2025年2月14日金曜日

大杉栄とその時代年表(406) 1902(明治35)年8月1日~6日 「鼠骨より贈つてくれた玩器は、小さい丸い薄いガラスの玉の中に、五分位な人形が三つはひつて居る。その人形の頭は赤と緑と黒とに染分けてある。それでその玉に水を入れて、口を指で塞いで玉を横にすると、人形が上の方に浮き上つたりまた下に沈んだりするやうになつて居る。(略)露店の群がつて居る中でも、この玩器を売る店は最も賑はふ処であるさうな。実際の口上は知らぬが、鼠骨の仮声を聞いてもよほど興がある。「赤さんお上り、青さんお上り」「青さんお下り、黒さんお下り」「小隊進めオイ」などとしやべりながら、片方の手でガラスの外から糸を引くやうな真似をするのは、鼠骨得意の処である。」(子規「病牀六尺」)  

 

「八月四日 翆菊 エゾギク 伊予松山ニテハ江戸菊又ハ「タイメンギク」とイフ 又「タイミンギク(大明菊カ)トモイフ 仙台辺ニテハ朝鮮菊トイフトゾ」、「同日夕刻 石竹 セキチク」(子規『草花帖』)

大杉栄とその時代年表(405) 1902(明治35)年7月19日~31日 「この時老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。」(子規『病床六尺』) より続く

1902(明治35)年

8月

横浜正金銀行、漢口出張所設置。

8月

谷中村大洪水。北方の赤麿沼に接する85間の堤防決壊。

8月

政府、上海撤兵を英・独・仏3ヵ国に提議。

8月

愛媛県今治町でコレラが流行。西日本一帯に蔓延。

8月

宮崎滔天(31)「三十三年の夢」刊行。この月、横浜・長島町の田中亭での桃中軒雲右衛門一座の公演に桃中軒牛右衛門として初出演。ついで横須賀にも巡業。

「・・・三十五年、滔天は浪曲師として身を立てようと、桃中軒雲右衛門に入門した。桃中軒牛右衛門の誕生である。この奇妙な転身には三つの理由があったようだ。

一つは、他人に寄食する浪人でありつづけることをやめ、働いて収入を得ようとしたこと。もう一つは、その語り芸によって、大衆に革命思想を広めようとしたこと。そして三つめは、ある事件による挫折感から、いったん中国革命運動の表舞台から離れようとしだことである。そしてこの最後の理由がもっとも大きかったように思う。

それは、孫文が用意した五万円余りの武器調達資金を、滔天を通して渡され、調達を任された中村弥六が着服した事件である。明治三十三年(一九〇〇年)十月に、孫文の命を受けた鄭士良が広東省恵州で蜂起し、厦門まで進軍した。このとき台湾にいた孫文は、その武器をすぐに中国に送れと滔天に打竃する。ところが前年に調達されていたはずの武器は無かっだのである。他の事情も重なってこの武装蜂起は挫折したが、武器を用意できなかった自分たちの失策は、滔天にとって大きな心の傷になったに違いない。

この事件は『萬朝報』にも書きたてられて、公にも知られることになり、滔天は内田良平らに激しく責められた。また世間には、彼自身の着服のうわさも流れた。金銭欲に遠かっだ人だけに、そのようなうわさには身を切られる思いだったはずだ。転身には、この事件の責任感と挫折感が大きく影を落としたと思う。十代の後半からまっしぐらに突き進んできた「世のため人のため」の行動が、複雑な社会の中で容易に実現しないこと。その中での自分の無力さ。大志大望に酔いがちな、若さの時代を卒業しなければならないと、滔天は自覚したのではないか。

それでもなお、浪曲によって大衆を啓蒙しようという新たな夢を持ったのである。しかし、その「労働」は少しも収入につながらず、家計の負担は相変わらず槌一人が背負ったことに変わりはない。それだけではない。師匠のぶんまでふくめ、興行の赤字の負担を、槌はたびたび背負うことになる。桃中軒雲右衛門と初めての巡業に出た三十五年七月、その巡業費用として滔天は槌に、二百円(米価換算で今の約六十万円)のお金を出させている。日々の暮らしにも事欠いていた槌は、そのお金をどこから捻出したのか。それは前田家の財産分けであった。

