2013年8月20日火曜日

1771年(明和8)9月~1772年(明和9/安永元)1月 ゴヤ(26歳)、サラゴーサに戻る。 モーツアルト、第2回イタリア旅行終る。 田沼意次、老中に就任。 【モーツアルト15~16歳】

京都 建仁寺 2013-08-13
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1771年(明和8)
9月21日
・モーツアルト、ミラノから姉へ手紙。
休みなく作曲を続けていたため、度々指が痛むと書く。
23日、劇場セレナータ「アルバのアスカーニョ」(K.111)(序曲と2幕33曲) 完成。
28日、総練習開始。

1769年12月~1771年3月の第1回イタリア旅行が大成功を納めたので、ウィーン王室マリア・テレジア女帝の皇子フェルディナンド大公とモデナのベアトリーチェ王女の婚儀のために祝祭オペラの注文を受けたもの。
同時に高名な老作曲家ハッセも注文を受け、オペラ「ルッジェロ」を作曲。
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10月
・スペイン、ゴヤ(26歳)、サラゴーサに戻る。
(サラゴーサ→マドリード→ローマ)
21日、サラゴーサのエル・ピラール大聖堂天井フレスコ画画家に選定。
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10月15日
・フェルディナント大公とモーデナ大公女マリーナ・ベアトリーチェ・リッチアルダとの婚儀
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10月17日
・モーツアルト、フェルディナント大公家宮廷劇場で、大公と大公妃臨席の下、祝典オペラ「アルバのアスカーニョ」(K111)初演。ジュゼッペ・ペリーニ(1729~88)台本、5回上演。
初めにハッセ「ルッジーロ」上演。ハッセのオペラは完全に食われ、ハッセは「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と予言したという。
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11月
・モーツアルト、10月末か11月初、ミラノで、オペラ「アルバのアスカニオ」の序曲と第1曲アンダンテを取り出し、フィナーレを足してK.111a (120) シンフォニー「アルバのアスカニオ」(ニ長調)作曲。同じ頃、K.111b (96) 交響曲第46番(ハ長調) 作曲(?)。
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11月2日
・モーツアルト、「交響曲第13番」ヘ長調(K.112)作曲。
8日、フィルミアーン伯爵に招待され、ハッセと食事。
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11月22日
・23日か、モーツアルト、ミラノのマイヤー邸でK.113 ディヴェルティメント第1番(協奏曲、変ホ長調)作曲。クラリネットが使われたモーツァルトの最初の管弦楽作品(1773年版でクラリネットが追加。1771年当時ザルツブルクにはクラリネットはなく、3度目イタリア旅行の時クラリネット版を作ったと見られる)。
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12月5日
・モーツアルト父子、ミラノ出発。
11日、ブレッサノーネ到着。
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12月12日
・マリア・テレジアからフェルディナント大公への手紙(返事)。
「作曲家のような役立たずは必要ありません。乞食のように世界中をほっつき回る者を仕えさせることで苦情を言われないようにしてください。 それに乞食には大家族がつきものです。」
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12月15日
・モーツアルト父子、ザルツブルクに戻る(第2回イタリア旅行終る)。
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12月16日
・(モーツァルト一家に寛大な理解を示していた)ザルツブルク大司教ジークムント・クリストフ・シュラッテンバッハ伯(74)、没。後任コロレド伯着任は翌年3月。
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12月30日
・モーツアルト、「交響曲第14番」イ長調(K.114)、6つのメヌエット(K.61h)作曲。
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1772年(明和9/安永元)
この年
・初~3月、モーツアルト(16)、ディヴェルティメントニ長調(K.136(125a))、変ロ長調(K.137(125b))、ヘ長調(K.138(125c))、リート「おおらかな落ち着き」(K.149(125d))、「ひそかなる愛」(K.150(125e))、「低き身分にある満足」(K.151(125f))、トリオ付またはトリオなしの20のメヌエット(K.103(61d))作曲。 末、弦楽四重奏曲(第3番)ト長調(K.156(134b))作曲。
3曲のディヴェルティメントに共通するのは、弦楽四重奏にコントラバスを加えた五重奏の編成であることと、3楽章という型破りな構成。 ザルツブルクにいた先輩のミハエル・ハイドンからの感化と、イタリアで受けた様々な影響と考えられる。
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・ポルトガル、中産階級のための公教育法、公布。全国に479の初等学校設立。
この年、コインブラ大学改革。数学・自然科学の学部を新設、実証が権威・信仰に取って代る。
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・フィリピン、原住民在俗司祭養成のための最初の司教区神学校。
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1月1日
・フランス、マリー・アントワネット、デュ・バリ伯爵夫人(ルイ15世愛人)に言葉をかける。
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1月15日
・田沼意次、老中に就任。異例の抜擢。
「宿老の班に加えられ、五千石加秩ありて三万石になされ、昵懇もとの如し」(「浚明院殿御実紀」同日条)、幕府正規役職の最高位を占め、絶対者である将軍の昵懇(側近)としての地位をも兼ねる(中奥の総取締を兼帯した老中)。
このように幕府権力の最高位を占めてその表門と裏門とを同時に押えた者は田沼意次以外にこれまでいない。

