2024年4月16日火曜日

横浜公園と山下公園のチューリップ ピークは越えているがまだまだ見応え十分 10万本のチューリップに圧倒される 2024-04-16

4月16日(火)はれ

横浜公園(スタジアム)のチューリップが見頃。10万本とのこと。圧倒される。

いまは、ピークを少し越えた辺りかも。でも、まだまだ見応えは十分。










▼こちらは、山下公園
恒例の花壇展もまだ開催中だが、写真は割愛。





万博より能登の復興を優先して下さい → 珠洲「何も変わっていない」ほぼ全域で断水続く/1次避難所になお900人 記者ルポ(岐阜新聞) / 被災地の今。この動画は珠洲ですが、あの冬の頃と景色が何も変わっていない。戦場の様な光景がいつまでも続く。(野口健) / 避難所の閉鎖、行政の弁当打ち切り、炊き出し打ち切り、一律五万の支援金すらいっこうに振り込まれない。、、、 日本どうした?そう思わずにはいられなかった。(七尾旅人) / 朝市通りの瓦礫撤去の目処は立っていません / 進まない”公費解体” 申請数は5000を超えるも解体完了はわずか”3棟”(テレビ金沢) / 能登の被災地に防犯カメラ1000台設置完了 2次避難を促進(毎日) ← 冗談かと思ったよ! ガレキとか水とかを早く!          

 

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大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問    

 

馬場孤蝶

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典 より続く

1894(明治27)年

3月12日

3月12日付け漱石の子規宛の手紙。


「・・・・・子規が『小日本』の編集主任になったのと同じ頃に、漱石は風邪をこじらせ、血痰が出てしまう。一時は結核発病かと心配もしたらしい。三月に入ってから医者の診察を改めて受け、安心したことを、漱石は三月一二日付の子規宛の手紙で書いている。

「目下は新聞事業にて定めし御多忙の事」と、子規の編集主任としての仕事をねぎらったうえで、「過日は小生病気につき色々御配慮」を子規からしてもらったことに感謝を表明している。そして「小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども」と、動揺したことを告白していたのでもあった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


「其後病勢次第に軽快に相成目下は平生に異なるところなく至て健全に感じ居候へども服薬は矢張以前の通致し滋養物も可成食ひ居候固より死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども其後以前よりは一層丈夫の様な心持が致し医者も心配する事はなし抔申ものから俗慾再燃正に下界人の本性をあらはし候是丈が不都合に御座候ヘどもどうせ人間は慾のテンションで生て居る者と悟れば夫も左程苦にも相成不申先づ斯様に慾がある上は当分命に別条は有之間敷かと存候当時は弓の稽古に朝夕余念なく候」

「死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替(かけがえ)のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ、精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候」

弓の稽古をしていて、

  弦音にほたりと落る椿かな

  弦音になれて来て鳴く小鳥かな

  弦音の只聞ゆなり梅の中

を添える。

3月12日

平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問。


「十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを聞く。うれしき人也。」


一葉の馬場孤蝶への好意的評価。

一葉は、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。一葉は孤蝶に「文学界」同人の中でも、文学的にも人間的にも、もっとも心を許すことのできる相手を見出していた。


馬場孤蝶:

本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。神田淡路町の共立学校(一葉が淡路町時代に暮らした家の前にあった)では禿木や幸田成友と同級であった。明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級であった。

卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先に訪ねて行って孤蝶を『文学界』同人に引き入れ、孤蝶は上京。本郷区龍岡町十五に住み、勉強のかたわら『文学界』の同人と交渉をもった。明治26年(1893)9月に日本中学に転職し、「酒匂川」など長編の新体詩や「流水日記」などを発表した。初めて一葉を訪ねたのは明治27年3月12日で、禿木と二人で下谷龍泉寺町を訪れた時であった。その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで、最も頻繁に丸山福山町を訪ねた一人であった。

東京を去ってからの孤蝶は、度々長文の手紙を一葉に書き送り、一葉も、孤蝶を思って次のような歌を詠む。

「ふる雨のはれせず物をおもふかな

     今日もひねもす友なしにして

よそにきく逢坂山ぞうらめしき

     われはくもゐのとほき隔てを」

3月13日

一葉、久佐賀を訪問。

14日、久佐賀に手紙を出し、物質的援助を請う。


「十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。」

「十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。例之(れいの)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。醜聞紛々。田中君の内情みゆる。」

