2024年9月28日土曜日

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大杉栄とその時代年表(267) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉 『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ 防長回天史編集所入社 兄の死 長男誕生 「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」(余の半生) 「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳) 福沢諭吉の女性論に共感     

 


大杉栄とその時代年表(266) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉 母の死 父を連れて上京(二度目の東京生活)『実業新聞』入社 『実業新聞』廃刊 父の死 生活態度を改める 堀美知子と結婚 『福岡日日新聞』入社 より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉


1897年5月、『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ

堺は最初から『福岡日日新聞』主筆の高橋光威とは折り合いが悪く、社員たちは残念がったが、入社1年後に退社することになる。

一方で、東京の乙槌から肺結核で先は長くない、との連絡が来る。乙槌は堺の上京を止めたが、堺は1897年5月に、東京へ向かう。


防長回天史編集所入社

征矢野に紹介された末松謙澄(豊前出身、伊藤博文の娘婿、ケンブリッジ大学のマスター・オブ・アーツの学位と日本の文学博士と法学博士の学位)より、『防長回天史』編集員の一人として雇われる。

末松は毛利公爵家の依頼で、『防長回天史』(維新前後の長州藩の歴史)を編集することになっていた。毛利家で以前から旧藩の歴史の編纂事業が行われ、材料の蒐集と整理も進んでいた。防長回天史編集所は芝区の白金猿町(現・港区白金台2丁目)にあり、所員たちはその近辺に住んで毎日通っていた。堺の「予の半生」には「東京とは云へ殆んど市中から隔絶して、二年の間、浮世離れた隠遁の生活を送つた」と書かれている。堺は身重の妻の美知子を連れて高輪に家を借り、下宿をしていた兄の乙槌も、引き取って面倒をみることにした。

1894(明治30)年8月10日、乙槌(32)没


10月、長男不二彦誕生

防長回天史編集所には総裁の末松謙澄のほか、古くからいる毛利家旧臣たちが5、6人と、末松が呼び集めた所員が6、7人いた。所員の首席格は山路愛山(本名・弥吉)、次席格の笹川臨風(本名・種郎)、斎藤清太郎、黒田甲子郎、末席に堺利彦という顔ぶれだった。毛利家旧臣は筆頭の中原邦平の他数人いたが、その一人で予備陸軍中尉の荒川銜(かん)次郎は、のちに堺が売文社で世話をする荒川義英の父親である。末松は旧長州藩の伊藤博文の娘婿だが、末松が招集した山路愛山は旧幕臣で、笹川臨風も斎藤清太郎も黒田甲子郎も堺利彦も全員が他藩人だった。

編集作業は、他藩人が主体となり、毛利家旧臣たちは顧問役、案内役となって、他藩人に説明しながら進んでいった。堺は「予の半生」で「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」と述懐している。また、この編集作業を通じて、堺は維新史の知識を得ることもできた。

臨風は「堺君は我々呼んで愛妻居士と云つてゐた。社会主義などを唱へる人でなく、寧ろ家庭改良論者であつた」とも述べている。

堺は編集所の仕事で防長2州に出張し、吉田松陰の兄の杉民治の案内で松下村塾の旧跡などを訪ねている。この出張での見聞を、1897年12月6、13、20日の3回、『読売新聞』に「たもと草」と題して寄稿した。


このころ、堺は高輪から同じ芝区の白金今里町(現・港区白金台)に引っ越している。2棟ある大きな家なのに家賃は5円。裏手には浪華文学会時代からの友人の加藤眠柳が住んでいた。この家には美知子の妹の保子も同居するようになり、隣家には上司小剣が来て住み始めた。上司小剣が大阪から上京したいといってきたので、堺は堀紫山に頼んで彼を『読売新聞』に入れてもらった。堺の生活はにぎやかだった。編集所の給与は月30円から40円に上がり、生活に窮することもなかった。

