2024年10月27日日曜日

寛弘9年/長和元年(1012)藤原顕信(道長三男)出家 4月27日 道長、故大納言済時女の女御娍子の立后の儀式を道長が妨害する

東京 北の丸公園 千鳥ヶ淵
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寛弘9年/長和元年(1012)
この年
・道長の次男教通(17)は四条大納言藤原公任の娘(13)と結婚。
公任の姉太皇太后遵子の御所の西の対(たい)で挙式。
公任は、婿教通の世話に一生懸命で、日常の世話はもとより、朝儀に詳しい彼は婿教通のために作法の心得を記した。
公任の著書で儀式の書として名高い『北山抄』は、婿のための指導書を一部分として成立した。
公任は、定頼などの息子に対してはこのような心づかいは見せていない。
朝廷で教通が体の具合が悪いといって退出すると、公任もすぐ後を追って中座退出することは再三で、婿に対する気の使いかたは相当のもの。
妻の両親は、自分の息子はそっちのけで婿の世話をした。息子は婿に行った先で世話してくれるので、手出しの必要も権利もない。
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1月16日
道長の三男で明子の第二子である顕信が、世を儚んで満18歳にして比叡山に入り出家した。蔵人頭就任を道長から「不足職之者(能力不足の者)」と言われ反対された事がショックだったとされる。
「巳剋(午前9時~午前11時)の頃に、慶命僧都が来て云ったことには、「比叡山におりましたのですが、この暁の頃に、右馬頭(藤原顕信)が出家しました。無動寺に来ておられます。これをどうすれば良いでしょうか」と。」
「近衛御門(このえみかど/源明子)の許に赴いたところ、母(源明子)も乳母(うば)も、不覚となっていた。これを見るに付け、私(藤原道長)も心神の具合が不覚となった。」
(『御堂関白記』長和元年(1012)1月16日条)
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1月22日
荒田開作の奨励
この付の和泉国の符。
「普(あまね)く大小の田堵に仰せて、古作の外、荒田を発し作らしむべき事」
「右、興復の基は唯(ただ)勧農に在り。公私の利又作田に拠る。とも爰(ここ)にこの国、所部狭しと雖も居民数有り。半は漁釣の事を宗とし、耕耘(こううん)の業を好む無し。浮浪の者、適(たまたま)その心有るも、則ち作手無きに依り、寄作に便ならず。富豪の輩、素より領田有るも、亦偏(ひとえ)に墝埆(こうかく、荒れ地)と称し、歴年荒らし棄つ。国の優し難き、民の利少きは、多く斯(これ)に拠らざるはなし。(中略)然らば則ち、寛弘五年以往の荒廃せる公田は、縦へ是れ大名の古作と称すと雖も、小人の申請を許し作らしむべし。(中略)仍(よ)りて須(すべから)く古作の外、彼の以往の荒田を加作する者は、先づ田率の雑事を除き、重ねて官米(官物の内の見米)の内五升を免ずべきなり(下略)」

大名田堵・小名田堵に対し、寛弘5年以前の荒田は国衙の許可を得て開作することを奨励し、減税を認めている。
こうして開発される田畠と農民を、国衙は従来の郡・郷とは別枠で行政・収取上の単位として把握し優遇しつつ把握したもので、特別の国符(別符)を得ているので別符という名称もある。
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2月14日
・皇太后遵子を太皇太后、中宮彰子を皇太后、女御妍子を中宮とする宣命が下った。
3月、三条天皇としては長年連れ添った娍子にも后位をと望み(娍子には既に敦明親王以下6人の皇子皇女がいた)、道長としても反対できず娍子にも皇后の宣命が下る。
しかし、4月、娍子立后儀の日に、道長は中宮となった娘妍子が内裏に参入する行事を設定。
道長が怖い公卿たちは4人を除いて皆立后儀ではなく、中宮妍子内裏参入の行事の方へ参加した。

中宮彰子は皇太后となるが、一条天皇没後は内裏を出て、枇杷殿に住んでいた。
皇太子は彰子の生んだ敦成親王であったが、長和年間前半には彰子と同居しておらず、父道長は頻繁に枇杷殿を訪れているが、皇太后彰子の生活はやや寂しいものであった。
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3月7日
・蔵人頭源道方が道長に、今日娍子(故大納言藤原済時女)立后の兼宣旨(予告の命令)を出そうと思うがどうかという天皇の仰せを伝えた。
三条天皇としては長年連れ添った娍子にも后位を望んだ(娍子には既に敦明親王以下6人の皇子皇女がいた)。