鍋島直大の邸宅。夫人栄子とその令嬢たちが歌子に和歌の手ほどきを受けた。

田中さんが出て行かれた後一人残ってお弟子さんたちに暫く歌の数詠みの指導をする。題は三十題。みの子さんについての醜聞をあれこれと聞く。みの子さんの生活の内情が見えるようだった。

3月16日

マスネー、オペラ「タイース」、パリ・オペラ座で初演。

3月18日

一葉日記より。禿木より手紙。今月の「文学界」への寄稿は、なるべく多くの枚数を21日迄にとのこと、また馬場孤蝶からの伝言として、学校のことで忙しく落ち着いたら伺うとのこと。

3月20日

ハンガリーの革命家ラヨシュ・コシュート、トリノで没。

45年間亡命。ブダペストでは、宗教選択の自由、教会に依存しない結婚法を求める運動激化。4月2日、葬儀。民族大デモとなる。

3月23日

子規『一日物語』(『小日本』連載)。虚子が口述筆記。


「「月の都」に次いで居士は『一日物語』という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨憺たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹(あと)が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥(たしか)に首肯し得るものであったが、『一日物語』は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないあと思われるところがある。当時学業を一擲(いってき)して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携わっている居士としては、小説に思(おもい)を凝しているような時間を持合せなかったのであろう。」(柴田宵曲『評伝正岡子規』)

3月25日

半井桃水から一葉宛葉書。

一葉は下谷龍泉寺町の小店をたたんで、作家生活に戻ろうとした時、再び桃水を頼ろうとし、訪問について問い合わせ、桃水は「御出を御待ちすると返書する。


3月26日

一葉、転居費用調達と桃水訪問

父の代に多額の貸金が神田のかまぼこ屋遠州屋に50円の借金を申し込む(結果、15円が送られてくる)。

次に、母の許しを得て桃水を訪問。「うれしとも嬉し」と書くが、桃水は病床にあり、存分には話はできず。

翌27日、萩の舎に中島歌子を訪ね、月2円で助教をするよう依頼される。

28日、母は西村に借金を申し込む。

4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰う。


「二十六日 半井ぬしを訪ふ。「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。年比(としごろ)のうき雲、唯家(いへ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し。まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。此日空(そら)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき。午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。」

((三月)二十六日。半井桃水先生をお訪ねする。これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まったし、また、「この人の助けがあれば、一段と好都合になるだろう」

と母上も言って下さったからです。母卜のこの言葉で、ここ数年来心にかかっていた浮雲が、たとえ家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも言いようがないほど嬉しい。まずお手紙をさしあげてご在宅の有無をお尋ねすると、

「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」

とのご返事があったのです。

この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかったのです。午後からでかける。桃水先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていませんでした。

「あなたとお別れしてからというものは、ひと月とても元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」

とおっしゃる。本当にお気の毒に可哀相に思ったのでした。お話なさるのもひどくお苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。)

「二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。その序(ついで)に我上(わがうへヘ)をも、「いかで斯道(このみち)に尽したらんには」など語らる。「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(あること)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。」

(二十七日。萩の合に中島先生をお訪ねする。三宅花圃さんの発会披露の歌会が昨日の筈であったが、本人の病気でしばらく延びたとのこと。その序に私にも歌道に励んではどうかなどと話される。

「私のこの『萩の舎』の号をそのまま譲って、私のなき後のことを頼むことが出来るような人は、今の門下の中には一人もいないので、もしあなたが引き受けてくれたらね」

などと都合のよいことをおっしゃる。熱心にしきりにこのことをおっしゃるにつけても、かねて私も想像していた事ではあるのですが、そのことは口にも出さず、色々と他の話に紛らして帰る。)


「二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(かへり)、西村に立よりて、我(わが)中島の方へ再度(ふたたび)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(すぐ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(かず)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。」

(二十八日。母上は音羽町の佐藤梅吉氏に金策を頼みに行かれる。むずかしそうだったので、帰りに西村の所に寄って、私が萩の合に再び戻るようになった事を話して金策を頼まれる。すぐにはむずかしそうに思われたということでしたが、母上の帰宅後、すぐに、車を飛ばして釧之助氏が来られて金額のことを尋ねなさる。これは自宅では母親に気がねなきったからでしょうか。)

