2011年10月20日木曜日

延暦8年(789)6月~7月 延暦8年の征夷戦 桓武天皇に事後報告となった征夷軍解散

江戸城東御苑(2011-10-18)
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延暦8年(789)
6月2日
・征東将軍紀古佐美、征夷軍解散を決定し全軍に通知
桓武の6月3日付け勅は10日頃に古佐美の許に届く筈であるが、それを受け取る前に、彼はすでに軍解散を決定し、全軍に通知。
理由は軍粮の補給困難。

それに対する桓武の勅が6月9日付けで出ているので、古佐美の軍の解散を申し出る奏状は、6月2日頃に出されたと推定される(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)。

紀古佐美が奏状で述べる軍を解散する正当性。
①次に攻撃すべき子波(しわ、志波、盛岡市周辺)と和我(わが、和賀、北上市周辺)の地は遠く、軍粮運搬に日数を要する。
玉造塞~衣川宮の運搬に4日、輜重が運ぶ軍粮・軍事物資の受け渡しに2日かかるので、玉造塞~衣川営の往還に10日を要す。
衣川営~子波を6日の行程とすれば、輜重兵の往還に14日(6日+2日+6日)を要する。
合計すれば、玉造塞~子波の往還に24日を要する。
その中には、途中で敵軍と戦闘する日数や、雨に妨げられ進軍できない日数は含まれていない。

②軍粮の消費量が多く、補給が追いつかない。
河陸両道(舟運と陸路)の輜重兵は1万2,440人で、それらが1回に運ぶ糒は6,215斛である。征討軍には2万7,470人がおり、彼らが1日に食する糒は549斛である(1人あたり1日2升)。このことから計算すると、輜重兵が一度に運ぶ軍粮は、僅か11日分にすぎない(6215斛/549斛=11.32日)。
子波の地を目指すには軍粮の補給が追い付かず、実戦部隊を割いて輜重兵に回せば、征討軍の兵力が減って征討ができなくなる。
更に、春夏を経て征軍・輜重兵ともに疲弊しており、無理な進軍は危険である。

③蝦夷軍の残党は潜伏しているが、既に春夏の農時を失し、水田・陸田を耕作できなかったので、彼らの戦闘能力も尽きようとしている。

以上のことから、紀古佐美は軍を解散し、軍粮を遺して非常時のために備えた方がよいと判断する。
そして、軍士は1日に2千斛を食し、奏上して勅裁を待っていてはさらに軍粮を消費するので、「今月十日までに軍を解散して戦地を離れるよう、全軍に文書で通達します」と桓武天皇に報告。

奏状末尾の「軍士の食する所、日に二千斛なり」とすれば、この時軍士が10万人いたことになる。
多少の誇張はあるが、軍士5万2,800余人は、坂東諸国に割り当てられた人数なので、陸奥・出羽の軍士数を合わせれば、総数はこれを上回る。
胆沢の征夷に参加していた軍士は、征軍2万7,470人と輜重1万2,440人の計3万9,910人であるが、他に多治比浜成が率いる軍が別の方面で活動しており、それを含めれば5万2,800人をかなり上回る軍士がいたと想定できる。  
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6月3日
・桓武天皇が現地軍の失策を責める勅を発する。(『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条)

古佐美の奏状はおそらく6月3日に朝廷に到着し、桓武天皇は即日、屈辱的敗戦を喫した現地軍の失策を責める勅を下したと見られる。
その中で天皇は、本来ならば征討軍指揮の中枢を担う軍監以上の指揮官が揃って兵を率い、威容を厳かにしながら攻め討つべきであるのに、わずかな軍勢しか動員せず、しかも身分の低い前線指揮官たちに指揮を執らせたために敗戦という結果を招いたとしてこれを責めている。

作戦を立案した副将(入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄の3人)は、衣川の軍営に留まり、征東軍監・軍曹さえも実戦に参加していない。それより下位の別将たちがそれぞれの小部隊を率いて戦場に向かった。
これでは全くの寄せ集め軍隊であり、奇襲攻撃に遭って総崩れになるのもやむを得ない。
軍監以上の高級指揮官が実戦部隊を統括して、威厳のある軍隊とすべきであったと指摘し、それを怠った副将らを厳しく非難。

実際に戦場に向かったのは中軍・後軍から選ばれた4千人で、これに川を渡れなかった前軍の実戦部隊を加えても推定6人である。桓武天皇が長期間をかけて準備させた5万2,800人以上という軍士総数と比べれば、その1割以下にすぎない。
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6月9日
・軍の解散を全軍に通知するとの紀古佐美の奏状が桓武に届く。
奏状を読んだ桓武は激怒し、勅を下して征夷軍指揮官たちの無能をさらに厳しく叱責。(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)    

