2026年1月7日水曜日

「Day of Infamy 恥辱の日」 (ポール・クルーグマン博士 ノーベル経済学賞) 「今、私が言いたいのはただ一つ、何が起きているのかを明確に認識すべきだ、ということである。アメリカン・ファシズムは前進しており、それをはっきりとそう呼ぶことをためらい、言い訳をし、トランプや彼が引き入れた人々が怪物ではないかのように装う者は、深く非愛国的である。民主主義を救う可能性を持ちたいのであれば、我々の第一の義務は「明晰さ」でなければならない。正当化のための言い繕い(サニウォッシング)も、どっちもどっち論(ボースサイディング)も不要である。恐るべき真実に正面から向き合うことによってのみ、我々は自由になりうる。」


〈全文〉

 「Day of Infamy 恥辱の日」

(ポール・クルーグマン博士 ノーベル経済学賞)

https://open.substack.com/pub/paulkrugman/p/day-of-infamy?utm_campaign=post&utm_medium=email 

昨日は移動日だったため、本格的な投稿を書く時間がなかった。しかし、この恐るべき記念日については、どうしても言及せずにはいられない。

5年前、ドナルド・トランプは自らが敗北した選挙を覆そうとした。彼は失敗し、私はその時点で脅威は去ったものと思い込んでいた。最悪の悪夢の中でさえ、彼が復活し、ホワイトハウスに戻ってくるなどとは想像もしなかった。しかし現実はそうなってしまった。そして彼は、対立者や批判者たちが警告していた通り、いやそれ以上に悪質な存在である。

今日は、ここに至った経緯や、そこから脱出するための戦略について今日は語るつもりはない。

今、私が言いたいのはただ一つ、何が起きているのかを明確に認識すべきだ、ということである。アメリカン・ファシズムは前進しており、それをはっきりとそう呼ぶことをためらい、言い訳をし、トランプや彼が引き入れた人々が怪物ではないかのように装う者は、深く非愛国的である。民主主義を救う可能性を持ちたいのであれば、我々の第一の義務は「明晰さ」でなければならない。正当化のための言い繕い(サニウォッシング)も、どっちもどっち論(ボースサイディング)も不要である。恐るべき真実に正面から向き合うことによってのみ、我々は自由になりうる。

ポール・クルーグマン「トランプ批判者も、ベネズエラの石油から莫大な利益が得られるというトランプ氏の見解には賛同しています。一方、そんなことは無理と分かっている人達もいます。石油会社の人々です」

「身銭をきらない維新」が、今度は「脱法維新」! → 「国保逃れ」維新の地方議員複数が関与 調査結果公表「脱法的行為」(朝日) / 12/26回収の調査がまだ終わってない! 追加調査が必要かを検討中 ← ヤル気あるのか? / “脱法的”なスキームで「100万円以上浮くケースも」 維新議員のセコい「国保逃れ」 識者たちは「悪質」と断罪(デイリー新潮) / 維新議員の国保逃れ疑惑の「実態調査」は自己申告なのか? / 「国保逃れ」指摘受け、維新が全所属議員に関与の有無を調査へ(朝日) / 維新に今度は脱法的「国保逃れ」スキャンダル 「国民ではなく自分たちの保険料を下げている」(AERA) / 維新、国保支払い回避の指摘受け党内調査 兵庫の地方議員ら聞き取り(朝日) / 元維新の足立康史(現国民民主党)が攻撃側に参戦 「当該スキームを開発し、組織的に悪用してきた主体が、皮肉にも「社会保険料を下げる」を掲げてきた日本維新の会の議員団だった」 / 「信頼の根拠として悪用されている可能性が」自民府議が国保逃れの不正に維新議員の関与疑惑を指摘…ネットは「事実なら大爆弾」と騒然(女性自身) / 占部大阪府議(自民)から社会保険制度を悪用した国保逃れの事案に維新関係者が関わっていたことを指摘された維新吉村大阪府知事のカ細い声での答弁     



 