3月27日

陸奥外相の青木駐英公使宛私信。国内情勢切迫し、これを沈静化させるためにには「何か人目を驚かす事業」をする必要あり、「唯一のめあては条約改正」と述べる。

「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫」して、「政府ハ到底何力人目ヲ駕カシ候程ノ事業ヲ成敗ニ拘ハラズ為シツツアル事ヲ明言スルニアラザレパ、此騒擾ノ人心ヲ挽回スべカヲズ」と強調し、「内政ノ関係ヨリ強テ外交ノ成効ヲ促シ候ハ、稍本末未相違ノ嫌ナキニシモアヲザレドモ、時勢ガ時勢故実ニ不得己ノ次第」と指摘し、「故モナキニ警ヲ起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ昆ハ条約改正ノ一事ナリ」と結論し、「最早ペンベント永引候事ヲ容レザルノ形勢」である述べる。だが、ショウ事件で不利な地位に立つ日本は、露仏と協同して東洋でのイギリスの地位を孤立させる事はしないとの「ポリチカールコンセッション」を与える。イギリスは満足し、改正交渉はここから軌道にのる。


つづく

品濃中央公園まえの八重桜並木が見頃 ドウダンツツジ アーモンド モミジの花 2024-04-15

 4月15日(月、昨日)はれ

横浜市戸塚区の品濃中央公園まえの八重桜並木が見頃。まだ、満開ではない。

殆どが関山(カンザン)だが、異なる品種も少し混ざっている。

道路反対側の染井吉野はほぼ終わっているが、痕跡とはいえ同時に見られるのは珍しい。




▼ドウダンツツジと八重桜のツーショット


▼アーモンド

▼モミジの花
携帯でもここまで撮れるんだね


2024年4月15日月曜日

リニア・万博・インパール → 「万博の華」のパビリオン、20か国減の40か国程度の見通し…返上の予定地は「芝生の広場」に(読売) / 万博が千博、百博、十博に没落していく。メンツにこだわり、愚行を続けた維新の政治家や関西経済界のお偉方こそ、反面教師として陳列し、世界の人々の教訓とすべき(山口二郎)   

政治家が隠していた裏金と生活苦の「別世界」(小林美穂子 毎日);「庶民は悪いことをしたら捕まりますし、税金逃れをすれば摘発されます。ところが政治家はなにをやってもよくて、裏金をたくさんためておいて「税金は払いません」と言います。それで、おとがめがありません。」 / 258円の万引きで逮捕された女性 / 無人駅の運賃箱から20円盗んだ疑いで逮捕の65歳無職(TNCテレビ西日本)   

岐南町長選挙で後藤友紀さんが当選、初の女性町長に ハラスメント問題で前任者辞職(中日新聞) / 岐南町長選で後藤氏初当選 初の女性町長、セクハラ問題で前町長辞職(朝日) / 笠岡市長選 栗尾氏が初当選 激戦制し初の女性市長に(山陽新聞)   

「フザケルナ!」萩生田光一氏が自民安倍派で総スカン 裏金処分でのズルい立ち回りはもう限界(日刊ゲンダイ) / 共同通信 久江雅彦氏 「萩生田さんの裏金処分が軽いのは、ハッキリ言って森さんに忖度したからです、今は派閥はないけれど、いずれ派閥のようなグループが出来上がる、その時に『トップは萩生田さんがいい』と森さんが言ってるというのは永田町では有名な話」 / 読売テレビ高岡達之氏 「(萩生田氏の裏金処分が軽かったのは)若手議員の面倒見がいいからです、面倒見がいい人は生き残る」

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

 

楊斎延一 作「銀婚式大典之御儀式」

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)  より続く

1894(明治27)年

3月

子規、挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。


「不折と『ホトトギス』との、さらには彼が『吾輩は猫である』の挿絵画家となる縁は、すべてここに始まる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

3月

松山で野間叟柳ら松風会を結成。

3月

この頃、漱石は菅虎雄に付き添って貰って北里柴三郎のもとを訪ねている。この頃、漱石は神経衰弱で憔悴しているうえに血を吐いた。漱石は結核ではないかと心配した。結核は兄2人の命を奪った難病であり、いつ自分も襲われるかもしれない恐怖を抱いた。


