1900(明治33)年
10月11日
李鴻章、北京に到着。
10月11日
英、ウィンストン・チャーチル、下院議員当選。保守党。
10月13日
大阪土佐堀青年会館、キリスト教青年会主宰、松田順平、木下尚江らによる大規模な廃娼演説会開催。松島遊郭の楼主らの妨害で中止。
10月13日
漱石、スエズ着。同日、出発。
「十月十三日(土)、朝食後、九時頃 Suez (スエズ)(As・Suways, アス・スエース)で停泊、 Suez Canal (スエズ運河、百五十キロ)に入る。 ""The Times""(『タイムズ』)その他二、三種の雑誌を買う。山県有朋総理大臣の辞職(九月二十六日(水))を知る。(伊藤博文の写真が掲載されているものもあったという。伊藤博文を総理大臣として、新内閣の成立は、十月十九日(金)である。その予想が行われていたものか。九月十五日(土)伊藤博文は、立憲政友会を組織し、その総裁になっていた。)「検疫醫来りて一同を検査し去る 土人来りて種々の物を賣ること例の如し紙巻煙草、腕飾、写真等なり ジエルサレムの草花を以て押繪を製したるもあり 寫眞及郵便はがき數葉を購ふ午後二時出發す」。(芳賀矢一「留學日誌」)薄暮、Bitter (ビター)湖を通る。夜十時頃、月出る。」(荒正人、前掲書)
10月14日
下田歌子(46)、横浜会館での婦人教育講演会で「日本女子将来の覚悟」を講演。島田三郎は「婦人の天職」を講演。
10月14日
~15日 船上の漱石
「十月十四日(日)、 Suez Canal (スエズ運河)を通って、北端の Port Said (ポート・サイド、Bur Sa'id ブール・サイド)に着き、午後八時出航、地中海に入り、西北に進む。気温急に下る。日本と同じ気候である。
十月十五日(月)、地中海を西北に進む。北風寒い。『聖書』講義聞く。 Doctor Wilson (ウィルソン博士、不詳)と話す。」(荒正人、前掲書)
10月14日
フロイト、「夢判断」出版。
10月15日
清・連合国、正式講和交渉入り。各国の調整に長時間を要し、講和成立は明治34年(1901)9月7日。
10月15日
南方熊楠、帰国、神戸港に着。翌々日、和歌山に帰り弟常楠の家に寄宿。隠花植物採集などの研究再開。
10月15日
三井呉服店、新築開店。座売りをやめ、店内を新柄陳列場とする。
10月15日
立憲政友会、「政友」創刊。
10月15日
子規「明治三十三年十月十五日記事」(『ホトトギス』第4巻第2号 明治33年11月20日〕)に描写された日
「写実的の小品文」の一つの実践形態としての「日記」を募集し、投稿日記への手入れを行っているある一日の病床生活を、子規自身の「日記」として発表したもの。
〈参考記事〉
10月15日
露、トロツキー(21)、流刑地ウスチ・クート到着後まもなく、イルクーツクの新聞「東方評論」に時評掲載。~'02/夏迄、31回。「超人の哲学」「ジューコフスキー」「イプセン論」「グレープ・ウスペンスキー論」「ゴーゴリ」「レオニード・アンドレーエフ論」など。
「2年目の終わり」(多分、この年春)、オデッサで判決。主犯4名は東シベリア4年間流刑となる。まず、半年間、モスクワの中継監獄で過ごす。ここでレーニン「ロシアにおける資本主義の発展」を読む。また、小冊子「オデッサとニコラーエフの労働運動」を執筆し獄外に流す(1900年ジュネーブで出版)。ここで、「同盟」同志アレクサンドラ・リヴォーヴナと結婚(流刑地が別々にならないため)。後、いくつかの監獄で足止め。1900年秋流刑地(レナ河を北に下るウスチ・クートの村)につく。
レナ河は流刑囚の大水路。流刑囚は互いに連絡しあい、イルクーツク知事の許可により流刑地間を移動。トロツキー夫妻はウスチ・クートから東のイリム河畔に居を移す。ここで1ヶ月半、商人の事務員として働き、再び、10ヶ月の娘を連れてウスチ・クートに戻る。数ヶ月後、南のヴェルホレンスクに移る。この頃、ジェルジンスキー、ウリツキーと知合う。流刑地では、古参ナロードニキは流刑囚集団の貴族階層を形成、若いマルクス主義者は独自の階層を形成。
10月15日
独、ホーエンローエ公、宰相(1894~)辞任。
10月16日
イギリス・ドイツ間、清の門戸開放・領土保全を目的として揚子江協定が成立。在華権益の保護、経済活動の自由と機会均等など、清国との講和会議に臨んでの方針合意。揚子江を英の勢力範囲と確認。列強の領土拡張の野心を抑制する方向を示す。
10月16日
漱石、スエズ運河通過して2日目。
「十月十六日(火)、地中海を西北に進む。「海荒レテ気色悪シ」(「日記」)一行、食卓給仕二十五マルク、船室給仕二十マルク、湯番十五マルクの手当を与える。一同、十時頃就寝する。」(荒正人、前掲書)
「この十月十六日、漱石はスエズ運河を通過して二日目、地中海にあった。上陸に備えて同行五人でウェイターやボーイにやるチップの相談をした。ウェイターには二十五マルク、ボーイに二十マルク、湯の番をする係の者に十五マルクと決めた。日本円に直せば総額で六十円、子規の月給二カ月分に近い額だが、ひとりあたりの負担としては十二円であった。」(関川夏央、前掲書)
10月16日
子規、8月以来の懸案であった興津への転地を断念する。
つづく
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