古佐美が6月10日までの解散を全軍に通知することを、6月9日着で天皇に予告したことは、その事後承諾を求めたに等しい。
桓武は激怒し、直ちに「軍を解くならば、まず事情を詳しく記して奏上し、許可を得てから解散しても遅くはない。それなのに一向に進軍せず、にわかに征討を止めるという。将軍たちの策のどこに道理があるというのか」と非難する勅を発したが、これが古佐美の許に届いたのは、6月16日頃のことで、全軍に解散を指示した後。今回の征夷は、この時点で事実上終了した。

桓武は、この決定を下した紀古佐美と、衣川にいながら実戦に参加しなかった入間広成・安倍猿嶋墨縄らを、同日の勅で激しく非難。
「将軍たちは凶悪な賊を恐れて避け、逗留していたことが、これではっきりとわかった。
それなのに、巧みに体裁のよい言葉を連ね、罪過を回避しようとしている。
不忠の甚だしいことこの上ない。
また広成・墨縄は、久しく賊地にあって戦場を経験しているので、副将の任を与え、奮戦して功績を挙げるのを待っていた。
しかし軍営の中にいて勝敗を静観し、地位の低い指揮官を派遣して、かえって大敗を喫した。
君主に仕える道が、どうしてそのようであってよいものか」。
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6月10日
・10日頃、桓武の3日付け勅が古佐美の許に届く。
古佐美は既に2日頃、征夷中止を決意し、軍を解き都へ帰還したい旨の奏状を朝廷に送っている。
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6月16日
・16日頃、9日付けの桓武の激怒した勅が古佐美の許く。
その後20日間以上、現地軍と中央との間の交信記録は全く見えない。

7月10日の古佐美の奏状を受けて、7月17日、桓武は再度激怒・叱責の勅を送るが、17日付け勅を見ると、6月9日付け桓武天皇の叱責の勅を受けて、巣伏の戦いに続き、船団による戦闘が行われていたことがわかる。

また、戦闘を指揮したのは征夷副使の中で唯一喚問も受けず、翌年には陸奥按察使兼陸奥守に進んだ多治比浜成であろうと推測できる。

巣伏では敗戦を喫したとはいえ、征東軍にはまだ巨大な兵力が温存されている。
天皇の厳しい譴責を受けた古佐美は、当初予定の子波・和我方面への遠征は中止せざるを得なかったものの、多大な期待をかけている天皇に対してせめてもの面目を示すため、衣川営に滞在する前線指揮官たちに再度進軍を命じたのであろう。

浜成による軍事行動が仮に北上川を遡上しての水軍戦であれば、主戦場は主力軍と同様に胆沢となり、交戦区域は区別しがたく一体化してしまい、戦後、彼だけが栄進するほどの特別な戦功を挙げ得たというのは不自然になる。
浜成が船団を率いて進軍したのは、『続日本紀』にもある通り海辺の地域であっただろう。

13年前の宝亀7年(776)、安房・上総・下総・常陸4ヶ国に命じられて船50隻が購入され、陸奥国に配備されている。
おそらく副使多治比浜成率いる海道方面の軍勢は3月に多賀城を発ち、国府の外港である塩釜湾の港津から多数の軍船に乗り込み出帆したのであろう。
船団は牡鹿・桃生郡の沿岸部を北上、各地で武威を示しつつ、実戦よりは示威と懐柔の方法で征夷を行ったのであろう。
征夷は、気仙沼湾や広田湾など後の気仙郡の辺りにまで及んでいた可能性がある。  
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7月17日
・この日、さらに桓武を怒らせる10日付発信の奏状が持節征東大将軍紀古佐美から届く。
(胆沢を討ち荒墟となしたこと、軍船による征夷が成功したことを報告)

「いわゆる胆沢は、水田と陸田が広大で、蝦夷はそれによって生活しています。
大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました。
たとえ残党がいたとしても、はかないことは朝露のようなものです。
それだけではなく、軍船が纜(ともづな)を解き、多くの船が前後に連なって進み、天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです。
慶快にたえません。緊急の駅使を派遣して上奏いたします。」(『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条)。

原文は「所謂胆沢は、水陸万頃にして、蝦虜生を存す」。
「水陸万頃」は、6月9日勅が引用する征東将軍奏状の「水陸の田」(水田と陸田)が広大に広がっていること。
胆沢の蝦夷は、多くが農耕を営んでいる。6月10日、征東将軍が軍を解散したのも、彼らが農繁期に耕作ができなかったので、放置しても餓死するであろうという希望的観測があったからである。