学生時代のことであるが、或る時夏目君がどうも自分は胸が悪いのぢやないかと心配だから北里柴三郎氏に診て貰ひたいと思ふが一人で行くのは何だから君一緒に行つてくれないかとのことで、当時北里氏は多分芝山内に居られたと思ふが、その北里氏のところへ一緒に行つたことがある。その時の診断は胸の方は一向別状はないとのことであつたが、今から想像すると実は胸の病気ではなくて胃潰瘍でも悪くてそのため血でも吐かれそれを考へ違ひされて心配されたのではないかとも思ふ。尚京都へ来て一緒に叡山へ登つた時も途中で胃が痛み出し、しばらく休んでから峠の茶屋で湯を呑んで直つたこともあつたが、胃潰瘍は単に晩年に始まったものでなく、ずつと以前学生時代から悪かつたのではないかと考へられるのである。

(「夏目君の書簡」 『漱石全集』月報、第7号、昭和3年9月)

3月

人民党ジェイコブ・コクシー、ワシントンへ向けて失業者行進組織。失業救済を求めオハイオ出発。延べ参加者10万人。5月1日、先陣400人、ワシントン到着。弾圧。

3月

トーマス・マン(18)、故郷リューベックで学校を中退、母弟妹が移り住んだミュンヘンに行く。

3月

ワルシャワ、王国ポーランド社会民主党第1回党大会。非合法。

3月1日

第3回臨時衆議院議員選挙。

自由党、81→119人と躍進。石阪昌孝当選(3回目)。先に議員除名された星亨(栃木1区)、死傷者を出す選挙戦に勝ち、帰り咲く。

民党:自由党119・改進党48・計167(過半数上回る)。吏党:立憲革新党37・国民協会26・無所属70・計133。

対外硬派の国民協会は66→26人に激減するが、対外硬派全体は尚130名を擁する。

3月1日

一葉日記より


三月一日 『文学界』十四号来る。・・・

(「花ごもり」其1~其4、『文学界』第14号に掲載)


二日 曇り。かしらなやましくて終日(ひねもす)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(しらせ)なり。

(三月一日に行なわれた衆議院議員臨時総選挙の開票速報。)


3月5日

英、第4次グラッドストン内閣崩壊。第2次アイルランド自治法不成立原因

3月6日

高野房太郎(25)、米労働総同盟サミュエル・ゴンパース会長に手紙を書く。以後、数回の往復書簡。

3月9日

日本初の記念切手、発行(天皇成婚25年)。

3月9日

明治天皇大婚二十五年祝典の日。小雨の中を市中はお祭り気分でにぎわう。柳橋の料理屋・船宿・芸妓連中は、大川に数十艘の伝馬船を浮べ、力持にその上で軽業を披路させ、終日花火を打ち上げた。鉄道馬車会社は一輌の馬車を青葉で飾って両面に菊の紋章をつけ、銀で「奉祝銀婚」という四つの文字をあらわし、屋根には大小の国旗をなびかせ、車中では市中音楽隊の奏楽を行い、二頭の白馬にひかせて新橋・浅草間を往復した。下町一帯の大きな商店も、趣向をこらした飾りつけをきそった。二重橋前では午前に百一発の祝砲がはなたれ、夜は「奉祝万歳」の仕掛け花火があげられた。

漱石はといえば、心身ともに衰弱し、市中のお祭りさわざをよそに、大学の寄宿舎にほど近い上野池ノ端をひとりで雨に打たれながら散歩した。


「実は去る二月初め風邪にかゝり候処其後の経過よろしからず、いたく咽喉を痛め、夫より細き絹糸の如き血少々痰に混じて喀出仕り候故、従来の○○と○○と両方へ転んでも外れさうのなき小生故、直ちに医師の診察を受け候処、只今の処にては心配する程の事はなく、・・・・・。尤も人間は此世に出づるよりして日々死出の用意を致す者なれば、別に喀血して即席に死んだとて驚く事もなけれど、先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得、医師の忠告を容れ精々摂生致居候。

何となう死に来た世の惜まるゝ」(明治27年3月9日付山口県山口高等中学校菊池謙二郎宛)

3月9日

一葉日記より

九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。


(明治天皇・皇后の大婚二十五年の祝典。則義の弟喜作の次女。長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。)

