*
1902(明治35)年
9月12日
この日の子規『病牀六尺』(百二十三)。
「○支那や朝鮮では今でも拷問(ごうもん)をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。
(九月十二日)」
9月12日
この日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。
「近頃は神経衰弱にて気分勝(すぐ)れず、甚だ困り居候。然し大したる事は無之候へば、御安神可被下候。
「近来何となく気分鬱陶敷、書見も碌々出来ず心外に候。生を天地の間に亨けて、此一生をなす事もなく送り候様の脳になりはぜぬかと自ら疑懼(ぎく)致居候。然しわが事は案じるに及ばず、御身及び二女を大切に御加養可被成候。・・・・・」
「九月十二日(金)、細雨。鏡から手紙(八月六日(水)付)届く。返事に、「近頃は神経衰弱にて気分勝れず甚だ困り居候然し大したる事は無之候へば御安神可被下候」と告げる。新聞を送るのは九月いっぱいで中止するように伝える。中根倫からも手紙来る。」(荒正人、前掲書)
「彼の精神の強弱が同時に出現し、それを彼が自覚していることを意味している。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
9月13日
この日の子規『病牀六尺』(百二十四)。
「○人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。
(九月十三日)」
「九月十三日、碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、虚子、それに長塚節が子規庵につどった。子規、病重篤の報がまわされたのである。
その夜、泊ったのは虚子であった。午前一時頃、子規は蚊帳のなかで眠った。それをたしかめた隣室の虚子も眠った。
夜中、「おいおい」と律を起こす声が聞こえた。不分明な濁った声であった。「大便を掃除しておくれ」
すでに意志的には排泄できない身の上となっている子規は、おむつのような布をたくさんあてていて、用が生じたら律が始末をする。昼も夜もそれはかわらない。
強い臭気が隣室の虚子のもとに届いた。虚子はそれを厭うというより、そんな状態に立ち至った子規を思って、ひそかに泣いた。まさに暗涙であった。」(関川夏央、前掲書)
9月14日
この日の子規『病牀六尺』(百二十五)
「〇足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大盤石(だいばんじゃく)の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏(じよかし)いまだこの足を断じ去つて、五色の石を作らず。
(九月十四日)」
6年近くの寝たきり生活でやせ細った足が、急に腫れて痛み出したのが3日前。それは指先が触れるだけで、天地が裂けるほどであった。「女媧」は、中国神話上の天地創造の女神で、太古の昔、天を支える四方の柱が傾いて、世界が裂け、大地は割れ、火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う悲惨な有様となった時、五色の石を繰り、それで天を補修し、土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたという(『淮南子』「覧冥訓」)。漢学の教養が根にあった子規は、自分を襲う痛みを、中国の天地創造神話を引いて、最後まで表現者として描ききろうとした。
この日、子規、随筆「九月十四日の朝」を口述筆記(虚子が筆記、没の翌日の「ホトトギス」に掲載)。
この日の朝、「病気になつて以来今朝程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事はない」と語り、子規庵の風景を虚子に書き取らせた。
「虚子は原稿を持ち帰り、すぐに「ホトトギス」に掲載すべく印刷所に入れた。だが、「ホトトギス」第五巻十一号の発行は明治三十五年九月二十日、子規の死の翌日である。」(関川夏央、前掲書)
「 朝蚊帳(かや)の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉(のど)が渇(かわ)いて全く潤(うるおい)のない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄(ぶどう)を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎(きんけい)の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚(さ)めたので、十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除(とりのけ)さした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄(にわか)に水を持ったように膨(ふく)れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろりと臑皿(すねざら)の下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大磐石(だいばんじゃく)の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、此度のような非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁(かたがた)訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐)(へきごとう)、鼠骨(そこつ)、左千夫(さちお)、秀真(ほつま)、節(たかし))は帰ってしもうて余らの眠りに就(つい)たのは一時頃であったが、今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀(よしず)が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜(へちま)は十本ほどのやつが皆瘠(や)せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花(おみなえし)が一番高く咲いて、鶏頭(けいとう)はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠(しゅうかいどう)はなお衰えずにその梢(こずえ)を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺(なが)めた事はない。嗽(うが)いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極(きわめ)て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚(はだ)に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴(つづ)る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。」
〔『ホトトギス』第五巻第十一号 明治35年9月20日〕
9月14日
法秩序維持のため厳しい措置をとる英政府に対し、ダブリンのフェニックス・パークで2万人がデモ。
9月14日
ゴーギャン(54)愛人マリー・ローズ・ヴァエオホ、娘タヒアチカオマ夕を出産。
つづく