田沼意次:
享保4年(1719)誕生。
父意行はもと紀州藩足軽で、吉宗に従い幕府入り、小姓となって将軍側近に侍し、晩年は小納戸頭取となり知行地600石を与えられる。
享保19年(1734)3月世子家重(西丸)の小姓となる。この年父意行没。
宝暦元年(1751)33歳で御用取次(中奥の総取締役)就任、父の遺領に1400石加増され2千石。
御用取次の主務は、老中以下から上がってくる未決・機密案件の将軍への取り次ぎ、将軍の政事・人事の相談役、将軍の情報源である目安箱の取扱いと御庭番の統轄など、殊に平の側衆が既決事項を上申するのに対して御用取次は未決の案件を上申するところがポイントで、将軍が若かったり病弱だったり暗愚だったら御用取次の政事・人事への影響力は絶大なものとなる。
意次は御用取次を16年間務め、明和4年(1767)49歳で側用人となる。
側用人は、御用取次より格上、常置の役職でなく、大名が務める役(意次は相良城主2万石となる)。

意次作の田沼家家訓(7ヶ条、毎年正月に一族郎党を集め読み聞かせる、同家では「遺書」と呼ぶ)。
第3条「一類中者不及申、同席之衆其外附合候衆中江、表裏無之疎意無之様可被掛心候、何様軽き者たりとも人情を用候所者同様」と、一類同輩またどんな軽輩に対しても、表裏・疎意なく誠意をもって接するよう諭す。
別のでは、「権門之衆中江疎意失礼無之様堅ク被ニ相守、万事相応ニ有之度候、惣而公辺江懸り候儀者、如何程軽き事たり共、大切ニ心を用、諸事被入念候様肝要ニ候事」と、特に権門勢家・公辺には細心の注意をもって接するよう論す。
意次は、人づきあいに心を砕く。

縁戚による閏閥の形成。
①長男意知の妻に老中姶平康福の娘を迎え、
②4男忠徳(意正)を沼津水野家の忠友(側用人から老中)の養子に、
③6男雄貞を伊勢菰野藩主土方雄年の養子に、
④7男隆祺を丹波綾部藩主九鬼隆貞の養子に出す。
⑤3女を遠州横須賀藩主西尾忠移(のち奏者番に)に、
⑥4女を越後与板藩主井伊直朗(のち西丸若年寄)に嫁入らせる。
⑦妻が一橋家家老伊丹直賢の娘であることから、弟意誠を一橋家に送りこみ(のち同家家老)、
⑧一橋家から11代将軍になった家斉の生母(お富の方)は、意次の推挙で一橋家に入った人と云われる。
⑨意次の妾は将軍の側室津田氏と親しく、彼はその線を通して江戸城大奥にも深く食い込んでいたと云われている。
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