3月10日

金玉均ら(和田延次郎、刺客洪鐘宇が同行)、東京発。26日神戸発


つづく


【小池都知事学歴詐称問題】「カイロ大学声明文」以外にもあった、もう一つの〈隠蔽工作〉(2024.4.16 黒木亮) / 舛添要一氏〝経歴詐称疑惑〟小池都知事に40年前感じた違和感「彼女はヘラヘラっと笑って…」(東スポ) / 【小池都知事学歴詐称問題】告発者たちとカイロ大学の言い分は、なぜ真っ向から食い違うのか?(2024.4.15 黒木亮) / 若狭勝氏 小池百合子都知事の学歴詐称騒動が刑事事件になる可能性を指摘「私文書偽造罪が考えられる」(東スポWEB) / エジプト軍閥の“子飼い”小池百合子の運命③ エジプトへの個人的な見返り、日本人の血税300億円(特別寄稿)(浅川芳裕2020-7-4) / 小池百合子都知事が、自分の学歴詐称疑惑を否定する声明を出してくれたカイロ大学にお礼の表敬訪問をし、都政と関係ないカイロ大学への無償援助の拡大を表明。これまでもカイロ大学に300億円に及ぶ教育援助の口利き役を、という記事 / 「小島さん、ついにやったんだ」小池都知事・元側近の“学歴詐称工作”告発で都庁は大騒ぎ(文春オンライン) / 小池百合子都知事「学歴詐称疑惑」再燃!元側近が証言も…大手メディアはスルーか?(日刊サイゾー) / 小池百合子都知事の学歴詐称疑惑に元同居人が覚悟の実名証言(前篇)(後篇) / 小池都知事「元側近」の爆弾告発「私は学歴詐称疑惑の“隠蔽工作”に手を貸してしまった」(文春オンライン) / 「私がカイロ大声明を発案した」 小島敏郎 元都民ファーストの会事務総長(月刊文藝春秋5月号掲載) / 

 

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小池都知事「元側近」の爆弾告発「私は学歴詐称疑惑の“隠蔽工作”に手を貸してしまった」】 
 「カイロ大学声明」を作った元ジャーナリストのA氏  
そんなある日、神宮外苑再開発について、ある人物と情報交換をしている時のこと。
問わず語りに小島氏が自分の苦悩を口にすると、相手からこう尋ねられたという。 
「小島さんには、小池さんと戦う気持ちがあるか」  
その人物は、表には出ていないが小池都知事のブレーンを務めていた元ジャーナリストのA氏だ。
そして、彼は小島氏に打ち明けた。 
 「実は駐日エジプト大使館のフェイスブックに上げられたカイロ大学声明は、文案を小池さんに頼まれ、私が書いたんです」 
 「カイロ大学声明」は、カイロ大学が作成したものではなく、小池氏がA氏に依頼して作ったものだったのだ――。
さらに、エジプト大使館のサイトに声明文を掲載することをアドバイスしたのもA氏だった。

 


  

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2024年4月14日日曜日

紫蘭開花 ハナミズキ開花 八重桜と染井吉野のツーショット 花水木と八重桜のツーショット モミジの花開く 2024-04-14

4月14日(日) はれ

自宅周辺を少し徘徊。

▼季節の移ろい、速いもので、3日ほど前からもう庭の紫蘭が開花し始めた。(ピンボケ失礼)     

 
▼近くではハナミズキも咲き始めた。


▼いま盛りの八重桜と名残りの染井吉野のツーショット

▼こちらは、いま盛りの八重桜と咲いたばかりのハナミズキとのツーショット

▼モミジの花も咲き始めた

▼これはナニ? アーモンドにしては遅すぎるし、、、? いま、一つ二つ咲き始め



大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)  

 

樋口一葉(羽石光志画)

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号) より続く

1894(明治27)年

3月

行き詰った一葉(22)の心の内。

感想「いはでもの記」(塵之中日記(ちりのなかにつき)、表書年月「二十七年三月」。署名「樋口夏子」。)。日付のない感想文。当時の逼迫した生活の苦しみが感じられる。

「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。すめる家は追はれなんとす。食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。かくていかさまにならんとすらん。死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か」

(したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。今住んでいる家も追われようとしている。食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。こんな調子では一体どうなるのだろうか。のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。何とも俺しい限りです。)