原文は「至如(しかのみならず)、軍船纜を解きて舳艫(じくろ)百里、天兵の加ふる所、前に強敵無く、海浦の窟宅、復人烟に非ず、山谷の巣穴、ただ鬼火のみを見る」。
「水陸万頃」と言われる胆沢での戦いではなく、胆沢の戦いに登場しない征東副将軍多治比浜成の三陸海岸沿いの軍事行動に関する文であることが、桓武天皇の勅の後半部分によって判明する。

・桓武は、17日付けで勅を発し、この奏状を逐一引用して厳しく非難。
(桓武は官軍側の莫大な被害を指摘、古佐美が多勢の戦死者を出したことを棚に上げ、虚飾の疑いのつよい戦果報告をしていると、これを厳しく非難)

「今、先後の奏状を見ると、斬獲した賊の首は八九級で、官軍の死亡は一〇〇〇人余りである。負傷者はほとんど二〇〇〇人である。
賊の首を斬ることは一〇〇に満たず、官軍の被害者は三〇〇〇人に及んでいる。このことから言えば、どうして慶快するに足りるであろうか。
また官軍が退却する時に、賊軍に追撃されたことが一度ならずあった。それなのに、「大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました」と述べている。事情を勘案すれば、これは虚飾と言ってよい。
また、池田真枚・安倍猿嶋墨縄らは、地位の低い指揮官を河(北上川)の東に遣わし、軍が敗れて逃げ帰る時に、溶死した軍士は一〇〇〇人余りであった。
ところが「一度に越え渡り、戦いながら村々を焼き払い、賊の巣穴を奪い取り、帰って本営を守りました」という。これでは溺死した軍士のことは切り捨てて言及していないではないか。」

「また、多治比浜成らが賊を討ち払い、その地を奪い取ったことは、いくらか他方面よりは勝っている。
しかし「天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです」と述べるに至っては、事実とかけ離れた浮わついた言葉である。」

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征夷軍が89級の蝦夷の首を斬ったことは、6月3日付け勅に引用されている征東将軍奏状にはなかった。
また、征夷軍の負傷者が2千人に近いとされているが、これも6月3日の勅が引用する征東将軍奏状では245人で、大幅に増えている。

6月10日に軍を解散しているので、再度胆沢で征討が行われたとは考えられないが、どこかで戦闘があった可能性がある。
入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄らによる胆沢の征討とは別に、征東副将軍多治比浜成が船団を率いて三陸海岸沿いを征討したと想定し、それが気仙郡の成立に繋がるという推測が成り立つ。

蝦夷の斬首、征夷軍の負傷者の多くは、多治比浜成による征討で発生したのであろう。
浜成には、宝亀9年(778)に送唐客使判官として唐に渡った経験があるので、海路を行く征討には適任であった。

9月19日の征東将軍らの敗戦に関する勘問には、浜成は召喚されていない。
また、翌年3月には陸奥按察使兼陸奥守の要職に就き、翌々年には征東副使となっている。
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東京 北の丸公園 フユザクラ(冬桜)が咲いた サザンカ(山茶花)も咲いた

北の丸公園のフユザクラが咲き始めた。
昨日、今日と、日中でも20℃そこそこ、加えて、薄日がさす程度なので、寒いくらい。

▼フユザクラ
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▼サザンカ
サザンカにもいろいろあるようだ。
江戸城のサザンカはもっと陽気だけどね(コチラ)

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2011年10月19日水曜日

延暦8年(789)1月~5月 延暦8年の征夷戦  征東軍、阿弖流為の蝦夷軍に惨敗を喫す

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延暦8年(789)
この年
・この頃、都城の内外に住む農民のなかに、賤(奴婢・家人)の名にかくれて課役を逃れようとするものがあった。古代の身分制を破って、良と賤の間に事実上の通婚が行われていた。
この年、桓武の政府は、良民人口を増やすためその間に生まれた子供全てを良民として戸籍に登録。
また、諸司に隷属する品部(ともべ=何らかの手工業を世襲している大化前代の部の残存形態)のなかにも逃亡する者が増え政府をてこずらせる。
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2月
・長岡宮の内裏が、「西宮」から「東宮」(第2次内裏)に移転。
この場所は大極殿・朝堂院より数m低い位置にあり、雨水が直接流れ込んでいた可能性も指摘されている。
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3月9日
・征夷軍、多賀城を発し、道を分け賊地めざして進軍。
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3月10日
・桓武天皇、奉幣使を伊勢神宮に派遣して、征夷の成功を祈願。
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3月28日
・北上川東岸に集結した阿弖流為(アテルイ)らを攻撃するための軍勢は衣川(北上川の支流、平泉丘陵の北を東に流れる川)を渡河し、同川北岸に営三処(衣川営)を置く。
紀古佐美は、朝廷に4月6日付けの奏状でこれを報告(『続日本紀』延暦八年五月癸丑(十二日))。

