を与える(桓武平氏)。
*
*
寛平2年(890)
2月
・殿上で太政大臣基経の三男仲平の元服式。宇多天皇は、加冠をし、宸筆の位記を与える。
父光孝の先例に従ったものであるが、宇多の基経への宥和の態度を公然と示したもの。
*
春
・菅原道真(46)、国司の任期を終え帰京
*
4月
・寛平大宝(皇朝十二銭の十)を鋳造。
*
5月
・橘広相(54)、没。

宇多天皇は弔問の使いを派し、中納言を追贈し、従三位に叙し、穀倉院の絹布を遺族に供して葬儀の費にあてさせる。
阿衡の紛争において基経や佐世らの激しい人身攻撃にあいながらも最後まで抗争しようとした広相を庇護しえなかった宇多は、広相の没に際し手厚い恩恵を施した。
広相は、この年、『蔵人式』を撰進している。
*
10月
・病床の太政大臣基経、快方に向わず。
*
*
寛平3年(891)
1月13日
・太政大臣藤原基経(56)、没。

基経の子は、時平・兼平・仲平・忠平、頼子(らいし、清和女御)・珠子(しゆし、同上)・温子(宇多女御)・穏子(おんし、ずっとのちに醍醐の皇后となる)。
長子時平は21歳、蔵人頭を経験したが参議にも列していない。正室は廉子(れんし、本康親王の女)。
温子に皇子が生まれるかは測り難く、皇室との閏閥的関係は不安定。

・宇多天皇は、忠仁公良房の先例に倣い、勅を下して「昭宣(しようせん)」諡(おくりな)を贈る。

・宇多天皇はこの月、阿衡の紛議の際に宇多・広相側に不利な論陣を張り、結果的に広相追い落としに一役かった藤原佐世を陸奥守に左遷する。

・宇多天皇は関白を置かず、寛平の治と呼ばれる親政を開始。
良房・基経のほぼ30年に及ぶ執政時代(前期摂関政治)は、字多天皇の親政への積極的な切替えによって終焉を告げる。

①時平(21)と、仁明の孫王源興基(みなもとのおきもと)を参議に起用。
以降数年の間に、源家の貞恒(さだつね)・湛(たとう)・希(まれ)・昇(のぼる)らを参議とする。
時平に対する対抗策であり、皇権強化の狙いでもある。

②寛平5年(893)、女御胤子(いんし)との間に生まれた敦仁親王(9歳)を皇嗣とする。
女御の父は藤原高藤(傍流の藤原北家系、冬嗣の孫)。
これで、時平の、外戚・外舅への道を封じ、皇太子の外祖父高藤を参議に任じる。

③基経没後1年後に、良二千石といわれた藤原保則を、さらにその翌年には菅原道真を参議に起用。

・宇多天皇は、菅原道真を讃岐から呼び戻し、2月、蔵人頭に任じる。
蔵人頭は、公卿の末席である参議への出世コースにあるが、道真以前に儒者でこれになった最後は、陽成朝初期の橘広相であった。
宇多は道真を広相の後釜と見ていた。
同年4月、道真は左中弁に任じられ、太政官の事務機構の中枢に入った。
2年後の寛平5年(893)には、左中弁のまま参議となり、同年内に左大弁に昇進、さらに勘解由長官と皇太子敦仁(9歳、後の醍醐天皇)の春宮亮とを兼ねる。

・宇多天皇は、4月、藤原保則(やすのり、67歳)を左大弁に抜擢。
翌年に参議、さらにその翌年には民部卿を兼ねさせ、国政の新局面を展開してゆく(国司長官の受領化の完成)。
基本的には、ここで成立した制度が以後の2世紀ほどにわたる地方支配の枠組みを作ることになる。
保則は、門地・官歴からみて、9世紀後半の受領の典型である。
受領の裏も表も知り尽くし、民を安んずる政道において、同時代の何人よりも豊かな体験を積み、その政治的所信に極めて忠実であった。
だから、ごく少数とはいえ、国政の第一線にたつ良心的硬派からは嘱望され支持されていた。
保則は、南家の中納言乙叡(おとえい)の孫で、藤原氏の傍流。父の官途は左兵衛佐で終わっている。
保則は斉衡2年(855)治部少丞、貞観13年(871)備中国権介、以降、受領として備中・備後で活躍し、その治績を大いにうたわれた。
元慶2年(878)の出羽国の夷俘の乱に際して、基経から鎮定の大役を任され殊功をあげる。
その後ずっと受領生活を続け、讃岐守・大宰大弐として良吏の誉れを一層高めた。