1898年5月5日、「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳、『福岡日日新聞』)


1899年5月、『防長回天史』編集解散が決まる(6月末に一部を除いてほぼ編集作業は終了)。


将来への展望

(「三十歳記」)によれば、3月16日、将来について考え、政治家、教育家、文学者のどれを選ぶべきかで悩む。尊敬していた内村鑑三の影響で、教育家ということも考えたが、学閥があるのは嫌な心地がし、教育文学者、道義文学者、宗教文学者のどれが望ましいか、と迷う。

1899年4月頃、妻の美知子が胃の病気で衰弱。8月、長男の不二彦も脳膜炎を起こして入院。


堺は田川大吉郎が主筆の『報知新聞』か、黒岩涙香が主宰する『萬朝報」のどちらかに入りたいと考えていた。この二紙が当時の東京の新聞では発行部数が多く、勢いがあった。


1899年4月9日、堺の日記にはじめて「幸徳」の名前が見える。我は萬朝に入らんの望あり。久津見、幸徳の二人に相談中なり」と記している。


堺は久津見の家で、当時は『萬朝報』に籍を置いていた批評家・小説家斎藤緑雨(本名・賢)にも会っている。堺はその日の日記に「緑雨は病に衰へながら皮肉の言を吐くに苦心せり」と書いている。


福沢諭吉の女性論に共感

1899年4月9日の日記にも「時事新報の女子論を読む、至極よしと思ふ、予も今後此事につき研究し実行せんと欲す」と記している。


福沢諭吉は『時事新報』紙上に「女大学評論」と「新女大学」を順次掲載し、それをまとめた『女大学評論 新女大学』(1899年10月)を刊行している。福沢にとっては数十年前に考えていた内容だが、明治初期には誰も耳を傾けない状況だったので、時機が到来するのを待っていたという。その『女大学評論新女大学』を執筆している最中に福沢は脳溢血で倒れ、残りの部分は、病床での談話を筆記してもらって本にした。その後、脳溢血が再発して、福沢は1901年に逝去する。

同書は、結婚した男性が妾をもつことへの非難、女性が離婚でいかに不利な立場に置かれているかなど、(堺の)『家庭の新風味』の内容と重なる部分が多い。堺は『時事新報』に掲載されていたときから福沢の女性論に共感し、『家庭の新風味』のなかに生かしたと思われる。

1899年6月末、『防長回天史』編集事業終了。以後、数年間にわたって全12巻の書物として発行。


6月26日、毛利家当主から午餐会に招かれ、山路愛山、笹川臨風、斎藤清太郎らと共に、堺も小切手で1,000円を受け取っている。堺の日記には、その1,000円の使い道の内訳が細かく記されている。100円を借金返済に、100円を質からの受け出しに、親戚や病人のお見舞いなどで約100円を、妻美知子に衣服代として100円を渡した。堺は自分のために初めて懐中時計を買い、交際費にもいくらか使った。その他、友人や知人に頼まれて370円を貸すと、手元に残ったのは100数10円だけだったという。


『堺利彦伝』は、この朝報社への入社が決まった時点で終わっている。

『萬朝報』時代は、堺の言葉を借りれば、「士族出身の、半独学の、中流知識階級者としての君が、個人的の立身出世思想から中流階級本位の社会改良主義に移り、更にそれから一転して社会主義者になるまでの、四年間の過渡期」となるのだった。


つづく



古い自民党のボスが決める → 岸田首相「どんな状況でも高市以外に入れろ!」旧岸田派100人に通達… 石破氏勝利に繋がった模様(ShareNews) / 石破茂氏、議員票呼び込み逆転 3人の「首相」の暗躍(日経);「党内で議員人気は低いとされてきた石破氏。1回目の投票で得た議員票は46票にすぎません。決選投票で議員票を積み上げた背景にキーパーソンとなった3人の「首相」の暗闘がありました。」 / 「あれで石破さんに決めた議員は多いと思う」 決選投票前、最後の訴えで石破茂氏が語った「お詫び」 自民総裁選(東京) / 三原じゅん子氏「石破新総裁をしっかり支えたい」決選投票では石破茂氏に投票と明かす(日刊スポーツ)   