「日々にうつり行(ゆく)こゝろの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭(こたん)の水の月をうかペるごとならんとすらん。愚かなるこゝろのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ行末をもおもはで、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。

こゝろはいたづらに雲井(くもい)にまでのぼりて、おもふ事はきよくいさざよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(ただ)嵐の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を月花(つきはな)におくらんとす。


(日々に移り行く心は、一体いつになったら本当の悟りを得て、水に澄む月のような心境になれるのでしょうか。愚かな私の心は時の流れとともに移り変わり、何か事あるたびに揺れ動いて、悲しい時はただもう悲しいばかり、おかしい時はただもうおかしいばかりで、過去を忘れ未来を思わず、その場限りの生き方をしているのは、本当に情けない思いです。

心は雲の上まで高く登り、清くいさざよい事ばかりを考え、人の恐れる死というものも塵のようにはかないものとあきらめて、山桜が散るようにやがて死ぬのは道理だと思えば、嵐もそれ程恐ろしいこともない。このように死ということを覚悟した上で、浮世を風流に楽しく生きて行こうと思うのです。)

「ひとへにおもへば、其(その)いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。さる物から、おもふまゝを行なひておもひのまゝに世を経んとするは、大凡(おほよそ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはゞかりて、心は悟らんとしつゝ、身は迷ひのうちに終るらんよ。あはれはかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし。君といふ、そもそも偽(いつわり)也、臣といふも、又偽也。いつはりといヘども、これありてはじめて人道さだまる。・・・」


(よく考えてみると、昔の賢人たちもこのことを願っていたのでしょう。そうは言っても、思うままを行って思うままに暮らそうとするのは誰でも願うところですが、そうも出来ないので、大方の人は自分の考えを曲げて遠慮し、心では悟ろうと努力しながらも現実には迷いのなかに一生を終わるようです。本当にはかない事です。この虚無の人生には君とか臣とかの区別はないのです。君といっても仮のものです。臣というのも仮のものです。しかし仮のものとは言っても、現実にはこれがあって、人の生きる道がきまっているのです。

(このように無の中に有が生じ、一つの道がはっきりとなってくるので、この人間世界で何かをしようとする者は、必ずこの人道に頼らねばならないのです。天地を心のうちに呑み込み、有も無も手のうちに納めたとしても、実行されない誠は、人は見ようと思っても見ることは出来ない。自分だけは清らかであっても、それを感じるのは人の心であって耳ではないから、放言高論しても何の甲斐もない。))


(世には文章家という者がいて、美辞麗句をつらねたり、和歌俳句を上手に作る者がいる。また弁士といって悲歌憤慨の強い言葉をつらねて一時の感動を与える者もいる。しかしこれらは人形使いが人形を操って人の目を楽しませるようなもので、ただ一時的な喜びにしかすぎない。一時的な感動はやがて消えてしまうものです。一代にわたりさらに百代にまで残るようなことをと願っても、それは自分自身の問題であって人の問題ではない。従って自分が清潔だからといって他人をけなすのはまあよいが、人のことを批判するばかりで自分の誠を示そうとしないのはよくない。まして国政をそしり、大臣をけなし、大家や知名士の非を指摘し非難しても、相手は著名人でもありこちらは一小批評家にすぎないのだから、何の役にも立たない。心には天地の誠を抱いていたとしても、身は一生涯気違いということで終わってしまえば、人に対しても社会に対しても何の効果もないことになってしまうでしょう。これでは清らかな人生と汚れた人生と、どちらが優れていると言えるのでしょうか。だから昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。)


(務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。それが滾々(こんこん)として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。自分一身の欲を捨て楽しみを捨てて初めて自分の思うままの人生を生きて行けるのです。花も実も初めから得ようとすると、とても得られるものではないと書き残した人もあるのです。机上の理論ももちろん虚ではない。しかしそれが実行にまで熟さなければ実とは言えない。理論家には実行が伴わず、実行家には言葉がない。言葉が無いとはいっても行いの結果ははっきりと現れているのです。)


「・・・四時(しいじ)の順環(じゆんくわん)、日月(にちげつ)の出入(でいり)、うきよはひとりゆかず、天地はひとり存せず。地に花あり、天に月あり。香(か)は空(くう)にして、色は目にうつる。あれも少(せう)とし難く、これも大とはいひ難し。されば、人世(じんせい)に事を行はんもの、かぎりなき空(くう)をつゝんで、限りある実(じつ)をつとめざるべからず。・・・」