前田家はそのころ、案山子の長年の政治活動によって、財産の多くを失っていたが、ちょうどこの年に全財産を十分割し、そのうちの四割を、庶子をふくめた卓から下の妹弟六人で分け合うことになったのだ。卓が長年にわたって長男下学と争ってきたことが、やっと実現した。けれども熊本まで他人の土を踏まずに行ける資産家だった前田家は、このとき崩壊したのである。崩壊したことによって、滔天の浪曲師としての活動にも、中国革命の活動にも、大きく寄与することになった。槌が自分の分与分を提供しただけでなく、卓や九二四郎らもすべてを投げ打ってその活動に参加したからだ。」(「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社))

8月1日


「八月一日、子規は「果物帖」にトウモロコシを写生した。さらに、渡欧した中村不折が置いて行った画帖に「草花(くさばな)帖」と命名、秋海棠と金蓮花を、この日一枚ずつ写生した。

そのあらたな写生帖の巻頭には、つぎのように自筆した。

自分のものとして之に写生するときは、快極りなし。又其写生帖を毎朝毎晩手に取りて開き見る事、何よりの楽みなり。(原文カタカナ)」(関川夏央、前掲書)

8月1日

この日の子規『果実帖』、「八月一日晴 玉蜀黍 タウモロコシ タウキビ」

8月1日

この日の子規『草花帖』、「明治卅五年八月一日 秋海棠 シウカイダウ」、「同日 金蓮花 ノウゼンハレン 牻小児科(ゲンノショーゴ科)」


この日から始まる『草花帖』序文

「この帖は不折子よりあずかりたりと思う しかしこの頃の病苦にては人の書画帖などへ物書くべき勇気さらになし よってこの帖をもらい受くるものなり もし自分のものとしてこれに写生するときは快極りなし またその写生帖を毎朝毎晩手に取りて開き見ること何よりの楽みなり 不折子欧州より帰り来るとも余の病牀よりこの唯一の楽み(すなわちこの写生帖)を奪い去ることなからんを望む

明治三十五年八月一日 病子規

泣いて言う

写生はすべて枕に頭つけたままやるものと思え

写生は多くモルヒネを飲みてのちやるものと思え」


8月1日から20日までの間に草花17図を描いた。

8月1日

8月1日 この日掲載の子規「病牀六尺」.(八十一)


「○食物につきて数件

一、茶の会席料理は普通の料理屋の料理と違ひ変化多き者ならんと思へり。しかるに茶の料理もこれを料理屋に命ずればやはり千篇一律なり。曰(いわ)く味噌汁、曰く甘酢、曰く椀盛、曰く焼物と。かくの如き者ならば料理屋に依頼せずして亭主自ら意匠を凝こらすを可とす。徒(いたずら)に物の多きを貪(むさぼ)りて意匠なきは会席の本意に非ず。

一、東京の料理はひたすらに砂糖的甘味の強きを貴ぶ。これ東京人士の婦女子に似て柔弱なる所以(ゆえん)なり。

一、東京の料理はすまし汁の色白きを貴んで色の黒きを嫌ふ。故に醤油を用ゐる事極めて少量なり。これ椀盛などの味淡泊水の如く殆ど喫するに堪へざる所以なりと。些細(ささい)の色のために味を損ずるは愚の極といふべし。

一、餅菓子の白き色にして一箇一銭を値する者その色を赤くすれば則(すなわ)ち一箇二銭五厘(りん)となる。味に相違あるに非ず。しかも一箇にして一銭五厘の相違は染料の価なりと。贅沢(ぜいたく)に似たれどもその観の美は人をしてその味の美を増す思ひあらしむ。

