2024年9月27日金曜日

維新、立憲との候補者調整訴え続出 「立候補辞退してもいい」の声も(朝日) / 維新の参院幹部から党改革求める声が噴出「政策活動費の監査チーム」設置 馬場代表らに直言(FNN);「一方で現在も続く幹部らの飲食費等の支出に、党内から不満の声が出ていた。 維新は役員会後に両院議員総会を開いていて、2人(浅田・猪瀬)は総会でも同じ内容を訴えるとみられる。」   

橋下氏2審もパワハラ裁判敗訴。知事時代7人も自殺者を出した橋下氏が、斎藤氏にアドバイスできる立場か。(維新ペディア) / 「気に入らない記者袋叩き」は「重要な部分で真実」 橋下徹氏への名誉棄損、2審も認めず(産経) / 橋下徹氏が2審も敗訴…「気に入らない記者を袋だたきにする」などの記事巡る名誉毀損訴訟(読売)

 


〈ツイート全文〉

 判決文を読むと

「原告(橋下氏)は、同年9月25日から26日にかけて、自らの SNS上で、朝日新聞のF記者について、朝日新聞の記者の中で最悪に質 が悪い、偏向思想丸出しと評するなど同記者を批判する投稿を複数回行っ た上で、態度を改めない限り、朝日新聞の記者に対しては、自らのSNS の投稿を基にした議論は行わない旨の投稿をした。」

「原告は、令和2年2月11日に放送された毎日放送の番組『激撮!直 撃!!スクープ』に出演した。同番組内では、同放送が、平成20年2月 15 6日から同年4月30日まで、平日の情報番組において、I記者の原告に 対する取材内容を『けさのD(橋下)さん。』と題するコーナーで報道していたこと、 原告が次第に同記者と打ち解け、同記者を移動中の車に同乗させて取材す ることを許していたことが当時の映像と共に紹介された。(乙24、25)」

など、橋下氏が、権力者である市長の立場を利用し、都合の悪い報道・質問をする記者を罵倒し、都合の良い報道をする記者には特別に取材をさせ、メディアを懐柔していた事実が認定されています。そう言う人物をまるで識者かの様に祭り上げ続け、その影響下に「維新」を誕生させたメディアは、民主主義を危うくし、自らの首を絞めている事にいい加減に気付くべき時だと思います。



 

自民・麻生副総裁が高市氏支持へ、麻生派議員にも指示 1回目から(産経);  自民党の麻生太郎副総裁が、総裁選(27日投開票)で高市早苗経済安全保障担当相を支持する意向を固め、岸田文雄首相(党総裁)らに伝えたことが分かった。26日、複数の党幹部が明らかにした。 麻生氏はこれまで麻生派(志公会)の河野太郎デジタル相を支援する考えを示していた。麻生派は河野氏や上川陽子外相らに推薦人を出していたが、麻生氏は1回目の投票から高市氏を支援するよう同派議員に指示を出した。

2024年9月26日木曜日

『虎に翼』でハ・ヨンスが好演する朝鮮半島からの留学生、崔香淑が示したもの。紡がれた「加害」の歴史 ; 崔香淑という人物の存在から垣間見えるのは、植民地支配など、戦時中の日本の「加害」の歴史だ。ドラマが示したものは何だったのか、本作で朝鮮学生、朝鮮文化考証を担当した大阪産業大学の崔誠姫(チェ・ソンヒ)さんに聞いた。(生田綾 2024/9/26)

大杉栄とその時代年表(265) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉 浪華文学会設立され、堺利彦はこれに加わる 小学校教師を辞め『大阪毎日新聞』(2ヶ月) 『新浪華』入社  

 

西村天囚(1925)

大杉栄とその時代年表(264) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴②〉 英学塾の同人社 共立学校 第一高等中学校 退学 養家から離縁 家督相続 天王寺高等小学校の英語教員 煩悶と東京への憧れ より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉

1892(明治25)年、浪華文学会設立。堺利彦はこれに加わる

大阪時代の堺に大きな影響を与えたのは『大阪朝日新聞』の西村天囚である。天囚は、新聞記者で小説家、漢文学者でもあった。堺も愛読した東海散士『佳人之奇遇』は、天囚が一部を代作したと噂されていた。

