北の丸公園 2013-12-20
*ティエボロの1年前にマドリードに来ていたラファエル・メングス(ボヘミア人)
「彼(*ティエボロ)にとって、いちばん厭な奴が、あろうことか彼よりも先に、一年先から、すでにマドリードで羽振りをきかせていたのである。それが、ラファエル・メングスという、ボヘミア出身の理屈屋であった。
メングスは、言うまでもなく凡庸な絵描さではなかった。この早熟の画家は、”エルベ河畔のフィレンツェ”と呼ばれたドレスデンで教育をうけ、一四歳のときに、もうローマへと出立をしているのである。二四歳でローマへ送り出されるということは、このボヘミアの少年に、あたかもモーツアルトのそれにも似て、いかに才能が早くから芽生えていたかを証明するものである。配色と光の処理にかけては天才的なものがあった。」
メングス:ナポリで王の宮廷に出入りし、ナポリ王カルロスがスペイン王を継承すると、マドリードに招聘される
「ローマとナポリにあって勉強中の彼に、二つの事件が起った。一つは、ナポリの近くのレジナの町の地下から、ヘルキュラネウムとラテン名が呼ぶ、古代都市が発見されたことであった。これはポンペイとともに紀元七九年のベスビオ火山の爆発で埋没したものであった。古代ローマの強健な文明が、一八世紀のバロック芸術のさなかに、ぬっと顔を出したのである。
素朴、かつ堂々たる古代が、繊細さと誇張と、洗練と気取りがいりまじって袋小路に来ていたバロックのどまんなかに、地の下から、堂々たる亡霊のようにして出て来たのであったから、たちまち新古典主義なるものが成立するにいたる。
もう一つの事件は、これらの古代美術を研究する、美術考古学の基礎づくりをしたヨハン・ヴィンケルマンと画家メングスとの邂逅であった。・・・メングスはヴィンケルマンの捕虜になり、新古典主義の理論家になってしまった。そうして当時ナポリ王であった、現スペイン王のカルロス三世の宮廷を泳ぐ法も覚え、カルロスがマドリードの王冠をつぐとほとんど同時に、彼もマドリードへ招かれたのであった。王はメングスのために軍艦を派遣した。
マドリードでメングスは独裁者としてふるまった。
……もしそれが可能だとして、現代人が偉大になれる道は唯一つ、古人を模することである。
……絵画芸術は、ギリシャ人によって確立される以前には、如何なる国にも存在しなかったものであり、また如何なる絵画もギリシャのそれを上まわるものではない。
……芸術には七つの区分がある。すなわち、崇高、美麗、優雅、表現性、自然性、頽廃、安易、の七つである。
……美と自然は、一致するものではない。」
ラファエル・メングスがマドリード画界の独裁者となる
「メングスは、カルロス三世の要請をうけて、宮廷画家の筆頭としてアカデミイを監督し、それを彼の思うがままに再組織し、絵画や彫刻の公式な注文をあれこれの画家にすることの采配をとり、その画料を決定する。要するに、独裁者であり、芸術、装飾に関する限り、彼の前では誰も、王すらも頭をあげることが出来ない。一七六一年にはじめて彼がマドリードに到着したときは、とにかくまだ三三歳の若さであった・・・。
しかもその反面、老ティエポロのしかめっ面も眼に見えるであろう。ティエポロより先に来ていたナポリの画家コラード・ジャキントは、メングスとの折り合いがわるくて、飛び出すようにして帰ってしまった。老ティエポロにとっては、悪夢のような生活であったかもしれない。老人は、一七七〇年にマドリードで死んでしまった。」
バロックの終焉、新古典主義の出現、ブルジョワジーの登場
「メングスの絵画理論は、『絵画の趣味と美についての考察』という本にまとめられていて、・・・もっとも重要なものは、・・・バロックとは別な意味での自然からの乖離、現実への訣別である。
新古典主義というものがそこから出て来る。ということは、その背後に、二つの大きな流れがあったことを物語っている。その一つは、バロック芸術がいよいよ袋小路に入りかけたことと、もう一つは、宮廷、貴族、教会という、この三つのパトロンのほかに、新しい鑑賞者の一群があらわれはじめていたことであった。
新しい鑑賞者とは、都市において次第に力をつけつつあったブルジョアジーの一群である。
宮廷、貴族、教会などは、極端なことを言えば、注文をしたものが大過なく出来てくればそれでよかったのである。・・・」
絵の傑作を決定付けるのは理論、ことば、主題、主題を巡る会話、物語である。
:絵のなかにことばが持ち込まれた
「・・・彼(*ブルジョアジー)は自分で自分の財布から払うのであるから大問題である。だから、自分の買った絵は、傑作でなければならない。
・・・何がいったい傑作であるとないとを決定するか。
・・・
・・・ブルジョアジーにとっては、・・・それはいま現在、すでに傑作でなければならない。
そういうときに、決定をするものは、絵それ自体ではない、ことばである。
従ってことばでそれを決定するためには、一連のことばの結合、つまりは理論が必要になって来る。
ベラスケスにとって(は)・・・ほとんど一語も必要ではない。
新古典主義とは、字義通りに、古典を模す、あるいは絵画以前に古典を持つものである。砕いて言えば、絵のなかに、人々の会話の主題となりうべき物語をもっている。
すなわち、その絵の前に立った人々には、必ずやその絵の主題をめぐっての会話が、まず可能になる。絵そのものの価値についてではなくて、絵のなかの話についての話が可能である。ということは絵のなかにことばが持ち込まれたということである。」
フランシスコ・バイユー、メングスに呼ばれてマドリードに行く
「このボヘミア人(*ラファエル・メングス)が、サラゴーサにいたフランシスコ・バイユーをマドリードに呼び、アカデミイの一員とした。
バイユーは、先にも書いたように、ゴヤよりも一二歳年長ではあるが、サラゴーサのルサーン師の塾にいたときに、ゴヤといっしょになったことがある筈であり、弟のラモンはゴヤと同年の青年であった。バイユーはメングスのお気に入りであった。」
アカデミイ・コンクール、ラモン・バイユー第一席、ゴヤ落選(二度目)
「かくて、コンクールが行われ、ラモン・バイユーが第一席となり、ゴヤは鼻もひっかけてもらえなかった。
このコンクールでの出来事について、われわれの青年がどういう反応を示したかといったことは一切わからない。わからなくて当然である。」
行衛不明
そして、
「われわれの主人公は、二度目のコンクールに応募=落選以後、はたと行衛不明になってしまうのである。」
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