なぜ衣川に軍営を置いたか
4月6日付け奏状の続きとみられる一文が、桓武天皇の6月3日付けの勅に引用されている。
それによれば、「胆沢の賊は、すべて河(北上川)の東に集結しています。まずこの地を征して、後に深く攻め入ろうと考えております」という。
つまり蝦夷軍の主力が北上川(当時は日高見川と呼んだ)の東に結集しているため、北上川の西にあたる衣川に軍営を置き、北上川を渡って蝦夷を攻撃する作戦である。
征夷軍は前軍・中軍・後軍の3軍に分かれ、3ヶ所に置かれた軍営は、三軍に対応するものと考えられる。

征東副使佐伯葛城は、進軍開始ののち突然没す。
路線対立による政争の犠牲かもしれない。
葛城は副使4人の中でも軍兵を指揮・統率する能力を特に強く期待されていたと思われ、大使紀古佐美の作戦にも大きな影響を与えたと思われる。
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5月12日
・4月6日付け奏状を見た桓武天皇は、直ちに作戦が実施されるものと期待したが、一向に報告が来ないので、この日、征東将軍に勅を発す。
「それ以来、三〇日余りも経っているのに、なぜ逗留して進軍しないのか、その道理がわからない。
そもそも兵というものは、拙速を貴ぶものであり、巧遅が良いとは聞いたことがない。
また六・七月は、非常に暑くなるであろう。
今蝦夷の地に入らなければ、おそらくは時機を失うであろう。
一旦、時機を失えば、後悔しても及ぶことがあるだろうか。
将軍らは機に応じて進退し、非難されることがないようにせよ。
ただ久しく一カ所に留まって日数を重ね、軍粮を費やしている。
朕が怪しむところは、この点のみである。
滞っている理由と賊軍の様子を詳しく記し、駅使に付けて奏上せよ。」
と要求(『続日本紀』延暦八年五月癸丑条)。
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5月15日
・この日付け官符では、未進があれば、懲罰として専当国司と在国の国司との全ての公廨(くがい、公廨稲と呼ばれる本稲を出挙して得られた利稲を国衙財政の補填に充て、残りを国司の地位に応じて配分するもの。国司の得分、一種の給与)を奪うこととされる(『延暦交替式』)。
しかし、これは処罰としては厳しすぎ、処罰と補填の混同という問題が残る。

さらに、延暦14年(795)7月27日の官符では、未進の場合の補填問題に関しては、国司の史生(ししよう)以上が、公廨の配分比率をそのまま補填義務の比率として填納することとする(『延暦交替式』)。
史生は国司四等官の下にいるが、四等官と同様に中央から赴任し、公廨の分配にも与かるので、奈良時代から国司並みに扱われている。
この命令は、国司全員に補填の責任を負わせ、守(かみ)以下がランクに応じて公廨の取り分を割いて未進分に充てよ、とするもの。
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5月26日
・桓武天皇、詔を発し、死亡した征東副将軍佐伯葛城に正五位下を贈る。
12日に発した桓武の叱責の勅は19日頃には古佐美の許に届いたとみられ、これに対して古佐美が書いた釈明文に征乗副将軍佐伯葛城の死に関する報告を含まれていたようだ。
この頃、陸奥国と長岡京との駅使による通信には7日程度を要している。
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5月下旬~末頃
巣伏の戦いで征東軍が大敗。
・19日頃、軍の長期滞留を叱責する勅が紀古佐美の許に届く。
厳しく責められた古佐美は、衣川営で逗留していた軍に進軍命令を出す。

以下、古佐美の奏状による経緯。
征東副使入間広成、左中軍別将池田真枚、前軍別将安倍猿嶋墨縄の3名が協議し、作戦を策定、前・中・後3軍連携して挟撃作戦で阿弖流為らを胆沢の地に攻めことにする。

征東将軍紀古佐美は衣川におらず、副将軍の入間広成と鎮守副将軍の池田真枚・安倍猿嶋墨縄が中心になって実戦を立案。
古佐美は国府多賀城か、衣川への補給基地である玉造塞にいた。
古佐美の秦状は、おそらく征東副将軍入間広成からの報告を受けて作成されたものである。
しかし作戦を立案した3人も、実戦には参加せず、後に桓武天皇の怒りをかう。
鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄は、奏状では左中軍別将・前軍別将と呼ばれている。  
  