【独占入手】統一教会マル秘報告書 3200ページがしめす自民党との蜜月「高市早苗氏が総裁になることが天の最大の願い」《長島昭久・前首相補佐官は合同結婚式を挙げていた》《萩生田光一が受け取ったエルメスのネクタイ》 / 「読売」「朝日」「日経」「毎日」「NHK」も報道 → 旧統一教会「自民だけで290人応援」と韓鶴子総裁に報告か、内部文書に山上徹也被告の「会員記録を削除」とも…韓国紙報道(読売) / 「安倍首相、選挙支援に非常に喜んだ」旧統一教会、内部報告文書で言及(ハンギョレ新聞) ;  ■高市早苗首相の名前も32回登場 / 徳野元会長は安倍元首相と同席した自民党の萩生田光一幹事長代行(当時)にエルメスのネクタイも贈呈 / 山上被告の会員削除の波紋 旧統一教会の「信者であったという記録は存在しておりません」は何だったのか / 小沢一郎氏、「倫理観・道徳心の完全崩壊」自民党批判 旧統一教会「自民議員290人応援」報道(日刊スポーツ)        

 

 


 記事のうち日本に関係の深い部分をDeepLで訳した。

この通りならば、安倍政権の時に、統一教会による日本の政治乗っ取りが進行していたって解釈になるのかな。それにしても。

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海底トンネル推進幹部への「日本式政治家管理法」教育の経緯

「自民党議員290人の選挙応援」…日本モデルを韓国に移植する夢か

安倍氏と会い支援要請受け「最低20万票」…高市氏も32回言及

ソウル市長補欠選挙前に「村事業・住民委員『撃破』」組織固める


(ソウル=聯合ニュース) イ・ウィジン、チェ・ウォンジョン記者 = 警察が確保したとされる3千余ページに及ぶ統一教内部文書には、統一教が日本の選挙に対応した状況も詳細に記されていた。日本に定着させた「政教癒着」モデルを韓国に移植しようとしたのではないかとの分析が出ている。

28日、統一教内部文書である「TM(True Mother・真の母)特別報告」によると、徳野栄治前統一教日本協会長は2018~2022年、韓鶴子総裁と尹永浩前世界本部長に計222回報告した。

統一教組織は中・参議院議員や自民党総裁など選挙局面ごとに動向を把握するのに忙しく動き、「応援」する候補を選別した。地域区ごとに数万人に及ぶ組織的な「票の集中」が行われる一方、後援に積極的に関与した状況も捕捉された。

徳野前協会長は「『選挙応援』を通じて国会議員や自民党トップクラスの重鎮幹部たちとより深い信頼関係を築いていくことが最も現実的で効果的な『アプローチ』だ」とし「日韓トンネルプロジェクトが社会的影響を与えられるよう組織的戦略を駆使しながら推進したい」と述べた。

2021年の衆院選直後には「我々が応援した国会議員の総数は自民党だけで290名に達する」と総裁に報告したこともある。

安倍晋三前首相も参院選を20日ほど控えた2019年7月2日、統一教関係者らと20分間面会し、故郷の友人である北村恒夫候補への応援を要請した。

徳野前会長は「(安倍首相が)北村恒夫議員を我々の団体がどこまで応援するか決意を聞きたがっていた」とし、「『これまでの票は10万票だったが今回は30万票を目標とし、最低20万票は死守する』と宣言すると、非常に喜んで安心しているようだった」と伝えた。

彼は安倍前首相に「今後も日本をより正しい方向に導いてほしいという激励の意味」として高級ネクタイも「贈呈」したという。文書は2021年11月、統一教会に近い議員12名を挙げ、安倍前首相を筆頭に掲げたこともあった。

文書には高市早苗現首相の名前も32回言及された。2021年の初の自民党総裁選挙出馬時には「安倍首相が強く推薦しており、神奈川県の後援会が我々と親密な関係にある」とし「(高市氏が)総裁になることが天の最大の願い」と記した。

文書は日本に「政教癒着」モデルを根付かせようとする野心を隠さない。選挙に積極的に介入して自民党に影響力を行使すると同時に、内閣にも参加して日韓海底トンネルなどの懸案を推進するという構想だ。

2018年12月当時、嶺南圏を担当した統一教5地区長の朴某氏は、地区幹部ら10数名とともに日本を訪問し、徳野前協会長と会った。朴氏は「政治家復帰のための組織的な投入と過程、結実についての説明を受けた」と報告した。

全在洙前海洋水産部長官が金品を受け取ったと指摘された時期に、5地区は当時、韓日海底トンネル実現を目標に活発に動いていた。

徳野前会長は「日本は政治家と『コンタクト』(連絡)を取り後援会を結成し、時には政治家を教育し我々のイベントに参加させる」とし「韓国ではまだ『ギブ・アンド・テイク』関係が模索中であり確立されていないため、非常に刺激的だった」と伝えた。






 

 

▼この方は、堂々と「統一協会なんて知りません」と言える人です

 

 

▼「記憶」がないことにしておいてね、と。

 


▼支持者の中には少しは居たかもしれない(いえ、全員です)。

 

 

▼知らなかった(ことにしておいて!)