 

論点ずらしに〝炎上〟も 急失速の小泉氏 自民党総裁選(西日本);「自民党総裁選で、世論で高い人気を誇る小泉進次郎元環境相は、父純一郎氏が巻き起こした「旋風」の再現を狙ったが、結果は3位。要職の経験不足に加え、討論会での論戦の拙さが露呈し、急激に失速した。」   

危険なネット工作! → 「チーム石丸」が今度は再選挙に賭ける元兵庫県知事斎藤元彦に移ったようだとのこと / 躍進の高市氏、地方回りとネット戦術奏功 石丸氏支援者がSNS拡散(朝日);「陣営関係者は、7月の東京都知事選で165万票以上を獲得し、2位に食い込んだ石丸伸二・前広島県安芸高田市長を支援した民間スタッフ約50人が、SNS上での拡散に寄与したと明かす。 この関係者は「石丸氏同様、ネットのどぶ板とリアルのどぶ板による相乗効果だ」と話した。」 ← ネットの力というよりもお金の力で世論誘導。国民投票になったとしたら怖ろしいことが起こるかも。

 



 

「ひどい態度」「大人げない」麻生太郎 “犬猿の仲”石破茂の“勝利宣言”後の「あからさまな対応」に批判続出(女性自身)

 


 

メリル・ストリープさん「アフガンでは少女よりもリスの方が権利ある」(AFPBB)

2024年9月27日金曜日

ふ~ん → 総裁選最下位の加藤勝信氏、議員票16票で推薦人数に届かず 5人が引きはがしか(産経) / 加藤勝信氏の議員票20人下回る、推薦人より少なく 自民党総裁選(日経) / カツカレーの食い逃げとか、、、なんなん?

 

安田菜津紀さん、ロバート キャンベルさんが読み解く『虎に翼』(NHK) / 「虎に翼」最後はまた「女性の問題」に戻る理由 脚本家・吉田恵里香さんが込めた思い(AERA) / だから朝ドラ「虎に翼」は名作に…女性差別に切り込んだ脚本家が「寅子には謝ってほしくない」と死守した一線  「納得できない花束は渡さない!」というセリフに込めたもの(プレジデント) / 「虎に翼」で戦争を考えた人へ 空襲に左足奪われた私が伝えたいこと(朝日 有料記事) / 『虎に翼』が切り拓いた法律ドラマの新境地──社会と法の進化を描く(松谷創一郎) / 「虎に翼」少年&バッドエンド想定→寄り添う物語に変更 片岡凜“怪演”も影響 脚本家語る美佐江&美雪(スポニチ) / 「虎に翼」脚本家 吉田恵里香インタビュー(後編)「難しい問題でも、今回の座組ならやれると確信して書けました」(ステラ)         



 

大杉栄とその時代年表(266) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉 母の死 父を連れて上京(二度目の東京生活)『実業新聞』入社 『実業新聞』廃刊 父の死 生活態度を改める 堀美知子と結婚 『福岡日日新聞』入社   

 

大杉栄とその時代年表(265) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉 浪華文学会設立され、堺利彦はこれに加わる 小学校教師を辞め『大阪毎日新聞』(2ヶ月) 『新浪華』入社 より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉

1893(明治26)年4月、紅葉らを迎えて巌谷小波が関西文学会を開催

4月12日、尾崎紅葉(硯友社のリーダー、『読売』文芸部主任)は硯友社の江見水蔭(本名・忠功)、中村花痩(本名・壮)、渡部乙羽(本名・又太郎)と共に、『京都日出新聞』の巌谷小波に会う目的で関西旅行をした。その機会に巌谷小波が開催した関西文学会には、関西在住の若手文士やジャーナリスト、東京から来た紅葉ら4人も出席した。