((しかし、その行いを百代の後に残しても、結局は虚であり、無なのです。天地の誠はこの虚無意外にはないのですが、人生の誠は道徳仁義であって、それ以外にはないのです、こちらを尊んであちらを棄てるのは愚かであり、あちらを取ってこちらに背くのもよいとはいえない。虚は空であり、実は実存です。無は裏であり有は表です。)

季節の巡りや日月の出入りを見てもわかるように、人生も天地も、それだけが勝手に動いているのではない。地には花があり天には月がある。花の香りは空に流れ、月の色は目に映る。そこには大小の差はない。だから人生で何かを行おうとする者は無限の空を内に抱いて、有限の実を行うのです。

(一時の勇気にはやるのは決して本当の勇気とはいえない。一人で一人の敵を打ち殺したといっても全軍にどれほどの効果があるといえるのでしょうか。一人で十人の敵を打っても十分とはいえない。一人で万人の敵に当たるのがあの孫子呉子の兵法です。奇も正もその兵法の中にあるのです。その変化運用の妙味は天地を包んでしかも天地の法則からはなれていない。これを知ることの出来る者は偉大な傑人となり、知ることの出来ない者は名もない狂人となる。だから法は奇であって濁ではない。清流は昔から今に至るまで一貫して流れている。思えば聖者の行いが水の流れのようにとどこおるところがないのは、まことに羨ましい限りです。

一首の歌に托してみました。))

3月初め(下旬?)

一葉、廃業決意の心境。塵中(ちりのなか)につ記。表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」。

「わがこゝろざしは国家の大本にあり」。憂国の志士のような高唱。

日清戦争前夜の日本は国家的な危機感に包まれていた。一葉もその危機感から自分が和歌の改革に挺身する決意を、危ぶまれる国家の根本の建て直しのために働くのだと述べて、明治27年3月初めの「塵中につ記」に記す。

近代的自我意識に立ち、踏みにじられる者の怒りをこめ、社会のあり方に不信をつきつける、毅然とした姿勢を示す。


「国子はものにたえしのぶの気象とはし。この分厘にいたくあきたる比(ころ)とて、前後の慮(おもんばかり)なく、「やめにせばや」とひたすらすゝむ。母君も、「かく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといヘビも門構への家に入り、やはらかき衣類(きもの)にてもかさねまほしき」が願ひなり。されば、わがもとのこゝろはしるやしらずや、両人(ふたり)ともにすゝむる事せつ也。されども、年比(としごろ)うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方(どこ)より一銭の入金(にうきん)もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるペからず。さらばとて、運動の方法(てだて)をさだむ。まづかぢ町なる遠銀(鍛冶町の遠州屋石川銀次郎)に金子(きんす)五十円の調達を申しこむ。こは、父君存生(ぞんじよう)の比(ころ)より、つねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法(しやうはう)手びろく、おもてを売る人にさへあれば、「はじめてのことゝて、つれなくはよも」と、かゝりし也。此金額多からずといヘども、行先(ゆくさき)をあやぶむ人は、俄にも決しかねて、「来月、花の成行にて」といふ。


(邦子は辛抱する気性が乏しい。この一銭一厘の僅かの利益の商売にはすっかり飽きはてたといって、前後のこともよく考えずに店を閉じることばかりをしきりに勧める。母上もこんな塵の中の世界に埋もれているよりは、小さくとも門構えの家に住み、柔らかな衣服を身につけて生活したいのが願いでしょう。だから、私の本心を知っているのか知らないのか、二人とも熱心に店を閉じようという。しかしここ数年来家の衣類家財は殆ど売り尽くし、お金も借り尽くしてしまった後のことなので、店を閉じた後は一銭の収入もないことを思うと、ここは十分考えねばならない。そこで皆でその対策の方法を考える。まず鍛冶町の遠州屋石川銀次郎氏に金五十円の調達を申し込む。これは父上の存命中の頃からいつも二、三百円のお金は貸しておいた人であり、商売も手広く、また顔役の人でもあり、これまでは貸金を取り立に行ったことはあっても、こちらから借金を申し込むのは初めてのことなので、すげない返事はまさかあるまいと思って申し込んだのです。この金額はそれ程多くはないといっても、先のことを心配する人としては急にも決定しかねて、来月花の頃の商売の成りゆきを見た上で決めようということになった。)