 

片山さつきが言う「ガラスの天井を破った最強コンビ」。今年は「皇紀二千六百八十六年」という片山さつきと、伊勢神宮でその写真を持ちだして、未だに「安倍晋三」ブランドで自らを権威づける高市早苗。正月早々、暗澹限りなし。 / 遺影をもって本人の代わりに何かをするというのは遺族だけがすることだろう。なんと傲慢なふるまいかというのが私の違和感。(山口二郎) / 安倍晋三の「遺影」はクリアファイルに入れられ、報道陣が写真を撮ったらすぐに脇にいる官僚にホイと渡す。     

 

 




▼間に合わせ、でしょう

 

 

▼伊勢でも笑ってる(日頃の練習の成果なのか)

 

あの「虐殺」行為を支えてくれたと感謝され、握手する自民党の「安全保障調査会長」。 「ネタニヤフ氏は戦争中に日本が支えてくれたことに謝意を表明した」 / 日本が最大の資金を拠出し、赤根智子さんが所長を務める国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を出され、日本に入国すれば逮捕義務のある国際指名手配犯の戦争犯罪人 #ネタニヤフ (7万人超虐殺)と、嬉しそうに集合写真に収まる #小野寺五典 ら自民安保調査会の面々と超党派議員団

大杉栄とその時代年表(728) 1907(明治40)年5月 「百姓ほどみじめをものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯(かてめし)を食って、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生活を送って居る。地を這ふ爬虫(むし)の一生、塵埃を嘗めて生きて居るのにも譬ふれは譬へられる。からだは立って歩いても、心は多く地を這ってゐる。親切に思遣ると気の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその湿気臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎(いつ)も、醜いしものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪を心に覚える。」(真山青果「南小泉村」)   

 

真山 青果

1907(明治40)年

5月

真山青果「南小泉村」(『新潮』)

青果真山彬(あきら、数え30歳)は、強烈な我執と鋭い判断力を持った青年で、自らを高く持しながら、その気質は動揺甚しく安定することがなかった。彼は仙台の第二高等学校医学部に籍を置いていたが、その間に徳富蘆花の作品を愛読し、深い影響を受けた。学業を途中で放概して、郡立病院の薬局生、開業医の代診、中学校教師などをしてから、明治36年に上京し、蘆花に弟子入りをしようとした。蘆花はちょうど精神的動揺のさ中にあった時で、自分には人の師となる資格なしと言って、彼の入門を拒んだ。

その後彼は3歳年上の佐藤紅緑の門人となり、書生としてその家に寄寓した。佐藤紅緑の紹介で彼は新潮社の社主佐藤儀助に知られ、「新潮」に作品を発表する縁が出来た。

佐藤紅緑は、青森県弘前市の出身で、新聞「日本」の陸羯南の親戚に当っていたので「日本」に勤務し、子規の下で俳句を学んでいた。子規没後、彼は虚子周辺に居心地のよい場所を見出すことができず、「読売新聞」に勤務して、その関心を小説に移した。明治39年11月、彼は「中央公論」に「行火」を発表して注鼠された。同じ年、彼の戯曲「侠艶録」が高田実の一座によって本郷座で上演され、大当りを取ったため、それ以後佐藤紅緑の関心は演劇に移り、小説家としては次第に通俗小説を書くようになった

真山青果は、三流どころの文芸雑誌「新潮」だけがその発表舞台であった。青果は明治37年~38、「かたばみ」、「点晴」、「零落」、「決闘」という作品を立て続けに「新潮」に書いたが、最初の作品「かたばみ」が小栗風葉に認められた。原稿料で生活できるようになった青果は、牛込区袋町の安下宿に居を定め、今度は2歳年上の小栗風葉に弟子入りした。