合戦は、5月下旬~末頃。

①中軍・後軍各2千からなる計4千が、衣川営を出て北上川本流を東に渡河し、東岸を北に進軍、阿弖流為らの集結する敵軍の拠点に向かった。

②阿弖流為の居地近くで蝦夷軍300程と合戦。
蝦夷軍は北へ退却(誘導作戦か)、官軍は途上で蝦夷の村々を焼き払いながら北上し、前軍と合流する予定の巣伏村をめざした。

③北上川西岸を北に進軍する前軍(兵数不詳、中・後軍同様2千人か)は、前方に出現した強大な蝦夷軍に阻まれ、北上川を東に渡河し中・後軍と合流することができずにいた。

④ここで、突然中・後軍の前方に蝦夷軍800程が出現し官軍を襲い、さらに東の山上に潜んでいた蝦夷軍400程が横・後方から急襲、官軍は退路を断たれた。

⑤中・後軍は川と山に挟まれた狭い場所に追い詰められて総崩れを起こし、官軍側は戦闘死(25)・溺死(1,036)合わせて1,061、裸で泳いで来たもの1,257という悲惨な敗戦を喫した。
焼いた賊の集落は14ヶ村・800戸。
なお戦地を脱した敗残兵は、別将出雲諸上・道嶋御楯らに率いられて帰還した。

胆沢の蝦夷の族長として有名な阿弖流為が史上に登場するのは、これが初めて。
彼は北上川を渡った中軍と後軍を巧みに巣伏村(岩手県奥州市江刺区愛宕の四丑が推定地)までおびき寄せ、北上川東岸の狭隘な地形を利用して、南北に挟み撃ちにした。
東は山、西は大河である。征夷軍は行き場を失い、次々と北上川に飛び込んで退却せざるを得なかった。
その結果、戦死者25人、負傷者245人、溺死者1,036人という敗戦となる。
中軍・後軍合わせて4千人の征夷軍に比べて、蝦夷軍は1,500人。惨敗である。

胆沢の蝦夷の本拠地が北上川東岸にあると見せかけ、戦場を東岸に設定したのも、阿弖流為ら蝦夷側の陽動作戦であったと考えられる。

衣川~江刺の北上盆地は、北上川が盆地の東端を流れ、東岸には北上山地が、西岸には広大な胆沢扇状地が広がっている。
西岸の胆沢扇状地には蝦夷の集落が大・小の遺跡として分布しており、一般集落と農業生産地帯であったとみられるが、北上山地には集落遺跡は発見されていない。
もし胆沢扇状地が戦場となれば、兵力が多く集団戦に長けた征夷軍に勝てる見込みはなく、仮に互角に戦えても、多くの集落と耕地を失う。

そこで蝦夷側は、軍勢を北上川東岸に移し、そこに征夷軍をおびき寄せ、地形を利用したゲリラ戦術で対抗した。
この作戦は、蝦夷軍の主力が北上川の東にあるように見せかけるという情報操作から始まっており、見事な陽動作戦と言える。

紀古佐美は、阿弖流為らの猛攻の前に敗戦を喫したいわゆる巣伏村の合戦について朝廷に報じた奏状を送る(6月3日の7日前くらい)
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2011年10月18日火曜日

児玉龍彦東大教授の日本記者クラブでの講演 「朝日」のセシウム牛社説に怒る

児玉龍彦東京大学アイソトープ総合センター長の日本記者クラブでの講演(記者会見)の模様がYouTubeにアップされている。

以下、雑駁だが気になったポイント。

①何故、子供を優先的に被曝から守らなければならないか、を染色体のメカニズムで分かりやすく説明されている。

②1ミリシーベルト以上は絶対に除染すべし
(基準を変えてはいけない)

③南相馬の汚染物質の貯蔵だけで、六ヶ所村貯蔵施設5個分が必要
それを、200年~300年貯蔵する必要がある

汚染物質は当該地保管

④除染の方法は安全委員会が決めて、手配は「機構」が行うことへの疑問
(この箇所はもっと明確に主張して欲しかった。「焼け太り」という言葉がチラと聞こえた。)

⑤マスコミの報道に対して怒り炸裂
7月12日、ある新聞(「朝日」らしい)がセシウム牛を出した農家に対して、「農家のウソ」というような表現の社説を掲載したらしい。

震災、津波、放射能という災害環境の中で、農家はそれでも飼料は輸入のもの、水は地下水、を使用するというように努力してきている。
それに対して、「ウソ」とは何ですか!と怒る。
もっと現場をよく見てください、と怒る。

今のところ、「朝日」はこの怒りに対しては、何の反応もしてないようだ。
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東京 江戸城東御苑 もうサザンカ(山茶花)が咲き始めた チャノキ 鈴なりのカリン ジュウガツザクラ

