2013年4月23日火曜日

治安元年(1021)5月~7月 平致経が起した暗殺事件に見るこの頃の武士の活動形態

江戸城(皇居)東御苑 2013-04-23
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治安元年(1021)
5月11日
・この年、左衛門尉平致経(致頼の子)と弟内匠允公親が、前年、東宮史生安行を殺害していた事実が明らかになった。

そこで5月11日、逃亡した両名追捕のため検非違使が伊勢に下向する。
検非違使らは事前に、致経らが神郡に籠るならばその由を報告して指示を仰ぎ、他国に逃去るなら跡を尋ねて追捕すべき、との別当の命を受けていた(『左経記』)。

検非違使らは、伊勢において致経の郎等を逮捕、訊問し、驚くべき自白を得た。
「内匠允公親の仰せによりて、先年一条と堀川の橋上において、滝口信乃介と云ふ人を殺害す。また、去年致経の仰せによりて、東宮の史生安行を殺害す。兼ねてまた東宮亮惟憲朝臣を殺害せんがために、三ケ夜伺ひ求むと雖も、その便無きによりて、遂げずして帰り去りをはんぬ。これ宮の下部等、亮の仰せによりて、致経が宅を切り亡ぼすの所為によりてと云々、」

郎等は東宮史生安行のみならず、以前に滝口信濃介を殺害し、また東宮亮藤原惟憲の暗殺を計画し、3日3晩機会を窺いながらそれを果たせなかったと白状した(『左経記』6月3日条)。

一条堀川の橋(戻橋)上は暗殺の「名所」で、寛仁元(1017)年2月6日にも滝口大蔵忠親が殺害されている(『御堂関白記』『日本紀略』)。

惟憲の件は、東宮亮が致経宅を「切り亡ぼ」したところに原因があった。

これは、1年前の事件のことである。
「或人云く、左衛門尉平致経年来東宮町に寄宿す。しかるに昨日夫(ぶ)を出すべきの由、彼の宮(敦良親王)の下部等来たり催す。しかるに一下部を凌(おか)して夫を出さずてへり。よりて宮の下部数十人来たりて彼(か)の□□(私宅カ)に向ひ切り損ずと云々、」(『左経記』寛仁4年2月14日条)
致経は町住人の負担である東宮夫役を拒否、催促する東宮の下部に乱暴を働いたため、報復で彼の宅が破壊された。
報復は道長の指示で行われたものであるが(『小右記目録』2月15日条)、それを怨みとして東宮史生や東宮亮に対する暗殺が計画された、という。

伊勢の検非違使は探索を続け、その過程で尾張にあった致経と従類の宅が悉く焼亡している。
探索者側による災気(当時罪と穢と禍を同一視する観念があったらしい)の除去(祓の一種)を目的とする犯人宅の焼却か、致経側の自焼か、のいずれかと考えられる。
宅の焼亡に際し、在地「古老等」は「不善の事巳にかくのごとし」と快哉を叫んだらしい。
これらの宅が「郡庁を壊却し、新たに所作」したものだったからである(『左経記』6月3日条)。

同地に住む致経の従者が京上の由を申したので、検非違使が随身して帰京し、その言にしたがって、5月28日、致経の行方を知っているとみられる藤原維佐の宅に向かった(『左経記』)。
藤原維佐は、検非違使として都の盗賊追捕に活躍した人物である(『御堂関白記』長和2年2月18日条)。
維佐の下女の話によって、さらに致経の「因縁」(縁者)左近大夫中原致行が事件に関係していたことが明らかとなり、翌6月8日、検非違使が彼を搦め取るため、故左大臣顕光の堀河院に参向した。
承香殿の女御元子の妹が小一条院の女御で、間に生まれた皇子敦貞親王の乳母の夫が中原致行という関係だったからである(『栄花物語』巻16「もとのしづく」)

この段階でも致経・公親兄弟は行方不明で、「致経・公親等の輩を打ち進(まい)らす者、その器に随ひて賞を給ふべし」との官符が七道諸国に下っている(『左経記』)。

その後、8月24日、致経は横川の法師静覚のもとに匿われていたのを、検非違使に襲われ逮捕される。
但し、検非違使は捕われたのを受領しただけで、実は維衡の子正輔によって捕われた、との風説が流れている(『小右記』)。

この事件による致経の処分は不明であるが、同年10月1日、致経は前左衛門尉という肩書で、東大寺伝燈大法師朝晴に、現在正倉院に所蔵されている「紺瑠璃唾壷」を施入しているので、解官されたのは確かである(『東大寺別当次第』)。

致経が形成していた京内外の広い「人脈」
この事件を見ただけでも、彼は敦貞親王の乳父(乳母の夫)の中原致行、横川の「有験者」法師静覚、「由縁有」るによって致経施入のガラス壷をうけとる東大寺の伝燈大法師朝晴、および彼と親縁関係にあった藤原惟佐らと関係している。
こうした「人脈」は、姻戚関係・師檀関係・同僚意識などによって成立する。