小栗風葉は、引き立たない風貌の小柄な男で、弟子の青果は丈の高い眉目秀でた好男子であった。二人とも素面のときは他人を気にして、冗談も言えない人物であったが、酒が入ると、自己抑制力を失って、目の前にいる相手を見境なく罵倒した。青果は上等の酒を好んだが、風葉はどんな下等な地酒でも手当り次第に飲んだ。二人は肝胆相照らす仲となり、才能縦横で筆の早い青果は、風葉のために代作をして酒代を稼いだ。酔うと傍若無人になる青果は、師匠の風葉に議論をしかげ、喧嘩し、風葉は破門すると言って青果を追い帰した。だが二三日すると、すぐに和解するのかきまりであった。和解のために酒を飲むと、すぐまた喧嘩して破門騒ぎになる、という状態が続いていた。

明治39年~40年、文壇では、この頃の風薬の作品はみな青果の代作だという噂が行きわたっていた。

明治40年春、青果は、そういう生活の泥沼から脱出するために、仙台郊外の南小泉村で代診生活をした時の体験に取材したこの作品を力を込めて書いた。「南小泉村」は第一節と第二節から成る三十枚ほどの短篇であった。主人公の「僕」は医学校を中途退学して、親戚の家でぶらぶら遊んでいるうちに、この南小泉村の収入役をしている百姓に言われて、仙台に住んでいる医者の代診として働くことになる。彼はその村に住んでいる、もと士族の石岡という老夫婦の家に間借りをして、その仕事をはじめた。そこで一年働いた経験の結論を彼はこの小説の冒頭で次のように述べていた。

「百姓ほどみじめをものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯(かてめし)を食って、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生活を送って居る。地を這ふ爬虫(むし)の一生、塵埃を嘗めて生きて居るのにも譬ふれは譬へられる。からだは立って歩いても、心は多く地を這ってゐる。親切に思遣ると気の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその湿気臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎(いつ)も、醜いしものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪を心に覚える。」

これは主人公「僕」の百姓を見る目であると同時に作者真山青果その人の心でもあった。彼は農村の生活者たちを、徹底的に低俗をもの、醜悪をもの、無智と我執と我慾の典型として描いた。

この小説は、全然救いを認めない餓鬼道として人と人との関係を描いた点で、読者にショッキングな印象を与えた。しかも青果の描写は綿密で自然の変化、人物の表情態度などをその急所で把握しており、それが一層この作品の冷酷残忍な感じを強めた。

青果の「南小泉村」について、田山花袋は「文章世界」6月号の匿名の「文芸月評」で「仙台の在の農村の有様がよく出てゐる。読みごたへのある作だ。唯だ作者の小主観が客観化されずに、至る所に出てゐるのか、やゝ作物の重みを減じたやうに感じられる」と評した。この「文芸月評」はほとんど総ての作品について手酷い批評を加えていた。5月に発表された作品の中では、僅かに国木田独歩の「疲労」を、「この作には、止むを得ずに働いて、而して、人生に疲れてゐるものゝ胸に痛切に響く所がある。6月の創作壇で、最も振ってゐるものゝ一つである」と称譲した外は、いずれも否定的な批評であった。僅かに「南小泉村」が、その独歩の作の次に位するものとして扱われていた。独歩はこの当時、新文学を代表する最も才オある人と見られていたのであるから、青果はかなり高い評価を得たのである。

文壇では、この「南小泉村」を正宗白鳥の「塵埃」と並べ、いま文壇で論議の中心になり、待望されている自然主義文学の本質を持つものとして、この二篇の新作が比較して論ぜられる習慣がこの時から生れた。

(『日本文壇史』より)

5月

木下尚江「霊か肉か 上編」(「文淵堂」)。下編は梁江堂翌41年1月刊 。

5月

正宗白鳥(数え29)「独立心」(「新小説」)

5月

小川未明の作品集『愁人』

未明小用健作は新潟県商田町の出である。父は神職で、上杉謙信を崇拝し、春日山の古城址に謙信神社を創設した。明治28年健作は高田中学校に入り、そこで糸魚川町生れの相馬昌治と学友になった。

数え19歳のとき、健作は学校を中途退学し、翌年(明治34年)、上京して早稲田大学予備校に入学し、後英文科に入った。その頃小泉八雲が早稲田大学で教えていてその講義を聞いた。小川は学校よりも坪内逍遥に親近して、直接その指導を受けた。逍遥は純真で夢想癖のある小川を愛して、彼に雅号未明を与えた。