浪華文学会の人々との交流

「浪華文学会」は天囚を中心に設立された文士の団体で、文芸誌『なにはがた』(のち『浪花文学』、さらに『浪花潟』と改題)が発行されるようになる。堺は、兄乙槌と共に浪華文学会に参加した。浪華文学会は『大阪朝日新聞』の記者が中心になっていたこともあり、朝日新聞社の共同経営者の上野理一が、雑誌発行の資金を援助していたという。『なにはがた』は菊判の小冊子で、編集人は堺の兄本吉乙槌だった。発行所は図書出版会社で発行は月1回。毎号5、6篇の創作と、紀行、評論などが掲載されていた。

発足2年目の4月時点の浪華文学会会員名簿には、発行人も含めて44人の名前がある。堺利彦(枯川)、西村時彦(天囚)、巌谷季雄(漣)、渡辺勝(霞亭)、武田穎(仰天子)、村上信(茅渟浦浪六)、野崎城雄(左文)、関二郎(如来)などの名前も見える。

最も有名なのは、のちに少年文学の第一人者となる巌谷漣(小波)だろう。硯友社同人として活躍していた彼は、当時は『京都日出新聞』文芸部主任として京都に赴任していた。

渡辺霞亭は天囚と同じく『大阪朝日新聞』の社員で、当時の関西の小説界では一、二を争う流行作家だった。

武田仰天子も、渡辺霞亭と共に関西文壇の重鎮として活躍している。

『報知新聞』の校正係だった村上浪六は、江戸時代の任侠の人物を描いた処女作『三日月』で一躍文壇の寵児となった。浪六は同紙を辞して故郷の堺市に戻り、『大阪朝日新聞』に迎えられていた。

野崎左文は馬場孤蝶のいとこに当たり、幕末から戯作者として活躍した仮名垣魯文(本名・野崎文蔵)の門下だった。『私の見た明治文壇』の著者としても知られている。

関如来はのちに『読売新聞』に入社し、美術評論家になる(関の娘は「日本のうたごえ運動」を広めたソプラノ歌手の関鑑子で、当時「梟が鶯を生んだ」といわれた、と堺は書いている)。

堺の兄本吉欠伸はこの時期、頭角を現し始めていた新進作家だった。

しばらくして須藤南翠(本名・光暉)も『大阪朝日新聞』に招かれて東京から移ってきた。須藤南翠は明治10年代に政治小説や『新粧之佳人』などで文名を上げ、文壇の大家と認められていたが、当時は時代後れとみなされ、浪華文学会の若い文士は、寄ってたかってこの老文士をいじめたという。

須藤南翠の少しあとに、やはり東京から『大阪朝日新聞』に移ってきたのが、堀柴山である。堀紫山は『読売新聞』に入って名文家として知られるようになり、「煙亭紫山人」の筆名で小説を書いた。1890年には、人気作家の尾崎紅葉と共同生活をしていたこともある。紫山は1863(文久3)年生まれで堺より7歳年上だったが、二人は非常に気が合った。紫山は1896年初めに東京に戻って『読売新聞』に復帰するが、この浪華文学会での出会いがきっかけで、堺は1896年に紫山の妹の美知子と結婚することになる。この美知子の妹が、のちに大杉栄の内縁の妻になる堀保子である。

堺はさらに浪華文学会の関係で久津見蕨村(本名・息忠)、加藤眠柳(本名・米司)、上司小剣などとも知り合っている。いずれも新聞記者で文筆家だが、その後も彼らとの交友は続いた。上司小剣はこのグループの最年少だったので、とくに堺と親しくしていたようだ。

西村天囚ほ浪華文学会の後進たちに勉学を励まし、自宅で心理学の輪講会を開くこともあった。英語教員である堺は、洋書を読んでいる会員たちと話をすることが多かったのだろう。この会で、彼はディケンズやサッカレーの原著をはじめ、ゾラの小説の英訳本などを借りて読んでいる。のちに、堺はゾラの小説の翻訳をいくつも手がけているが、ゾラを読んだのはこのときが初めてだった。