寛平・延喜の国制改革(前期王朝国家への転換始まる)
9世紀、中央集権的統制が緩和され、受領の国内支配の裁量権が拡大されたが、建前としては編戸制・班田制・調庸制は堅持されている。
この現実と建前との矛盾が、9世紀後半、郡司富豪層と王臣家との結託による租税の未進を深刻化させ、国家財政と受領の国内支配を危機に陥れた。

この危機を克服するため、宇多天皇は、寛平3年以降、受領経験のある菅原道真らを抜擢し、受領による国内支配を立て直し、中央への税収を安定化させるための国制改革に着手した。
この改革は次の醍醐天皇の治世でも一貫して継続された(左大臣藤原時平による右大臣道真左遷事件があっても)。

地方支配に関する改革の主な内容は、
①富豪層と王臣家との私的結合の分断。
富豪層の王臣家への田宅寄進の禁止、富豪層の王臣家人化の禁止、王臣家人化した富豪層の納税拒否の禁止などの政策が次々に出され(『類聚三代格』)、受領に王臣家人(と彼が経営する田地)に対する徴税権と、納税を拒否する王臣家人の国外追放権・逮捕権などを与えた。
こうして国内居住者は所属・身分にともなう免税特権を否定され、国衙支配に服さなければならなくなった。

②中央財政の構造改革
政府は、国司に正丁(せいてい)数を基礎とする調・庸を大蔵省へ一括納入させ、大蔵省から受給者(宮司・宮人)に分配する中央集権的財政構造を放棄。
受給者が政府から随時、必要物品の給付を特定の国に命じる手形(官符など)の交付を受け、直接受領に必要物品を請求する財政構造に転換。
受給者の請求額は固定され、固定された総支出を基礎とする新たな財政構造のもとで、受領の請負額も固定された。
受領は官司・官人の随時請求に応じるため京内外の倉庫にモノを集積したが、任国からの運京は受領の私的な活動になった。
こうして郡司富豪層が国衙から大蔵省までの調・庸運京を請け負う方式は廃止され、財政官司や王臣家から未進追及を受けることもなくなった。
運京請負にかこつけたピンハネもなくなり、郡司富豪層が王臣家と結託する大きな要因が除かれた。

③土地制度改革の実施
延喜2年(902)、延喜の荘園整理令。

④受領による国衙機構改革(受領による国内支配体制の確立)
行政機能ごとに公文所(政所)・田所(たどころ)・税所(さいしよ)・調所(ずしよ)・検非違所・船所(ふなしよ)などの、受領直属の部局である「所(ところ)」を作り、子弟郎等ら京下りの側近を「所」目代に任じ、その下に有力田堵(私営田領主)を在庁官人に任じて配属し、実務を分担させた。
こうして国司四等官制は実体を失い、受領と私的関係で結ばれていない任用(掾・目)は在京して俸禄を受給するだけになり、9世紀以来の受領と任用の対立からくる国衙支配の不安定性は解消され、受領による国内支配体制が確立した。

この一連の改革によって、受領は任期4年分の貢納物を完済することを条件に、国内支配を委任されることになった。
受領は中央政府には固定額の貢納物を納めるが、国内では公田面積に対して税率を変動させたり付加税を加えたりしながら徴税した。
両者の差額が、受領の私的収益になる。
この税制上の二重構造が、「受領は倒るるところに土をつかめ」(『今昔物語集』」)といわれた受領の貪欲さの根元であった。

・宇多天皇は、宮中の秩序に関して新方策を打ち出し天皇の地位を再浮上させようと図る。
昇殿制度を確立して、宮廷社会に新しい序列を作ろうとした。
天皇の居所である内裏の清涼殿の殿上の間に昇る(昇殿)ことの出来る人間を、位階で決めるのではなく、天皇が一代ごとに個人個人について資格の有無を検討し、決めようとする。
漠然としていた侍臣(側近)を、制度として確定し、天皇が貴族官僚の序列を決めるということを再確認しようとした。
結局、参議以上の公卿は昇殿を許されるのが普通となり、実質的には蔵人頭の指揮下に四位・五位の殿上人が陪膳(ばいぜん)や宿直(とのい)に当たるという制度に出来上がる。
ただ、後世、宮廷人を公卿・殿上人・諸大夫(しよだいぶ)と階層づける出発点とはなった。
*
*



