2013年12月4日水曜日

秘密保護法案に戦時社会の再来憂う/作家・高橋玄洋さん(埼玉新聞) : 「戦争に向かう状態が誰の目にも見えてくる時では遅い。今は、そうならないようにする時だ」

埼玉新聞 2013年12月4日(水)
秘密保護法案に戦時社会の再来憂う/作家・高橋玄洋さん

 秘密の範囲があいまいで、秘密を漏らした公務員だけでなく、秘密とされた情報を知ろうとするなどの活動も処罰の対象の可能性が指摘されている特定秘密保護法案。所沢市在住で、テレビドラマの脚本家として一時代を築いた作家の高橋玄洋さん(84)は「同法案が戦時中の『秘密ばかりの社会』を再来させるのでは」と危惧している。

 高橋さんは、昭和4(1929)年生まれ。2年後には満州事変が起き、日中戦争、太平洋戦争と戦時中に少年時代を過ごし、秘密社会の息苦しさを経験した。

 「あの秘密社会の恐ろしさ、暗さは経験したものでないと分からない。秘密主義が拡大されて身動きができなくなり、気がついたら戦争になっていた。当時は、軍国少年だったが、戦後になって、軍人がいばり、ものが言えなかったあの社会を『あんな世の中は嫌だ』と思うようになった」

 育ったのは、日清戦争で大本営が置かれ、陸軍第5師団の拠点だった軍都・広島市。市内の宇品港から、戦地に兵士が送られていった。小学生だった高橋さんは、旗を持って戦地に向かう兵士を見送った。「衆人環視で行われているのに、『兵隊が何百人いた』などと、人に話してはいけない雰囲気があった。軍事機密に触れるものが写ることもあるので、海岸で写真も撮れなかった。広島の近くに軍港の呉市があり、汽車が港に近づくと、車掌の指示で窓のブラインドを下ろした」と振り返る。

 ある日、高橋さんが通っていた小学校の教師がしばらく学校に来なかった。教師が撮影した写真の一部に呉の軍港が写っていたため、警察で取り調べを受けていたという。

 昭和20(1945)年、海軍兵学校分校の生徒だった16歳の高橋さんは、原爆投下から2日後の広島市内に救援に入り、遺体の収容など手伝って被爆した。「遺体は物扱いされ、人としての尊厳はなかった。あの光景を見ているので『戦争は駄目』と一貫して言ってきた。権力というものは戦前のように、簡単に国民を目隠し状態にできる。権力が認めたもの以外を非合法にすればいい―というのが特定秘密法案だ。戦争につながるきな臭い感じだ」と指摘する。

 1985年、自民党が議員提案した国家秘密法案(スパイ防止法)に対しても反対を明確にした。当時は現役の脚本家で、テレビ局の関係者からは「派手に動かない方がいい」「『左』にみられる」と忠告されたという。

 「私は自分の考えを言っているだけだが、今はすぐにレッテル張りをする情けない風潮がはびこる。しかし、戦時の社会を経験している者として発言しなくてはならない。戦争に向かう状態が誰の目にも見えてくる時では遅い。今は、そうならないようにする時だ」と話した。

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