今日(10月18日)の江戸城東御苑
気温は20℃を少し超えた程度でしょうか、過ごし易い
少しづつ本格的な秋の景色に変わりつつある

▼もうサザンカ(山茶花)が咲き始め
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▼チャノキ(茶ノ木)
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▼カリン
本丸休憩所の横にあるカリンが鈴なり
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▼ジュウガツザクラ(十月桜)の花が増えた
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2011年10月17日月曜日

「鳳仙花の種子爆ぜつづくフクシマのみ寺に僧の在さぬ彼岸会」(下野市 若島安子) 「朝日歌壇」10月17日より

「朝日歌壇」10月17日より


戻れない家と識りつつ部屋々々にゴキブリホイホイ据えて町去る  (いわき市)多田 千恵

鳳仙花の種子爆ぜつづくフクシマのみ寺に僧の在さぬ彼岸会    (下野市)若島 安子

原燃は「尾駮(おぶち)の駒」が駈けた牧戻って欲しい昔のように   (三沢市)遠藤 知夫

**「尾駮の駒」:六ヶ所村原燃のある辺りは、平安時代は「尾駮の駒」と呼ばれる名馬の産地であった。

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2011年10月16日日曜日

鎌倉 常楽寺 木曽義高の墓

昨日(10月15日)、JR大船駅からJR北鎌倉駅まで、途中、常楽寺、高野切通しなどを経由して歩くという企画を昔からの仲間と実行。
ところが、週間予報ベースでも前日の予報でも、当日は雨。
なんとかなるサ、で集合したところ、午後から青空が出てきた。
メンバ3人で午後1時出発。

▼常楽寺
常楽寺は二度目(最初はコチラ)
山門も本堂も、この鄙びた感じがとても心地よい。
裏山にある木曽義高(義仲の子)の墓もひっそりとあった。





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次の予定は、高野の切通しなどだが、これがまた場所がよくわからない。
岩瀬中学校というのがあって、ここは地図の上では、取り敢えずの目標とした大船高校のすぐ隣にあるのだが、道は繋がってはいないという。
(途中で道を教えてくれたオジイサンの話によると)
しかたがないのでやむを得ず、来た道を戻り、坂道を上っていよいよ取り敢えずの目標とした大船高校近くまで来たんだけど、ここで雨の気配。
この時点で午後3時。
4時半からはメンバを1人加えての会食を予定していたこともあり、「泣く泣く」ここで引き返すことにした。
大船駅前でコーヒー飲んで、4時頃そのコーヒー店を出たら、けっこうな雨降りであった。

夜は4人で会食。
お酒の全くダメな人が1人いるので、3人で焼酎ボトル2本空けて、9時過ぎに散会。
ややシマリのないお散歩であったが、1万8千歩いたそうだ。

▼鎌倉でたった一つ残ったポスト
大船の街を歩いていて見つけたポスト。
まだ現役なんだろうか?とお仲間うちで話をしてたら、脇にある八百屋さんのオバサンが、お店の奥から、鎌倉で一つだけ残ったポストで1日3回の回収のある現役ポストである、と教えてくれた。
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今日の富士山 2011-10-16

いよいよ富士山のよく見える季節になってきた。
横浜市戸塚区からの富士山。

▼昼前11時頃
今日は、この時点で気温は27~28℃
その分、やや不鮮明
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▼夕方5時頃、日没時の富士山

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「強者の論理を疑い、矛盾を突く洞察力が求められている。熱狂的に等質化しやすい群集心理を克服し、弱い者の利害をまず考えたい。」(内橋克人)

「朝日新聞」で「ポスト3.11のわたしたち」という連載があり、その10月15日分で経済評論家の内橋克人さんが、「「浪費なき成長」へ転換を」という意見を掲載している。
すごく考えさせられる内容なので、例によって無断であるが、全文を掲載させて戴く。
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************************(段落を施す)
ポスト3.11のわたしたち
「浪費なき成長」へ転換を
経済評論家内橋克人さん

震災は、日本がどんな社会であったかを一瞬にしてさらけ出しました。
民主的な先進社会と思い込んでいたのが、実際は強い者が描く価値観一色に染まりやすい遅れた国だったのではないですか。

例えば「オール電化」。
前提には原発が作る余剰電力があり、余った電力を消費させたい作る側の発想に、やすやすと乗せられた。
カを持つ者の論理に隷従し、自らは判断しない風潮は戦前と同じです。