未明は英文科在学中からロシア文学を愛読し、その民衆尊重思想の影響を強く受けた。一年遅れて相馬昌治もまた早稲田大学へ入ったので、二人の間に親交があった。外に小川は、同じ時期の学生の梅渓高須芳次朗、酔夢西村真次、孤雁吉江喬松、天弦片上伸等とも交際した。小川は在学中から多くの習作短篇を書き、23歳のとき「帰思」を「読売新聞」に、「漂浪児」を「新小説」に発表した。

明治38年数え24歳で早稲田大学を卒業。卒業論文は「ラフカディオ・ハーン論」であった。この年彼は盛んに作品を書いて新聞や雑誌に送ったが、3月に「新小説」に掲載された「霰に霙」は甚だ好評で、作家としての地位をほぼこのときに作ることができた。

小川未明は卒業の翌年(明治39年)、新潟県長岡市の出である山里吉子と結婚した。この年島村抱月は彼を招いて早稲田文学社に入れ、新しい児童文学を起すために「少年文庫」の編韓に当らせた。しかしこの雑誌は成功せず廃刊になると、小川はそこを辞して、翌年の明治四十年に、正宗白鳥の紹介で「読売新聞」の記者となった。

この年6月、小川未明はそれまでに書いた短篇小説や小品文を集めて作品集「愁人」を出版した。坪内逍遥はその本に序文を書いて、未明の特色を説明し、この作家は「作られたる人にあらずして、生れたる人」であると述べた。


5月

荒畑寒村、徴兵検査。海軍水兵(4年)に決まる。

12月1日横須賀海兵団入営。医師の入れ智恵で菅野のカンフル0.5gを服用、翌日、兵役免除となる。

5月

月初め、坂本清馬(小石川砲兵工廠警夫)、平民社訪問、初めて幸徳秋水に会う。

5月

堺セルロイド株式会社創立。資本金200万円。

5月

日本化学工業株式会社創立。資本金60万円。

5月

北陸人造肥料株式会社創立。資本金100万円。

5月

片倉組、埼玉県熊谷町に石原製糸所設置。

5月

英、第1回マン島ツーリスト・トロフィ・オートバイ・レース開催。

5月

インド暴動発生。軍投入。

6月6日、イギリス政府、いかな状況の下でも撤退せずと宣言。

5月

仏、マルセイユ、水夫ら労働条件改善求めゼネスト。

5月

オーストリア普通選挙法に基く選挙。キリスト教社会党98議席、社会民主党87。ドイツ人233人、チェコ人107、ポーランド人82など。

5月

米、母の日、初の実施。


つづく


2026年1月6日火曜日

BBCニュース - 「劇的だった」 マドゥロ夫妻の初出廷、傍聴したBBC記者の報告 

トランプ政権のヘグゼス戦争長官は、現役の軍人たちに「違法な命令は拒否すべし」と呼びかけた退役軍人マーク・ケリー上院議員への軍人年金を削減し退職時軍歴を降格した。ケリーは攻撃機パイロットとして湾岸戦争などで数々の勲章を受けた。ヘグゼスは州兵として歩兵小隊指揮しか軍歴がない / それに対するマーク・ケリー上院議員の返答動画。 「私の家族は4世代にわたってこの国に尽くしてきた。個人の利益を放棄して公のために尽くす精神 (Service) は私の血の中で培われたもの。この大統領はそういった精神を知ることはない」        

大杉栄とその時代年表(727) 1907(明治40)年5月 中村星湖はこの一作(「少年行」)によって、数え年24歳で新進作家として世に知られることとなった。 この作品の発表されたすぐ後に彼は早稲田大学英文科を卒業し、この年8月から「早稲田文学」の記者に採用された。中村星湖は若い作家として最も幸福を順調な出発をした一人と見なされた。 (『日本文壇史』より)

 

中村 星湖

大杉栄とその時代年表(726) 1907(明治40)年4月16日~28日 「四月末から五月初めにかけて(推定)、連日上野公園で開かれている東京勧業博覧会を見に行く。いろんな服装で行くので、不思議に思われる。 五月三日(金)『国民新聞』の「文芸界消息」による。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

5月

呉海軍工場で巡洋艦起工。11月進水。1万4,600トン、実馬力2,400、速力22節。

5月

安部磯雄ら7名、内相原敬に谷中村土地収容に対する訴願書提出。

5月(又は6月)

(漱石)