1894年7月、日清戦争が始まると、堺は『新浪華』に連載していた「生ぬるい小説」を中止して、代わりに戦争美談を載せるほど、当時の風潮に染まっていた。

1894年末、6年ぶりに上京、元旦から兄とともに房州多々良に滞在

兄乙槌は『大阪朝日』に借金がかさみ退社。結果、家庭不和となり、妻子は豊津に引き揚げ、乙槌は身一つで東京へ流れていく。その乙槌からの手紙を読み、堺は東京への憧れを募らせる。折よく機会があり、1894年暮、堺は6年ぶりに東京を訪れた。かつての知り合いたちと再会し、羽目を外して連日ドンチャン騒ぎをくり返す。ところが、借りていた下宿が火事で焼けてしまったため、堺は乙槌と一緒に大晦日の夜に船に乗り、1895年元旦から房州の多々良(現・千葉県南房総市富浦町多田良)に滞在する。

東京に戻ると、母コト危篤の電報が届いており、急いで大阪に戻る。大阪に戻ると幸いにも母はまだ生きていた。暫くして兄も戻ってきて、兄弟2人で母を看病する。

1895年2月23日、「二夫婦」(兄弟合作、『大阪朝日』連載)

筆名は「某氏」で、いかにも急ごしらえの感じがする。この「二夫婦」が、堺と乙槌の兄弟合作の小説である可能性が高い。堺によればこれも西洋小説の翻案で、その原稿料で母の医療費を支払うことができた。

1895年2月24日、母コト没

兄乙槌は東京に戻って『都新聞』に入社する(『都新聞』主筆の田川大吉郎と乙槌は、長崎に遊学したときからの知り合い)。給料は30円。生活はそれまで以上に放縦になる。

7月に「女喰い』、10月に「刀痕浪人」を同紙に連載。

1895年9月、父を連れて上京、『実業新聞』入社

田川大吉郎が改進党機関紙『改進新聞』を受け継いで『実業新聞』を創刊することになり、堺は乙槌の推薦で同紙に入ることになった。1895年9月に堺は父を連れて上京する。堺にとって二度目の東京生活

「堺枯川」の名前は東京でも知られるようになっていく。

堺はこのころ博文館が創刊した『少年世界』にいくつか短篇小説を書いている。博文館は『太陽』と『文芸倶楽部』と『少年世界』の三誌を一度に創刊し、文学を志す若者たちに大きな期待を抱かせた。創刊時の『少年世界』の編集主任には、京都から呼び寄せられた巌谷小波が就任している。巌谷小波は京都にいたとき、浪華文学会に参加していたので、堺は自分の作品を『少年世界』に売りこんだのだろう。

荒畑寒村は、堺枯川という名前を記憶したのは、『少年世界』で作品を読んだのが最初だった、と述べている(『うめ草すて石』)。とくに、堺の「百物語」の数篇は強く印象に残ったという。「百物語」は、古ぼけた山高帽や折れ釘が、役立たずの状態で放置された自分の身の上を嘆くという話だが、荒畑寒村がそこに、すでに堺の「社会主義的人生観」の片鱗を感じ取ったというのは興味深い。もちろん、当時の堺には、自分が社会主義者だという意識はまったくなかった。

