2025年2月13日木曜日

大杉栄とその時代年表(405) 1902(明治35)年7月19日~31日 「この時老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。」(子規『病床六尺』)

 

「七月廿八日曇 枝豆 アゼ豆トモイフ 碧梧桐ト話シナガラ画ク」(子規『果実帖』)

大杉栄とその時代年表(404) 1902(明治35)年7月5日~18日 「女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうではない、やはり普通学の教育をいふのである。女子に常識を持たせようといふのである。高等小学の教育はいふまでもない事で、出来る事なら高等女学校位の程度の教育を施す必要があると思ふ。」(子規『病牀六尺』) より続く

1902(明治35)年

7月19日

この日の子規『病牀六尺』(六十八)。


「○この頃の暑さにも堪(た)へ兼(かね)て風を起す機械を欲しと言へば、碧梧桐の自(みず)から作りて我が寐床の上に吊つりくれたる、仮(かり)にこれを名づけて風板といふ。夏の季にもやなるべき。

       風板引け鉢植の花散る程に

 先つ頃如水(じょすい)氏などの連中寄合ひて、袴能(はかまのう)を催しけるとかや。素顔に笠着(き)たる姿など話に聞くもゆかしく

      涼しさの皆いでたちや袴能

 総選挙も間際になりて日ごとの新聞の記事さへ物騒がしく覚ゆるに

      鹿を逐(お)ふ夏野の夢路草茂る

(七月十九日)」


7月22日

この日の子規『果実帖』、「七月廿二日晴 天津桃」

7月23日

の日の子規『果実帖』、「七月二十三日雨 甜瓜一ツ」

7月24日

この日の子規『果実帖』、「七月二十四日雨 西洋リンゴ一 日本リンゴ四」

7月24日

この日の子規『病牀六尺』(七十三)。


「○家庭の事務を減ずるために飯炊会社を興して飯を炊かすやうにしたならば善からうといふ人がある。それは善き考である。飯を炊くために下女を置き竈(かまど)を据ゑるなど無駄な費用と手数を要する。われわれの如き下女を置かぬ家では家族の者が飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要する故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事が出来るといふと、それがために飯が焦こげ付くとか片煮えになるとか、出来そこなふやうな事が起る。それ故飯炊会社といふやうなものがあつて、それに引請けさせて置いたならば、至極(しごく)便利であらうと思ふが、今日でも近所の食物屋に誂(あつら)へれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取る事もあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いものと見えて、家族の女どもは、それを厭ふてなるべく飯を炊く事をやる。ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少くて困るやうな時に無理に飯を炊かうとするのは、やはり女に常識のないためである。そんな事をする労力を省いて他の必要なる事に向けるといふ事を知らぬからである。必要なる事はその家によつて色々違ふ事は勿論であるが、一例を言へば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折つた方が、よほど飯は甘美(うま)く喰へる訳である。病人のある内ならば病床について居つて面白き話をするとか、聞きたいといふものを読んで聞かせるとかする方がよほど気が利いて居る。しかし日本の飯はその家によつて堅きを好むとか柔かきを好むとか一様でないから、西洋の麺包(パン)と同じ訳に行かぬ処もあるが、そんな事はどうとも出来る。飯炊会社がかたき飯柔かき飯上等の飯下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数の内などは内で炊くよりも、誂へる方がかへつて便利が多いであらう。

(七月二十四日)」


7月25日

この日の子規『果実帖』、「七月二十五日晴 初冬瓜 莢隠元三度豆」

7月26日

この日の子規『果実帖』、「七月二十六日曇 李 此李ハ不折留学宅ヨリ贈ラル其庭園中ノモノナリ」


7月26日

この日の子規『病牀六尺』で、改めて子規は兆民について書く。


「正岡子規の随筆『病牀六尺』は、明治三十五年(一九〇二)五月五日より九月十七日まで、百二十七回にわたって『日本新聞』に連載されたものである。高浜虚子の俳話集『俳諧馬の糞』(俳書堂、明治三十九年)の中に、虚子の「俳諧日記」なるものが収められているが、それを見ると『病牀六尺』が、折々、虚子によって「筆記」(口述筆記)されていたことが窺われる。・・・・・

(略)

明治三十五年七月二十六日の『日本新聞』には『病牀六尺』の第七十五回目が掲載されているが、その中に、左の一節が見える。


兆民居士(こじ)が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居(お)つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽(たのし)んでといふやうな楽むといふ域には至らなかつたかと思ふ。(中略)居士をして二三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の墳涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。


子規は、境涯が似ているということもあり、中江兆民、そしてその著作『一年有半』に大きな関心を示している。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))


7月26日 子規『病床六尺』(七十五)


「○或人からあきらめるといふことについて質問が来た。死生の問題などはあきらめてしまへばそれでよいといふた事と、またかつて兆民居士(ちょうみんこじ)を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着(どうちゃく)して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩(ひゆ)を以て説明するならば、ここに一人の子供がある。その子供に、養ひのために親が灸(きゅう)を据(す)ゑてやるといふ。その場合に当つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。もしまたその子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずるままにおとなしく灸を据ゑてもらふ。これは已にあきらめたのである。しかしながら、その子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅(わずか)にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出来んのである。もしまたその子供が親の命ずるままにおとなしく灸を据ゑさせるばかりでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が『一年有半(いちねんゆうはん)』を著(あらわ)した所などは死生の問題についてはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽しんでといふやうな楽しむといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病気になつて後頻(しきり)に義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