このような下級貴族・官人や大小寺院の僧侶などの間に形成される同様の「人脈」は、複雑かつ広範な広がりをもって存在し、貴族社会の暗部の伏流をなしている。
彼らはそれぞれの「人脈」の中で、情報を交換し、連帯して相互の利益を保障しあっていた。

致経は暗殺・傷害の常習犯であった。
彼は従者を駆使し、意にまかせ、敵を闇の中に葬り去っていた。
東宮亮藤原惟憲は、道長の家司として、後一条天皇乳母の典侍美子の夫として、なによりも貪欲な受領として知られた人物で、非参議正三位を極位とする貴族である。失敗したとはいえ、惟憲を「三ケ夜」にわたってつけねらった従者には、職業的殺し屋の面影がある。

これは致経のケースだけでなく、源頼光の弟頼親と従者の場合も同様であった。
寛仁元年(1017)3月、藤原保昌の郎等で、清少納言の兄ともいわれる前大宰少監清原致信が、「乗馬の兵七八騎、歩者十余人許(ばかり)」に襲撃され殺害された。
襲撃は白昼であるが、後一条天皇の石清水行幸による警備の手薄をついており、巧妙なものだった。
検非違使の訊問の結果、源頼親の従者秦氏元が襲撃の指揮者と判明する。
彼は、頼親の指令をうけて実行した。
世人は「くだんの頼親殺人の上手なり、度々この事有り」と噂しあったという(『御堂関白記』(11・12・15日条)。

致経と従者たちについての、『今昔物語集』にある説話
明尊僧正が宇治殿藤原頼通に、三井寺に使して夜のうちに戻るべしと命ぜられ、致経が突然の護衛を首尾よく果たすという著名な話。
致経は最初「賤ノ下衆男一人」だけを伴い、しかも徒立ち姿で明尊を不安がらせる。
しかし、忍び屯する騎馬の郎等を町の辻々で合流させ、帰路も同様順次解散させたので、明尊を安堵感歎させた。
この予ねて打ち合わせたかのような集合、解散は一切無言のままで行われたという。
ここには完全武装の郎等を暗夜無言のうちに駆使する致経のすぐれた兵ぶりと、「奇異(アサマシ、異様な)」い集団の姿が、情念を欠落させた簡潔な筆致で、みごとに描きこまれている(巻23)。「黒バミタル物ノ弓箭ヲ帯セル」郎等のありようは、殺し屋的従者のそれと紙一重である。

維衡と従者の場合、彼らは京都の内外で、寛仁2(1018)年と寛仁4年、闘乱傷害事件を起している。

致経の父致頼は、寛弘4年(1007)8月、藤原伊周・隆家兄弟に語らわれて、兄弟の政敵左大臣道長を殺害せんとしたという(『小記目録』)

致経と従者の主従関係。
殺し屋的な致経の従者は、主人致経と弟公親のそれぞれから殺人を命ぜられ、実行している。
『今昔物語集』の「依頼信言平ノ貞道、切人頭語」(巻25-10)という説話を参考にして、事情を類推すると・・・。

この説話の冒頭、酒宴の最中に主人頼光の弟頼信に殺人を命ぜられた平貞道が、はかばかしい返事をせず、命令をうやむやにするくだりがある。
彼が承諾を渋った理由は、
①たとえ頼信が主人の弟で 「現ニ一家ノ主也トハ云へドモ、未ダ参り仕リナドハ」していない。
それに人を討て殺せなどという大事は、本来「我レヲ宗卜憑ム人」にこそ洩らすべきである。
②頼光の郎等であるとの縁で親しさ故に言うのであれば、密かに申付けるべきなのに、人も聞く酒宴の最中に大声で言うのは愚かだ。

もし貞道が、これまで頼信に 「参り仕リナド」しており、しかも秘密に命令されたなら、彼は殺人を引き受けざるをえなかっただろう。
この説話では、頼信に「参り仕リナド」することと、彼が頼光の郎等であることの間に、矛盾はない。貞道はたまたま頼信に「末ダ参り仕リナド」していないのであって、将来そうする事態も十分ありえた。
すなわち、彼は同時に複数の主人と主従関係を結ぶ可能性を留保していた(複数の主従関係には強弱の序列がある)。

従って、致経の従者は、致経の従者であるとともに、公親ともなんらかの主従関係(「参り仕リナド」)を結んでおり、公親の命令を聞くべき立場にあった。
郎等や従者が同時に複数の主人と主従関係を結んでいることと、彼らの主人が同時に複数の顕貴な貴族と主従関係を結んでいることとの間には、明らかな対応関係がある。
こうした主従関係には、ある程度の「ルース」さがあり、それ故に、致経の従者は簡単に犯罪を自白してしまった。

致経らの在地における存在形態。
致経は、京都の東宮町に寄宿するとともに、伊勢神郡から尾張にかけてを勢力圏にしていた。
長和2年(1013)、彼が頼通に寄進した先祖相伝の所領益田荘も伊勢国桑名郡にあった(『近衛家文書』宝治2年2月某申状写)。
同荘は伊勢湾を活動の舞台とする海民の根拠地である。
致経が施入した「紺瑠璃唾壷」は、アルカリ石灰ガラス製酸化コバルト発色のいわゆる痰壷で、10世紀頃、西トルキスタンのフェルガーナ地方で作られ、国を経て、日宋貿易のルートで伝えられたものと考えられている。
入手経路は不明だが、一族が府官を勤める大宰府と、伊勢湾を結ぶ海の交易ルートを媒介としたものである可能性がある。