堺の給料は25円(当時の新聞記者としてはまずまずの金額)。編集局には年配の三品蘭渓(本名・長三郎、戯作者)や、まだ若い岡本綺堂(本名・敬二)がいた。

堺は『実業新聞』で小説や雑報を書きながら新聞の編集もした。小説「いろは」を連載。挿画は当時は無名の日本画家の寺崎広業で、この小説はとくに評判にはならなかった。

その後、堺は一面の「時論一斑」欄を担当する。これは各新聞の論説の大意を3~5行に要約して掲載するもので、横浜の英字新聞も含まれていた。

1896(明治29)年2月、『実業新聞』廃刊と父の死

1896(明治29)年2月、『実業新聞』は廃刊する。さらに月末には父得司が突然昏倒して、意識を取り戻さないまま、翌日息を引きとった。失業したために無一文に近い状態だった彼は、書きかけだった原稿を堀紫山の世話で『読売新聞』に買い取ってもらい、ようやく父の葬式を出すことができた。その原稿は、両親に愛されて育ったなつかしい豊津のことを書いた「望郷台」だった。

当嘩堺はかつての浪華文学会のメンバーで、その後上京した加藤眠柳、上司小剣、堀紫山らと「落葉社」という俳句の親睦団体をつくって句会を催していたが、落葉社の人々も葬儀の費用を分担してくれた。初七日の晩には霊前で書画の合作をし、それぞれが思い思いに詩歌や俳句を書きつけたが、堺が大書きしたのは「不孝児」という三文字である。

母を失った翌年に父も亡くし、さすがに心の底から悔悟と慙愧の念が起こった。ずいぶん回り道をしたが、以後、堺は別人のような人生を送ることになる

1896(明治29)年4月6日、堀美知子と結婚

堺は堀紫山の妹美知子(23)と婚礼を挙げた。「私は、忽然として、生れかはつた様な幸福の人となつた」。しかし、すぐに生活費に困窮し、仕事を探す必要を感じ始める。


1896年5月、『福岡日日新聞』記者となる

豊津時代、堺が崇拝していた征矢野半弥(衆議院議員、『福岡日日新聞』社長)の誘いを受ける。

二人は、橋口町(現・福岡市中央区天神)の橋のたもとにある福岡日日新聞社の社屋の近くの借家に住む。堺はすぐに編集部になじみ、主に小説を執筆し、随筆や雑報記事も書いている。


「何しろ東京新下りの文学者と云ふわけで、『枯川』の名が多少の評判になつてゐた。東京を立つ時、尾崎紅葉君が『これなどはチヨット面白い』と云つて餞別に呉れた英文の小説も、翻案の役に立つた。その頃、私の崇敬してゐた小説家は、新しい紅葉、露伴、一葉の三人であった。(中略)私は耻(はず)かしながら、いつか必ず小説家として売りださうといふ『大望』を持つてゐた。」

『福岡日日』にでは5月に短篇を書き、5月末から翌年春までほぼ連続して「女独身宗」「朝顔籬」「狂胡蝶」「怪談警固村」「短篇十種」「人不知」などの小説を連載している。「朝顔籬」は短編の連作で、1896年7月14日から8月14日まで10篇が20回掲載された。

連作最後の「女の忍耐」の第1回の末尾には「是は伊太利国の昔話、ボツカシオの『デカメロン』とて名高き物の一節なり。一字々々を追ひたる正しき訳にはあらず、筋を摘みて書きつけたるのみ」と書かれている。

これは、『デカメロン』の第十話とストーリーが同じで、登場人物の名前も原作通りだった。堺の「女の忍耐」の1年前の一1895年7月には、紅葉も同じく『デカメロン』を翻案して、「冷熱」「鷹料理」「三箇条」という3つの小篇を書いている。このことから、紅葉が堺に餞別として渡した英文小説の本は、『デカメロン』の英訳版だったと考えてほぼ間違いないだろう。紅葉がその本を贈ったのは、堺に翻案を勧めるためにはかならず、地方では洋書が入手しにくい、という事情も汲んだ上での厚意だったのではないか。

過去の放縦な生活の反動で、堺は克己節制に努めるようになる。禁酒をし、冷水浴を始め、『論語』や『孟子』を愛読する。内村鑑三の著書を初めて読み、強く心を惹かれるようになった。博多には中洲や柳町など風流の地が多かったが、堺はもはや以前のように遊ぶことはなかった。


つづく