2012年3月3日土曜日

東京 北の丸公園のカワヅザクラ(河津桜) 2012-03-02 先日は大雪に、この日は雨にうたれる

昨日(3月2日)は予報通り朝9時頃から雨が降り始めた。
南からの暖かい空気がやって来たんだ

昼休み、短時間で北の丸公園のカワヅザクラを観に行った
3月1日(コチラ)からもう少し開花の数が増えた

▼先日の大雪(コチラ)で花びらを失った開花第一号(写真右側)

▼しだいに開花の数が増えてきた




▼ついでにマンサクの様子も観にいった
まだまだ元気だ
*
3月6日のカワヅザクラ(コチラ)
3月8日のカワヅザクラ(コチラ)
*

原発テーマのBBC放送2本(インサイド・ザ・メルトダウン、津波に遭った子供たち)

原発を主題にしたBBCの放送2本
*
▼インサイド・ザ・メルトダウン
思わず、生まれてきた子の手と足の数、指の数を数えたという父親・・・

*
▼津波に遭った日本の子供たち
津波や原発事故に遭った子どもたちへのインタビュー
ブログ「ウィンザー通信」さんが日本語起こしをしてくれている(コチラ)。

*
*

2012年3月1日木曜日

東京 北の丸公園のカワヅザクラ(河津桜)とウメ(梅) 2012-03-01

今日から3月

北の丸公園のカワヅザクラとウメ

▼昨日の大雪でカワヅザクラ開花第一号が可愛そうなことに・・・
大雪の北の丸公園はコチラ
▼しかし、開花第二号が登場
▼予備軍も続々登場

▼ウメも新しく開花が始まっている


刈羽村村長だけ「脱原発依存」方針に反対。 東電からの寄付金40億で大型複合施設が10月に完成する


東電柏崎刈羽原子力発電所から30km圏の市町村長9人と知事の計10人のうち、
政府が掲げるエネルギー供給の「脱原発依存」方針に賛成する人は7人。

同原発の再稼働について、政府が安全基準を示すことなどを前提とする「条件付きで賛成」は半数。

という調査結果が出たそうだ。
(「毎日JP」コチラ)

また、政府の「脱原発依存」方針に反対したのは、当の刈羽村の品田宏夫村長だけだった。

エネルギーの安定供給のため現時点では原発は欠かせないとした上で、
「代替エネルギーを考慮しながら現実的な対処が必要」

という。

◇県と9市町村への調査結果
(◎=賛成、○=条件付きで賛成、×=反対、☆=その他)

 脱原発 再稼働

新潟県    ☆   ☆

柏崎市    ◎   ○

刈羽村    ×   ○

長岡市    ◎   ☆

小千谷市  ☆   ○

十日町市  ◎   ×

見附市    ◎   ×

燕市      ◎   ○

上越市    ◎   ☆

出雲崎町  ◎   ○

*
*

刈羽村といえば、同じく「毎日JP」のニュース(コチラ)によると、


(見出し)
大型複合施設:10年に40億円、東電寄付で建設 10月1日オープン--刈羽村 /新潟

というのがあった。

(記事)
東京電力からの寄付40億円を受け、刈羽村が建設工事を進めている大型複合施設「ぴあパーク とうりんぼ」が10月1日にオープンする。

柏崎刈羽原発に隣接し、サッカー場▽宿泊施設▽大学研修施設▽農業施設などを備えた約8・8ヘクタールの施設だ。
寄付は福島第1原発事故前の100年に受けた。
維持管理費などは受けないため、同村は「事故の直接の影響はない」と説明。
工事は着々と進んでいる。

原発に関わる交付金ではなく、東電の寄付で同村に初めて造られる施設。
建設計画は02年に持ち上がり、村民や行政関係者らで計画を詰め、事業者を募集。
10年10月に着工した。
総事業費40億円の内訳は、土地など約5億円相当の現物、建設工事費、備品購入費約30億円などだ。

(以下略)

*
*

エネルギーの安定供給のために原発が欠かせない、のではなく、

原発マネーの甘さが手放せなくなったから原発が欠かせなくなった、のではないか。

*
*

福島の嘆きをよく聞かなくてはいけない。

一度目は悲劇であっても、二度目は喜劇にしかならない。

*
*