「おもひたつことあり、うたふらく、

      すきかへす人こそなけれ敷島の

        うたのあらす田(だ)あれにしを

いでや、あれにしは敷島のうた斗(ばかり)か。道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子(おなご)の何事を思ひ立(たち)たりとも及ぶまじきを知れど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。かすか成(なり)といヘども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生(ししやう)いとはず天地の法(のり)にしたがひて働かんとする時、大丈夫(ますらを)も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本(おほもと)にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期(ご)す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘(ふんりん、僅かな利益)のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。


(*「しき島の歌のあらす田荒にけりあらすきかへせ歌の荒樔田」(香川景樹)。)

(・・・荒れてしまったのはこの和歌の道ばかりではない。道徳はすたれ、人情は紙のように薄くなり、政治家も一般の人も私利私欲ばかりを追及し、国家の発展を考える者もなく、世の中はどうなるのでしょうか。力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないことは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えない者ではない。たとえ僅かでも人間の心を持っている者が、生涯の情熱をそそいで、死をもいとわず、天地の法則に従って働こうとする時、賢人であろうと愚者であろうと、また男であろうと女であろうと何の区別があるでしょうか。この私を笑いたいものは笑い、謗りたいものは謗るがよい。私の心は既に天地自然と一体になっており、私の志は国家の大本にあるのです。力及ばず倒れ、私の屍は野に棄てられ痩犬の餌食となっても、それは望むところです。どんな努力をし苦労をしたからといってその報酬を求めているのではないので、私の進む道は前後左右に広々としているのです。だから今のような僅かの利益を求めて争う商いの道にこの身を束縛しておくべきではないのである。その時その時の処世の術は風の前の塵のように変わるものです。何も心配することはないと考えて、この商売の店を閉じょうと決心したのです。)


透谷の影響と共感

一葉は、『女学雑誌』『文学界』を読んで、北村透谷の「人生に相捗るとは何の謂ぞ」(『文学界』明治26・2)、「内部生命論」(同5)などの詩や評論を読んでいたと思われる。

透谷は、精神の道義を失った「今の時代に沈厳高調なる詩歌なき」ことを嘆き

「噫詩人よ詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は陋小なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ能く歌ひ能く罵り能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須(すべか)らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし」(評論「漫罵」(明治26・5))

と伝統に甘んじる和歌、俳句などの「詩人」を批判。

一葉は、この詩人批判を共感をもって読んだと思われる。一葉は既に、「心をあらひめをぬぐひて誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ、いさゝかの井のうちにひそまりて、これより外に世はなしとさとりがほなるを人より見んにいか斗(ばかり)をかしからぬ」(「よもぎふにつ記」明26・2・9)と、歌人の閉鎖的、旧套的姿勢を批判している。


つづく


2024年4月13日土曜日

大船フラワーセンター 八重桜満開(イチヨウ、ウコン、オオチョウチン、キリガヤ、イモセ、オウショウクン、ショウゲツ、センリコウ、フゲンゾウ、シロタエ、ギョイコウ) ボタン(千鳥の舞) シャクナゲ ツツジ(ケラマツツジ) 2024-04-13   

 4月13日(土)はれ

いま、大船フラワーセンターの八重桜が満開。花にもよるが、全体的にはピークかピークを少し超えたかくらいのところではないだろうか。

これから、ツツジ、シャクナゲの系統、ボタン、シャクヤクの系統がドンドン花開いて行くのだろう。

季節のうつろいも、なかなかせわしい。



▼一葉(イチヨウ)


▼鬱金(ウコン)

▼大提灯(オオチョウチン)

▼桐ケ谷(キリガヤ)

▼妹背(イモセ)

▼王昭君(オウショウクン)

▼松月(ショウゲツ)

▼千里香(センリコウ)

▼普賢象(フゲンゾウ)

▼白妙〈シロタエ)

▼御衣黄(ギョイコウ)
大木。見応えあります。


▼ボタン(千鳥の舞)
他にも少し開花あり。シャクヤクはまだでした。

▼シャクナゲ、ツツジ


▼ケラマツツジ