こうして、浪華文学会に参加した堺は、教員の仕事以上に小説や随筆の執筆に力を注いでいた。

堺は『なにはがた』1892年3月号では「橙園」という筆名を使っているが、同年4月号からは(翌年2月、『浪花文学』と改題)、「堺枯川」「かれ川」「枯川漁史」「水無庵主」の筆名で小説や雑録を執筆している。

最初の翻訳、1892年7月、ワシントン・アーヴィング「肥えた旦那」(『なにはがた』)

アーヴィングの『スケッチブック』は日本で早くから翻訳され、広く読まれていた。堺の少年時代の英語の教科書にも『スケッチブック』が載っていたが、当時、彼はこの作品からもっとも多くの感化を受けたという(『日本平民新聞』1908年3月5日付)。

「肥えた旦那」は、旅人宿に泊まった語り手の「我」が、二階の宿泊客に興味をもって観察するものの、声が聞こえるだけで顔を見る機会がない。ついに、出発するときに太った男の後ろ姿を目撃しただけだった、というストーリー。平易でユーモラスな文章には、後年の堺の作風が表れている。

1892年10月、「当世品定」(『なにはがた』)。

『源氏物語』の「雨夜の品定」では男性たちが好みの女性のタイプを話し合うが、「当世品定」では十八、九の結婚適齢期の娘が、夫候補の男性をきびしく品定めしている。結婚相手を選ぶのに大事なのは見た目か、性格か、財産か、将来性か。ヒロインは三人の候補者のなかで、夫にすべき人物を見定めようとする。

1892年11月25日 「隔塀(へいごし)物語」(『しがらみ草紙』)

隣の貸家に引っ越してきた謎の人物の正体を出入りする人々から想像するという話で、「状況証拠」によって人物像が二転三転する意外性。東京で活字になって印刷された最初の作品。

1893(明治26)年

『悪太郎』『継母根性 [附] 蝶くらぺ』(図書出版会社)、『はだか男』(文陽堂)を出版。

『継母根性』は、身分違いの家に後妻として入った女性の哀れさを描く。噂や中傷に追いつめられたヒロインは、自ら命を絶つことで継子をかばう。

1893年2月~「五軒長家」(『浪花文学』連載)、

「東の端」「二軒目」「三軒目」「四軒目」というように五軒長家に住む家族それぞれの物語。明治20年代の大阪の庶民の食事、衣服、家事など、日常生活がいきいきと描かれている。

1893(明治26)年2月、『大阪毎日新聞』記者となる。

兄乙槌を通じて新聞方面に知人が多くなり、彼らの影響で遊蕩に拍車がかかり、借金がかさんだため、両親と一緒に乙槌の家に転がりこむ。

そして、1893(明治26)年2月、小学校教員を辞めて『大阪毎日新聞』記者(月給15円)となるものの、2ヶ月で免職となる。

堺の回想によれば、「ある日編集局の裏の大便所に行った時、『今度来た堺と云ふ奴ほど生意気な奴は天下に無い』といふような落書のしてあるのを見つけた」とのことである(『近代思想』1914年7月号)

あっさりクビになったものの、文士としての「堺枯川」の名は大阪界隈では多少知られるようになり、原稿料で生活できそうだと考えた彼は、教員生活には戻らずに浪人することにした。

だが、それが遊蕩に拍車をかけることになる。原稿料は酒と遊びに消え、借金をせざるをえない。月末にはその支払いがたまり、食べる米もなくなる。母から涙ながらに、何度も短刀を取り出して自害しようとした、と告げられて堺はさすがに驚く。それでもなお悪癖を改めることはできなかった。

『新浪華』入社

そんな堺を見かねた西村天囚が、今度は『新浪華』という新聞に世話してくれた。社長は薮広光という熊本人である。

同じころ『大阪朝日新聞』主筆として東京から赴任してきたのが、元官報局長でのちに松方内閣の書記官長も務めた高橋健三だった。この高橋健三と東京で新聞『日本』を主宰する陸羯南(本名・実)が、当時の東西相呼応する日本主義、国粋主義の鼓吹者だったという。

