2009年4月16日木曜日

鎌倉 常楽寺 北条泰時の墓 木曾義高の墓











常楽寺:
嘉禎3年(1237年)創建。鎌倉3代執権北条泰時が、夫人の母の供養の為に建立した粟船(あわふね)御堂に始まる。
その後、5代執権時頼が、蘭渓道隆を寿福寺から招いて臨済宗の寺となる。蘭渓道隆は建長寺開山前にこの寺に住み禅を広める。
「常楽」は泰時の法名が常楽観阿と号したことからきている。
また、このお寺は鎌倉にあるのですが、現在の地名で言えば大船にあります(勿論、現在の大船も鎌倉市ではありますが)。大船の地名の由来は、この「粟船」からきたということです。
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このお寺の裏山に木曾義高(木曾義仲の嫡男)のお墓があります。
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寿永2年(1183)3月、頼朝と険しく対立する義仲は、嫡子義高(11)を人質として差し出し和議が成立。義高は信濃の海野幸氏・望月重隆らを伴い、頼朝の長女大姫の婿との名目で鎌倉へ下る。
元暦元年(1184)1月、義仲が義経・範頼らに討たれ、義高は微妙な立場に立たされる。
4月21日、義高謀殺を知った大姫は、義高を密かに逃亡させる。義高と同年の海野幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って脱出。しかし、直ちに事は露見し、頼朝は幸氏を捕縛し、堀親家らに義高討取りを命じる。
4月26日、義高は捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれる。
大姫は、これを悲しみ衰弱し病床につく。頼朝は、自分が義高殺害を命じた追手の堀親家の郎党を処刑。
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「仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを囲み郭内を出しをはんぬ。
・・・而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出すと。日暮て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。
・・・晩に及び露顕す。武衛太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。」(「吾妻鏡」同21日条)。
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「堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬水を断たしめ給う。理運と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。」(「吾妻鏡」同26日条)。
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「堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」(「吾妻鏡」6月27日条)。
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常楽寺
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大姫関連遺蹟はコチラ
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
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2 件のコメント:

ayahikari さんのコメント...

初めて投稿させて貰います。
美しい桜の名所、趣のある所などいっぱいですね!
私は歴史は良く知らないのですが、このブログの読者になって、少しは学んでみようと思います。
楽しみにしています。色々な所を見せてください。

黙翁 さんのコメント...

コメント有難うございます。
オタクな内容ばかりですが、おつきあいのほどお願いします。