巨大災害のショックで正常な判断力を失ったまま、人々が強いリーダーを渇望するのも危険です。
公的支援が必要な時に政府機能が働かない現状には失望しますが、いるはずもない”だれか”の登場を望む心の隙は21世紀型ファシズムの温床になる。

これまでは膨張する供給力に見合う需要を作り出そうと、絶えず消費を促す過剰消費社会でした。
そのエネルギーを供給したのが、「トイレなきマンション」にたとえられる原発です。
豊かに見えた日常も、無理な虚構の上に成り立っていました。

東北3県の失業者7万人(厚生労働省9月発表)という現実を、ひとごとと思うのは大錯覚です。
虚構の破綻という衝撃の大きさを、正確に受け止めた人がどれだけいるのか。

日本社会は存亡の危機に直面しています。
こまごました日常の改善だけで社会の立て直しは可能ですか。
今こそ「浪費なき成長」への大転換が必要です。

一人びとりが、自分で考える自覚的な市民に変わらなければならない。
強者の論理を疑い、矛盾を突く洞察力が求められている。
熱狂的に等質化しやすい群集心理を克服し、弱い者の利害をまず考えたい。

人間は生き、働き、暮らす存在です。
一体だった三つを、市場原理主義はバラバラに分断した。

モノが安いのは結構だが、なぜ安いのか厳しく問う消費者が社会を変えていくでしょう。

震災以降、人々は「生存の安全保障」がたやすく脅かされると実感した。
食や農業、エネルギー、介護の自給という問題提起に鋭い反応を示すようになりまた。
見通しは厳しいですが、私はここに社会転換への希望を見ています。
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増税
年金改悪
原発再開
TPP

今一番大事なことは、これらの一つ一つに対して「ちょっと待てよ」と考えること。
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延暦7年(788) 延暦8年の征夷(桓武の第一次征夷)軍首脳部任命 「坂東の安危、この一挙に在り」

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延暦7年(788)
2月
・前年の池田美枚に続き鎮守権副将軍の安倍猿嶋墨縄が鎮守副将軍に任命される。
墨縄は下総国猿嶋郡の豪族で、入間広成と同様に、宝亀11年(780)の征夷に参加し、延暦3年の征夷計画にも征東軍藍に任じられている。
鎮守副将軍は1人が通例だが、この時2人が任命され、しかも実戦の立案に深く関わっている。

安倍猿嶋墨縄の鎮守副将軍就任と同時に、多治比宇美(たじひのうみ)が鎮守将軍となる。
彼は延暦4年に陸奥按察使兼陸奥守となり、ここで鎮守将軍をも兼任し、東北の行政と軍事を一手に担うことになる。
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3月
・東海・東山・北陸諸道の軍粮と、東海・東山・坂東の軍兵5万2,800余人とを、陸奥国多賀城に集めよとの動員命令が下る。
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3月2日
翌年の征夷のため、陸奥国に命じて軍粮3万5千余斛(こく)を多賀城へ運ばせ、東海・東山・北陸道諸国には、糒(ほしいい)2万3千余斛と塩を7月までに陸奥国に運ぶことを命じる(『続日本紀』)。
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3月3日
桓武天皇は坂東諸国(原文は「東海・東山・坂東諸国」、これを「東海と東山の坂東諸国」と読む)に勅を下し、歩兵・騎兵5万2,800人余を徴発し、来年3月までに陸奥国多賀城に会集させることを命じる。

軍士徴発については、将官と同じく経験者を重視して、「それ兵を点ずるは、先づ前般軍に入りて戦を経て勲に叙せる者、および常陸国の神賤を尽くし、然して後に、余人の弓馬に堪ふる者を簡点せしむ」と指示(『続日本紀』延暦七年三月辛亥条)。
「常陸国の神賤」とは、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に隷属する「賤」とされた人々のことで、その徴発は他に例がないが、征夷軍に動員できるほどの武力と人数を有していたらしい。
鹿島神(武甕槌神(たけみかづちのかみ))は征夷の神として信仰されてきた。
鹿島神宮から兵を出すことによって鹿島神の加護を期待した。    

5万2,800余人は、東海・東山・坂東諸国に命じた兵士動員割り当て数であって、奥羽両国が徴する兵力は含まれていない。
陸奥国については、このときの征夷では玉造塞が後方兵砧として重要な機能を果たしていたことを見ても、玉造・小田団をはじめとする陸奥国六団の軍団兵士6,000人が動員されたことはほぼ疑いない。
更に、陸奥国内の地方豪族や村落の有力者なども動員されており、輜重の人数までも加えると、実際の総兵力は5万2,800余を大きく上回るものであった。