『新浪華』もまた国粋主義の系統に属するもので、堺は高橋健三・西村天囚派の一人として、その政治的波動のなかに巻き込まれていく。

『新浪華』には10余の記者がいて、熊本の『九州日日新聞』主筆の山田珠一が主筆格として手伝いに来ていた。堺は小説も随筆も雑報も論文も書き、月給は15円だった。これは、山田珠一を除くと最高の額で、堺は家賃2円10銭の家を北野に借りて両親と女中の4人で住むようになる。

吉弘白眼との交流

この時期に堺は吉弘白眼(本名・茂義)と知り合う。吉弘白眼はどこの新聞にも属さず、新聞経営を夢想していた。堺と同じように貧乏で、「米を一升づゝ借りたり貸したり一枚の羽織を二人で着たりした」と堺はのちに回想している(『近代思想』1914年7月号)。

吉弘白眼はその後、『大阪日報』と『大阪日日新聞』社主を兼務し、関西の新聞界で幅を利かせるようになるが、「悪弘黒眼」の異名を得るほど評判が悪かった。阿部真之助(ジャーナリスト、のちに青野季吉らと共に日本エッセイスト・クラブを創立)は、吉弘が主宰する『大阪日報』について、「毎日々々個人のスキャンダルが、あることないこと、素破抜かれていない日とてはなかつた。金を出せ、ださなければこれだぞと、ピストルならぬ素破抜き記事をつきつけて、脅迫しているのである」と述べている(『老記者の想い出話』)。

そのため、堺が吉弘と親しくするのを不思議がる人もいたが、堺は気にするふうもなかった。二人の交友は続き、のちに吉弘は売文社に出資して堺を援助している


つづく

またまた維新!繰り返される維新の不祥事!今度はスパイ! → 維新の会・元事務局長が選挙区でスパイ疑惑 偽名、「京大工学部」のウソ、M-1出場の過去 立憲民主にまで触手を伸ばし…(週刊文春) / 関係者「コントロール不能になっていた」維新関係者が“偽名”で敵陣営に(テレ朝) / 維新の出馬予定者の事務所幹部、偽名で他陣営に出入り 衆院選断念へ(朝日) ← 嘘、デマ、暴言、恫喝、偽造、捏造、業務上横領、殺人未遂、ひき逃げ、公然ワイセツ、盗撮、思想調査、スパイと、維新はいったい何の組織なの?      



 

2024年9月25日水曜日

レバノン空爆で国連職員や子供も犠牲に イスラエルのヒズボラ攻撃 - BBCニュース / レバノン空爆、子50人含む500人超死亡 数万人が避難、首都も標的 (朝日) / レバノン市民、イスラエル軍の攻撃でパニック 避難民の車で渋滞も(AFPBB) / BBCニュース - レバノンのヒズボラ拠点にイスラエルが空爆 避難指示に「どうしたらいいかわからない」と市民 / イスラエル軍のハガリ報道官は「地上侵攻」を示唆し、戦車部隊がイスラエル北部に移動している。       

 

立憲・野田代表の「政権奪取」戦略の"落とし穴"  刷新感重視の新体制も、程遠い「ノーサイド」(東洋経済) / 「ノーサイド」どころか「あからさまな論功行賞」 立憲・野田新体制の顔触れは「代表選で応援した人」ばかり(東京) / 信濃毎日新聞 →  当初、「昔の顔」は良くいないと代表選出馬をためらう野田佳彦氏の背中を押したのは、泉健太執行部の辻元清美代表代行だった。