(七月二十六日)

「子規がここでいう、「夫の天命を楽し」む境地とは、儒教の経典の一つ、『易経』の「天を楽しみ、命を知る、故に憂えず」の一節を意識したのであろう。さらに、言えばこうした儒学的「楽」の概念を、より一般に具体化して紹介した書物に儒学者貝原益軒の『楽訓』がある。江戸時代のベストセラ-であった益軒本の影響力は、明治半ばに至っても、まだ教護層には残っていたようで、子規の在籍する新聞『日本』とは提携関係にあり、子親も意識したはずの政教社の志賀重昂のベストセラー『日本風景論』(明治二十七年)の扉にも、『楽訓』の一節は引かれ、外なる欲望の刺激による楽しみでなく、内なる楽しみの好例として、風景を愛し、それを詩歌に詠む日本の伝統を賞揚していた。

子規は、こうした先賢の言を意識しながら、病を受け入れつつ、病の中でも楽しんで生きる境地を模索し、得ることができた、と言いたいのである。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))

7月26日

福井新聞に職を得た佐藤紅緑が子規に暇乞いにやって来る。

7月27日

この日の子規『果実帖』、「七月廿七日曇 越瓜 シロウリ」

7月28日

この日の子規『果実帖』、「七月廿八日曇 枝豆 アゼ豆トモイフ 碧梧桐ト話シナガラ画ク」

7月28日

米政府,フランスのパナマ運河会社の権利を買収.

7月30日

この日発行の「ホトトギス」第5巻10号「消息」欄に碧梧桐が子規の病状と日常について報告。


「日に十句二十句を作り写生画一枚二枚を画(か)き、病牀六尺の原稿も手ずから認めらるることさえあり」


7月31日

この日の子規『果実帖』、「七月三十一日曇晴 バナナ」

7月31日

子規『病床六尺』(八十)


「○七月二十九日。火曜日。曇。

 昨夜半碧梧桐去りて後眠られず。百合十句忽(たちま)ち成る。一時過ぎて眠る。

 朝六時睡覚(さ)む。蚊帳(かや)はづさせ雨戸あけさせて新聞を見る。玉利博士の西洋梨の話待ち兼ねて読む。印度(インド)仙人談完結す。

 二時間ほど睡る。

 九時頃便通後やや苦しく例に依りて麻痺剤を服す。薬いまだ利かざるに既に心愉快になる。

 この時老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔(など)を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。

 牛乳一合、麺包(パン)すこし。

 胡桃(くるみ)と蚕豆(そらまめ)の古きものありとて出しけるを四、五箇づつ並べて菓物帖に写生す。

 午飯、卯(う)の花鮓(はなずし)。豆腐滓(かす)に魚肉をすりまぜたるなりとぞ。

 また昼寐す。覚めて懐中汁粉(かいちゅうじるこ)を飲む。

 午後四時過左千夫(さちお)今日の番にて訪(と)はる。

 晩飯、飯三碗、焼物、芋、茄子(なす)、富貴豆(ふきまめ)、三杯酢漬。飯うまく食ふ。

 庭前に咲ける射干(ひおうぎ)を根ながら掘りて左千夫の家土産(いえづと)とす。

 床の間の掛物亀に水草の画、文鳳と署名しあれど偽筆らし。

 座敷の掛額は不折(ふせつ)筆の水彩画、富士五合目の景なり。

 銅瓶に射干一もとを挿(はさ)む。

 小鉢に富士の焼石を置き三寸ばかりの低き虎杖(いたどり)を二、三本あしらひたるは四絶生の自(みずか)ら造りて贈る所。

(七月三十一日)」

「・・・・・「七月二十九日。火曜日」の被介護記録である。「昨夜半碧梧桐去りて後眠られず」と書き出され、「午後四時過左千夫今日の番にて訪はる」ともあり、弟子たちが当番制で夕方から「夜半」にかけて子規の枕元に控えていたことが、『日本』の読者に明かされる。

また、午前中の便通後に「苦しく」なったが、「麻痺剤」を服用して「心愉快にな」ったので「老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづさながら他愛も無き講談の筆記抔を読まるゝを我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最楽しき時なり」という記述は、介護者である母への感謝の公の表明となっている。

「病床六尺」の世界から一切外に出ることの出来なくなった子規は、『病床六尺』という新聞コラムの言葉を、口述筆記で書き綴ってもらうことにより、弟子たちを当番制で介護に参加させて母と妹の介護労働を軽減し、そうした日々の報告を読者へと開示し続けた。

毎日、『日本』に『病床六尺』を発表し、数日後に印刷された文字を読者と共に読むことこそが、子規にとっての「あきらめるより以上の事」、すなわち「病気を楽しむといふこと」だったのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


つづく


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