桓武天皇は、一方で、近年国司たちに「奉公」の心がなく、手抜き・怠慢が多いことを指摘し、もし今後そのようなことがあれば、養老擅興律(せんこうりつ)の「軍興に乏しきは斬」(徴発を怠った者は斬刑に処する)を適用すると述べる。
厳罰によって国司の「奉公」を引き出そうとする方針。
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3月21日
・従五位上多治比浜成(たじひのはまなり)、従五位下紀真人(きのまひと)・佐伯葛城、外従五位下入間広成の4人を征東副使に任じる(『続日本紀』)。

・多治比浜成は常陸介で、これ以後、延暦13年の征夷でも征夷副使を務めるなど、東北政策に深く関わっていく。
・紀真人はこの時42歳で、前月に相模介から相模守に昇格したばかり。人となりは温潤で文藻(詩文の才能)があったという(『日本後紀』延暦二十四年八月癸亥条)。以下の征夷に関する記事には彼の姿は名は見えず、実戦には参加せず、後方で軍用物資の輸送などにあたっていたと推定される。
・佐伯葛城は、延暦5年8月に東海道に派遣されて閲兵を行った人物で、この時、民部少輔兼下野守。
・入間広成は、武蔵国入間郡の出身で、前月、近衛将監(このえしようげん)になったばかり。宝亀11年(780)の征夷に参加し、延暦3年の征夷計画でも征東軍監に任じられている。

征東副使4人は、坂東の国司が3人、坂東の豪族が1人
(征夷の人的・物的基盤である坂東諸国との連携を円滑にしようとする方針)。
なお、軍監・軍曹の人数は不明。
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5月4日
・桓武天皇の夫人(ぶにん)、藤原百川の娘、大伴親王〈後の淳和天皇)の母、藤原旅子(30歳)、没。
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7月6日
・正四位下、参議・左大弁・春宮大夫・中衛中将の紀古佐美(きのこさみ、56歳)が征東大使に任命される(『続日本紀』)。
宝亀11年の伊治公呰麻呂の乱では征東副使を務め、延暦4年に参議に任じられている。
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9月
・長岡京の後期造営が始まる。
後期造営で初めて平城宮の建物が解体・移築されいる。
征夷の準備の目途が立ち、桓武の権威も確立しつつあるとみられる。

この月の天皇の詔からは、予定されている宮室でまだ着手できないものがかなりあり、造都事業は今後も続けねばならないこと、造都のための召役が幾年も継続し、農民の生活がずいぶん劣悪になっている、ことが見て取れる。
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12月
・征東大使紀古佐美は、内裏で桓武天皇から節刀を授与され、陸奥に向けて出発。

「征東大将軍紀朝臣古佐美辞見す。詔して、召して殿上に昇らしめ、節刀を賜ふ。因て勅書を賜ひて曰く、「夫れ日を択びて将を拝するは、良(まこと)に綸言(りんげん)に由る。轂(こく)を推し閫(こん)を分かつは、専ら将軍に任す。如聞(きくな)らく、承前別将ら、軍令を慎まず、逗闕猶多しと。その所由を尋ぬるに、方(まさ)に法を軽んずるに在り。宜しく副将軍、死罪を犯すこと有らば、身を禁じて奏上し、軍監以下は法に依りて斬決すべし。坂東の安危、この一挙に在り。将軍宜しく之を勉むべし」と。困て御被(みすま)二領、采帛(さいはく)卅疋、綿三百屯を賜ふ。」(『続日本紀』延暦七年十二月庚辰条)。

紀古佐美は内裏の殿舎に昇り、天皇から節刀を与えられ、死罪を犯した副将軍の身柄奏上と軍監以下の死刑執行を許可する勅書と、御被(天皇の衣服類)・采帛(彩色した絹)・綿を授与される。

勅書では、「聞くところによると、これまで別将らは、軍令(作戦上の指令)に従わず、軍を逗留させ、落度があることがなお多いという。その理由を尋ねてみると、まさに法を軽んじていることにある」と述べて、副将軍以下に対する刑罰権を再確認している。
「別将」は、将軍以外の副将軍・軍監以下を指す。

副将軍(副使)以下を厳しい軍紀によって律すべきことを命じていることは、現地官や坂東豪族勢力を統御するのに少なからぬ困難が伴うと予想されていたからであろう。

征夷軍がなかなか進軍せずに逗留し、軍粮を浪費することは、宝亀11年~天応元年(780~781)の征夷でも大きな問題となっていた。
それを踏まえて、桓武天皇は古佐美に対して迅速に進軍することを強く求めた。

「坂東の安危、この一挙に在り」(「坂東が安全であるか危険であるかは、すべてこの一回の軍事行動にかかっている」)は、この征夷にかける天皇の強い意思を表している。
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