一、鯛(たい)の白子(しらこ)は粟子(あわこ)よりも遥かに旨(うま)し。しかも世人この味を解せざるために白子は価廉に粟子は貴し。

一、醤油の辛きは塩の辛きに如かず。山葵(わさび)の辛きは薑(しょうが)の辛きに如かず。

(八月一日)」

8月2日

この日の子規『草花帖』、「八月二日 射干 ヒアフギ」、「八月二日 日日草 ニチニチサウ」

8月3日

フィリピン独立教会創立宣言。

8月4日

この日の子規『草花帖』、「八月四日 翆菊 エゾギク 伊予松山ニテハ江戸菊又ハ「タイメンギク」とイフ 又「タイミンギク(大明菊カ)トモイフ 仙台辺ニテハ朝鮮菊トイフトゾ」「同日夕刻 石竹 セキチク」、「八月四日夕 わすれぐさ コレハ下総結城郡ノ長塚節ヨリ送リ来シモノナリ 春ハ葉出ヅレトモ花咲ク頃ニ至レバ葉一ツモ無シ」


8月4日

この日掲載の子規「病牀六尺」.(八十四)


「○この頃病床の慰みにと人々より贈られたるものの中に

 鳴雪(めいせつ)翁より贈られたるは柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の掛図である。この図は日蓮にちれんが病中に枕元に現はれたといふ帝釈天の姿をそのまま写したもので、特に病気平癒(へいゆ)には縁故があるといふて贈られたのである。(略)いろいろな神様を祭らせてなるべく信仰の種類を多くせうとした日蓮の策略は浅墓(あさはか)なやうであるけれども、今日に至るまで多くの人の信仰を博して柴又の縁日には臨時汽車まで出させるほどの勢ひを持つて居るのは、日蓮のえらい事を現はして居る。

 鼠骨(そこつ)より贈つてくれた玩器は、小さい丸い薄いガラスの玉の中に、五分位な人形が三つはひつて居る。その人形の頭は赤と緑と黒とに染分けてある。それでその玉に水を入れて、口を指で塞(ふさ)いで玉を横にすると、人形が上の方に浮き上つたりまた下に沈んだりするやうになつて居る。(略)露店の群がつて居る中でも、この玩器を売る店は最も賑(にぎ)はふ処であるさうな。実際の口上は知らぬが、鼠骨の仮声(こわいろ)を聞いてもよほど興がある。「赤さんお上り、青さんお上り」「青さんお下り、黒さんお下り」「小隊進めオイ」などとしやべりながら、片方の手でガラスの外から糸を引くやうな真似をするのは、鼠骨得意の処である。(略)

 義郎(ぎろう)が贈つたといふよりも実際目の前でこしらへて見せた田面(たのも)の人形といふのがある。これは義郎の来る日があたかも新暦の八月一日に当つて居つたので、義郎の故郷(伊予小松)でする田面の儀式をして見せたのである。(略)

(八月四日)」

8月5日

この日の子規『草花帖』、「八月五日夕 みづひき草」


8月6日

子規、パイナップルを写生して「果物帖」を終え、巻末に、

「青梅をかきはじめなり果物帖」から

「画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな」

の5句を添える。

8月6日

この日の子規『果実帖』、「八月六日晴 鳳梨 パインアツプル アナナス」

8月6日

8月6日 この日掲載の子規「病牀六尺」.(八十六)


「○このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊(えぞぎく)を写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬやうになり、終(つい)には余りの苦しさに泣き叫ぶほどになつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復(また)写生をしたくなつて忘れ草(萱草(かんぞう)に非ず)といふ花を写生した。この花は曼珠沙華(まんじゅしゃげ)のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり画いたところが、大々失敗をやらかして頻(しき)りに紙の破れ尽(つく)すまでもと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ気合くそがわるくて堪らんので、また石竹(せきちく)を一輪画いた。これも余り善い成績ではなかつた。とかくこんなことして草花帖が段々に画き塞(ふさ)がれて行くのがうれしい。八月四日記。

(八月六日)」


つづく

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