2024年11月3日日曜日

大杉栄とその時代年表(303) 1900(明治33)年10月17日~21日 第4次伊藤内閣成立 漱石、ナポリ(漱石にとって初めてのヨーロッパ)~ジェノヴァ~陸路パリ(ベル・エポックのパリ) パリ万博を3回見学

 


パリで漱石が滞在したギュスタブ・クールベ通り22番地のアパルトマン

1900年パリ万博

大杉栄とその時代年表(302) 1900(明治33)年10月11日~16日 チャーチル下院議員 漱石、スエズ着 清・連合国、正式講和交渉入り 南方熊楠、帰国(神戸港着) 子規「明治三十三年十月十五日記事」 トロツキー(21)、流刑地到着、「東方評論」時評掲載 より続く

1900(明治33)年

10月17日

中国、義和団の討伐のため8ヵ国連合軍が北京に総司令部を設置。

10月17日

夕刻、漱石、ナポリ着

18日、上陸してナポリを見物。漱石にとって初めてのヨーロッパ


「十月十七日(水)、午前六時少し前、 Messina (メッシナ)海峡(イタリア本土とシチリア島の間)を抜ける。朝食の時、左手に Stronboli (ストロンポリ)火山(九百二十六メートル)を見る。『聖書』講義聞く。午後五時頃、 Capri (カプリ)島の近くを通り、Napoli (ナポリ)湾に入る。 Vesuvio (ヴェスヴィオ)火山を右手に眺めながら、午後六時、 Napoli 港に停泊する。北風吹いて細雨降り続き寒い。二千三百メートル離れた場所に、 Konig Albert (アルベルト王)号投錨中で、その船に松本亦太郎その他日本人四、五人乗り込んでいたが、検疫すまぬので会えない。 Konig Albert 号、九時半抜錨して出航してしまう。

十月十八日(木)、朝、六時より検疫。朝食後、 Napoli に上陸してイタリア人の案内人に従って、 Gesu Nuovo (ゲスウ・ヌオゥヴォ)教会(ジェスイット派)および他の二ゕ所を見る。次に Museo Nazionale (国民博物館)(推定)に赴く。十時半、 Arcade と Royal Palace も見物する。十二時、見物終り Preussen (プロイセン)号に帰り、食事する。夕食に馳走出る。食後出航する。各国の国歌奏せられる。日本の国歌は奏されない。(船客のなかには、 Pompei (ボンベイ)に行った者もいる。(藤代禎輔))」(荒正人、前掲書)


漱石の日記

「(ナポリ)この地は西洋に来て始めて上陸する地故それほど驚きたり」(10月18日)

「Naples に上陸してcathedrals を二つ、museum 及びArcade、Royal Palace を見物す。寺院は頗る荘厳にて、立派なる博物館には有名なる大理石の彫刻無数に陳列せり。かつPompeiiの発掘物非常に多し。Royal Palace も頗る美なり。道路は皆石を以て敷きつめたり。」(10月18日)


妻への手紙

ナポリで教会を見学した時、

「殊にNaples の寺院等の内部の構造は来て見ねば分り兼候」(10月23日付)

10月17日

ベルンハルト・フォン・ビューロー、ドイツ宰相就任(~1909)。

10月18日

東京神田錦輝館、義和団事件の記録映画が1週間公開、評判となる。入場料は1等50銭。

10月19日

第4次伊藤内閣成立。立憲政友会を基礎とする政党内閣。陸相・海相・外相以外は政友会員。

首相伊藤博文、外相加藤高明、内相末松謙澄、蔵相渡邊國武、陸相桂太郎、海相山本權兵衞、法相金子堅太郎、文相松田正久、農商務相林有造、逓信相星亨、内閣書記官長鮫島武之助、法制局長官奥田義人。

伊藤は組閣前から体調を崩し、28日に大磯に帰り、11月3日から熱海で転地療養。

伊藤は、西園寺を一般閣僚としては入閣させず、27日に班列大臣(現、無任所大臣)とし首相臨時代理とする(~12月12日)。また同日、西園寺は政友会員のまま枢密院議長にも任命。

10月19日

午後2時 漱石、ジェノヴァへ上陸

10月20日朝 パリ行き国際列車で陸路パリに向かう。昼過ぎにトリノで下車し、夕方、トリノからパリ行き急行に乗車。


「十月十九日(金)、午後一時過ぎ、 Genova (ジェノヴァ、ゼノア)港に到着する。検疫が済むと午後五時頃、小艇で税関に行く。検査ない。明日の Paris (パリ)行列車の直通切符を買う。ホテルの案内人に導かれて、馬車に乗り、 Grand Hotel de Genes (グラシ・オテル・ド・ジェネ Teatro Carlo Felice の前に当る。)に向う途中で暗くなる。三階三室を占め、宿泊する。夕食後、ホテルの若者の案内で公園に行く。音楽会が開かれていたが、聴かずに市街を散歩して戻る。芳賀矢一・藤代禎輔(素人)・稲垣乙丙・戸塚機智ら市街見物に出て、十時に帰宿する。(イタリアに着く前に、 Roma (ローマ)に一週間ほど滞在するかどうか、大いに議論したが、Paris (パリ) Exposition Universelle de Paris (万国博覧会)はこの機会でないと見られぬので、それに決定する。)」(荒正人、前掲書)