「五月または六月(推定)、夜、大塚保治の許で催された集りに出席する。出席者は十人ほどで、大塚楠緒も出席する。京都の感想や『吾輩は猫である』の山の芋を盗まれた話などについて聞かれる。漱石は、ある匂いを嗅ぐとその匂いを嗅いだ時の光景を思いだすこと、イギリス留学時代に客を招き、主人役になり、肉を配るとき、肉の良い部分を自分の皿にとり、客には骨の部分だけを配ったので、客はナイフもフォークも下におき、手持ち無沙汰にしている。途中で気付いたが、仕方ないのでさっさとかたづけてしまったと失敗談を話す。大塚楠緒や他の客も面白がる。大塚保治の客間には、ランプが三つ四つおいてあり、高低を自在にすることができる。大塚保治に夫人の考案かと聞くと、出来合いだと答える」(荒正人、前掲書)

5月

天魔童子「女子の堕落と論客の無責任」(「新声」)。

「女学生堕落の問題は、近ごろ新聞雑誌論壇の火花となりぬ」。働いても学んでも女には「堕落」の声がつきまとう。

5月

三木露風、早稲田大学高等予科文科へ入学。『芸苑』『早稲田文学』『新声』に次々と作品を発表。

5月

中村星湖(せいこ)「少年行(しょうねんこう)」(「早稲田文学」)

星湖中村将為(まさため、数え24)は、山梨県南都留郡河口村の製糸業兼農家の長男に生れた。母から読書趣味を受け、父から俳句などを作る手引きを受け、10歳の頃「里見八犬伝」を読み終える。山梨県立甲府中学校に在学中から、校友会誌や「中学世界」などに投書する文学少年で、「文芸倶楽部」、「新小説」等に載る小説類を耽読した。

中学校卒業後、神田の伯父の家に寄萬しなから早稲田大学の英文科に学ぶ。その間にも5円の賞金で小品文を募集していた「万朝報」に何度か当選し、坪内逍遥を牛込の宅に訪ねて指導を受けた。また早稲田の先輩、「毎日新聞」記者孤島中島茂一に知られてその新聞に文芸評論を書き、学友の片上伸や未明小川健作等と交際した。

明治38年、島村抱月が帰朝すると、彼は学友の片上伸に伴なわれて島村抱月を訪ねた。この頃彼はキリスト教に心を惹かれ、本郷教会で海老名弾正の手で洗礼を受けた。中村は熱心な投書家で、「新小説」に投書した「老巡礼」が明治39年1月号に1等当選として発表された。明治39年1月、「早稲田文学」が島村抱月により再刊され、その創刊号の社告で「新作小説及脚本」を「新たに文壇に出でんとするものの為め」に募集していた。早稲田大学に学ぶ文学青年たちは活気づいた。その年7月、中村は自分の少年時代の思出を中心とした作品「少年行」を書きはじめ、それを「早稲田文学」に送った。

天弦片上伸は中村と同年齢だが、中村より1年早く、明治39年に早稲田大学を卒業して、「早稲田文学」の編輯員になっていた。

明治40年4月のある日、片上伸は中村に逢って、「少年行」が選者二葉亭四迷によって1等当選に推されたことを知らせた。次いで中村は島村抱月に逢った。その時抱月(数え37歳)は、早稲田大学英文科教務主任であり、前年から牛込薬玉寺前町に住んでいた。そこは墓地の隣なので、抱月は自らその家を対墓庵と号していた。このとき彼は妻いち子との間に一男二女があった。

中村がその対墓庵へ朝早く訪ねて行くと、島村は彼を二階の書斎に通し、「少年行」を近く「早稲田文学」臨時増刊号に載せる予定だが、その前に一度選者の二葉亭を訪ねて、なお訂正すべき点などについて注意してもらったらよいだろう、と言った。中村は、二葉亭は坪内逍遥ですら一目置いでいる大家であることを知っていた。また彼は二葉亭の翻訳「片恋」や「あひゞき」を何度も繰り返して読んでいたので、その二葉亭に逢う機会を得たことを喜んだ。抱月は、「長谷川さんは大そうな寝坊で十時か十一時でないと起きない人だと聞いているから、朝早く行ってはいけませんよ」と中村に言った。