彼の勢力圏の中心は、尾張の某郡にあった私「宅」で、周辺には従頬の「宅」が集っていたようである。
地方豪族の本宅(「宅」)は、軍事上の拠点、農業経営の基地、交通商業活動のセンターなど多面的な機能をもっており、本宅-「与力の人々の小宅」-「伴類の舎宅」という同心円的な三重構造が、地方豪族の勢力圏の原型を構成していた。

致経および従類の宅は、某郡の郡庁を「壊却」し、跡地に「新たに所作」されたものであった。
通常郡衙は、郡庁・館・厨家などからなる主要部分と、倉院・倉庫院・正倉院などと呼ばれる徴税と備荒のための倉庫群によって構成されていた。
うち郡庁は、庁屋を中心に向屋・副屋・公文屋の四棟の建物群から成り立っており、郡庁正殿の前面には前庭も設けられ、国庁のように朝儀の場として機能したといわれる(『平安遺文』4609号)。

宅の新造にあたって、致経らは、都庁を「壊却」して得た資財を、積極的に活用し、郡衙の他の施設内に収納されていた家具・什器類も、新造の宅の調度品として利用された。その結果、致経の「宅」は普通の地方豪族の規模を上まわるものとなった。

彼らが郡庁を「壊却」しえたことの意味
10世紀末~11世紀初頭、目代・在庁を先頭とする国衙勢力によって、独立した行政機関である郡衙が解体され、郡・郷の検田所・収納所などに機能別に再編される傾向が生じ、郡衙の位置が相対的に低下し始めていたことがその背景にある。

『小右記』長元元年(1028)7月19日条によれば、維衡は伊勢国押領使高橋氏(あるいは高階氏か)や掾伊藤氏を郎等に組織していた。
押領使は国衙の軍事部門担当者、掾は在庁官人の有力者である。
致経の場合も、強化されつつあった国衙勢力の一部と結び、彼らを影響下、支配下においていた可能性がある。
郡庁壊却というような行為は、国衙の黙認か密かな後押しなしには不可能で、致経の勢威・勢力自体も、郡司層を大きく上まわるものであったに違いない。

彼らの存在が在地民衆にとって何であったかは、致経と従類の宅の焼亡に際し、在地共同体を代表する「古老等」が、「不善の事、巳にかくのごとし」と決め付けたことに現れている。
本宅を中心とする経済活動、国郡を横行する政治的行為など、併せてそれは「不善の事」であり、彼らは一般大衆から乗離した存在だった。

在地における「不善の事」という点では、維衡も同じで、彼の郎等らは、長元元年(1028)7月以前に、三河国の下女等26人をかどわかし、両名逮捕のための検非違使が伊勢に下向している(『小右記』)。

「不善の輩」の反社会的活動と、それによってもたらされる国内不安については、永承5年(1050)年の和泉国司奏状が参考になる。
この国では
「五位以下諸司官人以上多くもつて部内に来たり住み、伴類・眷族自ら悪事を成す。或いは諸家の庄園を立て寄せ、国務に対捍し、或いは平民の田島を押し奪ひ、私領に構へ成す。
かくのごときの類(たぐひ)、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。およそ暴悪不善の輩、国内に住する間、強窃二盗、放火・殺害連綿絶えず、大いに騒擾をなす。」
という事態が発生していた(『平安遺文』682号)。

『権記』は、維衡・致頼をさして「数多の部類を率ゐ、年来の間、伊勢国神郡に任す。国郡のために多く事の煩ひ有り、人民の愁ひを致す」と述べている。

横川に匿われていた致経が維衡の子正輔によって逮捕された、との風説。
長徳4年(998)の維衡と致頼の伊勢での合戦を起点とする両者の対立は子の代まで継承された。
この時代、地方豪族間の対立は長期化する傾向にあり、この風説は事実であったと思われる。
これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。
この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。
国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。
地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。
それゆえ地方家族間の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レヴェルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だった。
そのため問題の解決は遅れ、結局紛争は長期化する。
維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないが、このことはそのままあてはまる。
維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。
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5月25日
・左大臣顕光(78)、歿。
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6月
・法成寺の金堂立柱。
「然るべき人々、各給り預りこれを立つと云々」(『左経記』治安元年6月27日条)とあり、割り当てが行われた。
翌治安2年7月、金堂が落慶供養され、法成寺と称される。
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7月25日
・2ヶ月前に没した左大臣顕光の後任を埋めるため、右大臣藤原公季が太政大臣、関白内大臣頼通が左大臣、権大納言藤原実資が右大臣となる。
実資の上席の公李は太政大臣であり一般の政務に関与しないのが例であり、左大臣頼通は関白という立場にあるので、実資は実質上筆頭大臣、つまり一上(いちのかみ)になったと解することができる。
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