「薄暮上陸、Grand Hotel に着す。宏壮なるものなり。生まれて始めてかようなる家に宿せり。」(『日記』10月19日)


「(ジェノヴァ)以太利の小都会なるにも関せず頗る立派にて日本などの比にあらず」(10月23日夏目鏡子宛書簡)


「グラント、ホテル、ド、ゼネはオペラの直ぐ前に在り中央繁華の處たり 三階の三室を借りて入る装飾善美を盡せり 獨乙のミユンヘンピーアを傾く 甘味いひ難し リフトにて上りゆく心地まことに快し」(芳賀矢一「留學日誌」)

「十月二十日(土)、早朝、宿の馬車で、 Stazione piazza principe (スタツィオーネ・P・プリンシペ 幹線駅)に赴く。ボーターは、フランス語とイタリア語しか通じないので一同困惑する。 Cook's Agenzia (クック旅行代理店、Thomas Cook Company.)の Agente (代理人)を見付け、乗車の世話をさせる。列車は、乗客満員であったが、増結されたのでそれに乗る。定員八人のコンパートメント(中等車)を五人で占有する。午前八時四、五十分、 Genoca (ジェノヴァ)発 Torino (トリノ Turin チューリン)行列車で出発する。 Alessandria (アレッサンドリア)に停車する。乗降客がかなり多い。午後十二時三十分、 Lombardia (ロンパルディア)平原の西にある Torino の Stazione Centrake (中央駅)に着く。(約三時間)停車場前の Hotel de Suisse Francais (スイス・フランスホテル)で昼食する。藤代禎輔(素人)・芳賀矢一・稲垣乙丙・戸塚機智、市街見物に行く。午後四時四十分、 Stazione Centrale (中央駅)発 Paris (パリ)行急行列車に乗り出発する。(一行のなかで、まごついて最後に乗り込む)乗客多く一行だけで一部屋とれず、藤代禎輔・戸塚機智との三人で一室、芳賀矢一・稲垣乙丙の二人で一室と別れる。 Po (ポー)河の支流 Riparia (リバリア)河に沿った Valle di Susa (スーザ渓谷)を通り、Susa (スーザ)を経て、 Bardonneche (パルドンネーシュ)、 Cenis (サニー)、Frejus (フレジュス)トンネルを潜る。一時間ほど遅れ、食堂車で夕食をする。午後九時、Modane (モダーヌ)駅(標高一千五十七メートル)に着く。フランス国境に入るので、列車のなかで税関吏の形式的な荷物検査を受ける。(慌てて列車外に飛び出たがすぐ戻る)列車の速力速く、動揺も激しい。アルプス西部地方 Savoie (サヴォワ)地方を通り、 Chambery (シャンベリ)を経て Amberieux (アンべリュー)を北上して、Macon (マコン)から、Paris (パリ)に向う。」(荒正人、前掲書)

10月21日

朝 漱石、パリ・リヨン駅着(~同28日朝、開催中のパリ万博を3回見学する)


「十月二十一日(日)、午前八時頃(午前九時頃、芳賀矢一「留學日誌」)、 Paris (パリ)の Gare de Lyon (リヨン駅)に到着する。一行、駅の外に出たが、途方にくれる。藤代禎輔(素人)、警官に正木直彦の住所を尋ねる。巡査に馬車二台を世話して貰い、 Rue de Belles Feuilles に正木直彦を訪ねる。正木直彦はイギリスに行き、不在である。文部省書記官渡辺董之助の家で小憩して、朝食を馳走される。渡辺董之助に一行の宿所として万国博覧会場に近い Nordier 夫人の素人下宿(Rue de Gustave Courbet 22)を紹介される。芳質矢一、渡辺董之助と共にそのまま下宿先に行き、空室を確認して、夫人とともに昼食をし午後、宿泊契約をする。(芳賀矢一は、交渉を終った後で市街を散歩し、凱旋門に行き、日本公使館(75、Av. Marceau)を訪ね、粟野慎一郎公使に会う。驟雨にあう。) 晴れてから渡辺董之助・芳賀矢一と共に、 Gare de Lyon に預けた荷物を取りに行く。夜 Boulevard Victor (ヴィクトル)街で、一行会食する。英語を話す美人がいる。食後、下宿に帰る。部屋は三階である。」(荒正人、前掲書)

「金之助一行の見たパリは、史上もっとも華やかだったといわれる一九〇〇年万国博覧会とエッフェル塔のパリ、つまりトゥールーズ=ロートレックとムーラン・ルージュのパリである。・・・・・

パリに滞在しているあいだに、彼は万国博覧会を見物したり、留学中の画家浅井忠に逢ったりしている。『日記』に、「・・・・・博覧会ニ行ク。美術館ヲ覧(ミ)ル。宏大ニテ覧(ミ)尽サレズ。日本ノハ尤モマヅシ」とか、「日本ノ陶器西陣織尤モ異彩ヲ放ツ」とあるのはその印象である。浅井は東京美術学校教授で、「ホトゝギス」の表紙を描いていた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)


つづく


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