道長はこれに、
「先日仰せをうけたまわったことですから、仰せのとおりにいたします」
と答えている。この時、近来は大納言の娘が皇后に立つ例がないからということで、故済時に右大臣が贈られた。
道長はこれに同意した。
そして、立后の日は4月27日と決まると、道長の方も、東三条邸に下がっていた中宮妍子の参内の日取りを、同じく27日に決定した。

『栄花物語』には、道長が遠慮する天皇を説き伏せて娍子を立后させたという美談となっている。
二后並立は定子が出家していたので、理由をつけてなんとか実現した。正妻は一人であるという社会慣習からいっても、三条天皇から娍子を皇后にといわれても、道長は簡単には認めにくかっただろう。嫌がらせではあるが、それなりの理由もあった。
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4月27日
故大納言藤原済時女の女御娍子(せいし)が皇后となるが、立后の儀式を道長に妨害される

この日、前夜来の雨が激しさを増したなかを、大臣が3人とも来ないから、代わりに参内せよとの命が実資の邸に伝えられた。
彼は前日、中宮妍子の参内のお供をするようにとの命を受けていて、東三条邸に行くことになっていたが、この参内の呼び出しを受け、道長の憚って誰も立后の儀式に出ないので、自分が命を受けることになった思い、「天に二日なく、土に二主なし」、怖れるところは何ももないと決心して、少し体調が悪いのを押して参内した。

立后のような大きな儀式は大臣が主宰ものだが、左大臣道長は妍子の参内があるから立后のほうには顔を出さないし、右大臣順光は病気を申し出て、内大臣公季は物忌だからと逃げ、だれも引き受け手がなく、大納言実資が呼び出されたという次第。

こうして実資が式を行なうことになったが、参内した公卿は他に僅か3人、中納言藤原隆家、参議藤原懐平(かねひら)・同通任(みちとう)だけで、他の公卿はみな東三条邸に行ってしまった。
隆家は伊周の弟で気骨のある人であり、この日、娍子の皇后宮大夫に任命されることになっており、懐平は実資の実兄であり、通任は娍子の兄で、当然娍子の後見を勤める立場にある。

公卿が少なすぎるので東三条邸に人をやって公卿の参内を促したが、道長の方に集まっていた連中は面白がって使いを召し寄せ、手を打って嘲り笑い、参議藤原正光なぞは石を投げるという狂態であった。
立后には宣命(詔)が出ることになっていて、きまり文句通りに文案を書いて、手続き通りに、内覧である道長のもとに送ったが、いくら待っても使いに出した内記が帰って来ない。
道長が事ごとに娍子の立后を妨害していることは知れわたっているから、宣命を道長に取り次ぐ者もいないのだろうというのが、実資以下、参内している連中の推測。

ようやく内記が帰ってくると、道長がこの宣命ではいけないと言っているとのこと。

こういう状態だから、儀式は実に寂しいものであった。
色々の役を勤める係の役人が休んで出てこない、催促しても手答えもない。
実資はこれを「水を以て巌に投ずるに似たり」と評している。
立后の時には、六衛府の次官を召し出して皇后の警衛を命ずる一段が、式次第にはあるのだが、その六衛府の次官がだれ一人として参列していないという有様。
実資も、今さら次官たちを召集しようとしても無駄なことだから、警衛の命令は一括して外記に申し渡すだけで済ませてしまった。

ようやく宮中の式を終えると、つぎは邸に下がっている皇后のところにお祝い言上にゆくのが例である。
実資以下の公卿4人は、そろって皇后娍子の住む皇后宮亮藤原為任の堀河邸に赴いた、殿上人は誰も来ない。
立后に際して蔵人所から皇后に贈られる大床子(だいしようじ)・師子形(ししがた)などの調度類も、道長に食い止められ、皇后側で調達するという始末だった。

中宮妍子の参内
同日夜参内した中宮妍子の方は、行列に従う公卿12人、蔵人頭以下の殿上人もこぞってお供するという盛大さ。道長は、この時は人の動きに強い関心を持っていたらしく、『御堂関白記』の書きぶりにも現われている。
通常『御堂関白記』の記事は簡単で儀式に誰が参列したなどは書いてないのが、4月27日の記事には、公卿一人一人の動静が書き分けてある。

妍子の参内にお供をした公卿として、藤原斉信(ただのぶ)をはじめ6人の名を挙げてある。これは前もって参内のお供をせよとの命を受けていた連中。
次に、お供に定められていながら来なかった者として、実資・隆家・懐平の3人が並べてある。懐平については、年来親しくしているのに今日は来なかった、まったく妙だ、なにか考えがあるのだろうか、などと書いてある。
そして最後に、お供を命ぜられていないのに来た人として4人の名が記されている。
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