中村は学者町として知られている本郷区西片町十番地にノ三十四号の二葉亭(数え44歳)の家を訪ねて行った。入口の格子を開けて案内を乞うた。若い女性が出て来て、名刺を渡すと中村は二階へ通された。この若い女性は、明治35年に二葉亭と結婚した後妻りう(数え25歳)であり、二葉亭との間に一男一女があった。

二葉亭は人並より大きな身体に質素な着物をまとい兵児帯をしていた。男らしい顔だちだが、憂鬱そのもののような表情で、額には太刀瘡を思あせるような深い竪飯が刻まれていた。強度の近視眼らしいその眼鏡の下の目が鋭かった。

中村が、自分の「少年行」を雑誌に載せる前に、欠点があったら注意して頂いて訂正したい、と言ったところ、二葉亭は、

「注意すべき点と言って、別に・・・あのままでいいでしょう。一体、文学というものは教ぇるとか訂正するとかいう種類のものでないですからね」と答えた。

「あの作についてではなくても、今後自分などの気をつけなければならぬ点を」と更に中村がたずねると、二葉亭は、謙遜な態度で、

「自分には文学の事は全然分らないが、自分は昔ゴーゴリの『肖像画』という短篇を訳したことがある。あの中には文学や芸術を以て身を立てようとする人の教訓になりそうなことが書いてあったから、折があったら読んでみなさい」と言った。

また二葉亭は、若くて文学に志す人は、自分の親兄弟のことなど顧みず、どんな犠牲を払っても志す方へ突進しようとするものらしい。自分の友人の矢崎嵯峨の屋なども、若い時は実に真剣に努力したものだが、その生活は気の毒をほど惨めをものであった。結局今は嵯峨の屋も生活に負けて、文学からすっかり離れた形になった、と語った。

嵯峨の屋御室(矢崎鎖四郎、数え45歳)は、明治19年24歳の時に、外国語学校の学友であった長谷川辰之助(二葉亭)の紹介で坪内逍遥に師事し、坪内の家に同居して小説の修業をはじめた。その後彼は多くの小説を書き、また金港堂、「国民新聞」、「朝日新聞」等に記者としての籍を持った。しかし生活は容易でなく、34歳のとき「国民新聞」を辞して、文筆一本で生活するようになってからは、一層困窮の度を加え、方々の下宿屋を転々として移り住んでいた。

36歳の頃、キリスト教徒となり、二度も見神の体験を持ち、人生観が明るくなった。しかし同時に文芸著作への執諸が次第に減退し、また作家としても時代に取り残された存在となった。明治37年42歳で小林とせと結婚し、かつ日露戦争開戦に当ってそのロシア語の学力を買われて、大本営幕僚事務扱いとなった。明治39年、陸軍士官学校露西亜語教官となり、長男が生れて、はじめて生活に安定を得た。この頃からほとんど小説の作を廃した。

中村は、二葉亭訪問の数日後、九段下の大橋図書館(博文館創設者大橋佐平が死の直前に創立)にでかけた。そこで彼は、二葉亭訳のゴーゴリ「肖像画」の載っている「太陽」明治30年1月号から3月号までを探し出し、借りて読んだ。それは、ある天才的な画家が、漸く世に認められて、人気が出ると、人気にまかせて濫作をはじめ、贅沢を生活を楽しむようになる。その生活が続くうちに次第に堕落して平凡な通俗画家になる、という筋のものであった。彼はそれを読んだ印象を述べ、それを終生の教訓とするつもりであるとの手紙を書いて長谷川のところへ送った。

中村の「少年行」は「早稲田文学」5月号に載せられた。

この作品は半ば彼の自叙伝であり、その生い立ち、中学生生活から上京の頃までを描いたものであるが、作中の主人公は作者その人を示す奈良原武でなく、その少年時代からの親友宮川牧夫であった。この小説は、この宮川牧夫という少年の破滅を追ったものであるが、その描写の主体は河口湖畔の貧しい農村生活と移り変りの激しい自然の描写にあり、素朴で純情な少年武の心理が中心となっていた。筆力の幼なさがそのままういういしい味となるような鮮明を効果を持っていた。

中村星湖はこの一作によって、数え年24歳で新進作家として世に知られることとなった。

この作品の発表されたすぐ後に彼は早稲田大学英文科を卒業し、この年8月から「早稲田文学」の記者に採用された。中村星湖は若い作家として最も幸福を順調な出発をした一人と見なされた。

(『日本文壇史』より)


つづく