〈ツイート全文〉

 立憲代表選について、信濃毎日新聞の記事、とても驚いた。

当初、「昔の顔」は良くいないと代表選出馬をためらう野田佳彦氏@NODAYOSHI55

 の背中を押したのは、泉健太執行部の辻元清美代表代行@tsujimotokiyomi だった。

都知事選敗北後の7月下旬、蓮舫氏の慰労会で辻元議員、「私は政治的スタンスは違うが、やはり野田さんがもう一回、チャレンジすべきだと思う」

野田氏「そんな簡単に言うなよ」、回答をはぐらかしたものの、ベテラン議員は「立場を超えた要請に心が動いたのは間違いない」とみる。

野田氏の出馬要請を辻元議員までもがしていたとは、一体どういうことなのか。辻元氏は野田氏に何を期待して出馬要請をしたのか、説明してほしい。

7月6日の七夕街宣、高田馬場駅前のビッグBOXでの野田議員ら旧民主党幹部陣らの登壇には、市民から批判の声も根強かった。

都知事選で無党派層を取り込めなかった原因の一つは、旧民主党幹部を全面に出しすぎたからだと指摘されているが、そもそも立憲自体がそのことへの総括や反省を全くしていない。萩生田光一都連会長は辞職したが、都知事選で立憲は誰1人責任を取っていない。

辻元議員は、代表選後の取材で「吉田はるみ議員の応援になぜつかなかったのか?」と聞くと、「相当、吉田議員からは相談を受け、陰に陽に皆でサポートしていた。はるみさんか出れて良かった。(自分は)泉執行部なので、推薦人には名前を出せなかった」と言うものの、誰に投票したかは明言しなかった。

「野田新代表の下、立憲全体が右傾化するのではとの懸念はないか?」との質問には、「これから。参議院の憲法審査会の責任者は私。衆議院は逢坂誠ニさん@seiji_ohsaka 。野田さんは今すぐ憲法改正は必要ない、政局に利用するなという立場。安保法制でも日米の(軍事)一体化の中でどこが違憲なよか、切り分けて議論する必要があると言っている。私も同じ立場だ」と野田氏の考えへの賛意を示した。

消費税減税については「これから議論が必要。税制全体で考えていく必要がある」と、これも野田氏と同じような回答だった。

野田新代表の人事では、辻元議員は代表代行を継続、これも結局、「論功行賞」だったのだろうか。

野田氏はとぼけたが、2012年7月の衆議院予算委で、集団的自衛権について「政府内での議論も詰めていきたい」「集団的自衛権の一部を必要最小限度の自衛権に含むというのは一つの考えだ」と述べ、憲法解釈の見直しを検討する意向を表明している。

野田新代表の下、立憲は自民裏金や統一教会問題を全面に掲げ、政治改革を訴え、他の野党との連携を模索する一方で、「論憲」と言う名の下、改憲を推し進めていくのではとの懸念が拭えない。そして、野田氏の出馬を辻元議員が要請、野田氏が出馬に傾いた大きな動機の一つになっていたとは。

Arc Timesでは、立憲代表選や自民総裁選、斎藤元彦知事について、作家の古谷経衡さん

@aniotahosyu と議論→

https://youtube.com/live/5GGomjy-khs?si=YZQCHbp2H-YWMWID


野田氏が首相時代の2012年に自身の諮問会議「フロンティア分科会」が、集団的自衛権の解釈変更を提言したとの朝日新聞の記事↓これに基づき、野田氏は解釈変更について「議論も詰めていきたい」と初めて首相の立場で解釈変更に言及した。

http://asahi.com/special/minshu/TKY201207060738.html


野田首相の発言を受けて、当時の日弁連の抗議声明→ https://nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120727_3.html


望月衣塑子



 

中国・日本人男児刺殺事件、「本当に申し訳ない」多くの中国人が涙した“父親の手紙”の中身とは(ふるまいよしこ ダイヤモンドオンライン)

 

河野太郎氏「ありません」とあらためて断言 保険証廃止の記録 質問にはテンプレ回答…説明の本気度は?(東京) / 「保険証廃止」一体誰がどう決めたのか 「記録はない」と判明…首相報告や閣僚間のやりとり 経緯は闇の中へ(東京) / 「ダメだよ。保険証廃止は」デジタル庁幹部は断言していた マイナ一本化になぜ転換?協議の記録がない不可解(東京); 廃止表明の1年前、デジタル庁幹部に本紙記者が、マイナンバーカード普及のため保険証を使えなくする考えがないのか尋ねると、即座に否定し、こう答えた。 「使えなくなると言えば普及するってのは権力的な目線だよ。ダメだよ。保険証は(なくなれば人が)死ぬんだから」