もみじの新緑 江戸城(皇居)東御苑 2014-04-07
*治暦3年(1067)
この年
・一品内親王の当年給として従七位上漢部近時を越前大目に任じる。
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・源頼俊(大和源氏、頼親の孫)、陸奥守に任ぜられる。
在任中、散位藤原基通なる者と合戦し、国の印鎰を奪われる。下野守の義家が来援し、これを打破した
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・イングランド、ウィリアム1世、ヘリフォード伯領州設置(ウェールズ辺境の3伯領州の一つ、南部)、ウィリアム・フィツ・オズバーンを伯に任命。
北部、1070年設置チェスタ伯領州、ヒュー・オヴ・アヴランシュ任命。
中部、1071年設置シュロウズベリ伯領州、ロージャ・オヴ・モンゴメリ任命
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・アンジュー伯ひげのジョフロワ3世弟フルク4世ル・レシャン、兄に攻撃された教会の助けを借りて兄との戦いを開始。
1068年春、アンジュー領に入城、兄ひげのジョフロワ3世を幽閉。
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・スコットランド王マルカム3世、征服王ウィリアム1世に追われたサクソン王位継承者エドガー・アシリング妹マーガレットと再婚(2人はハンガリーへの逃亡の海路、嵐によりスコットランド東部で遭難)。
のち、アシリングはノルマン王家のイングランドに厚遇される。
6男2女(うち、マチルダは英ヘンリー1世王妃)。
マーガレットは封建制度導入を夫に建言。
宗教制度では「マーガレット王妃の5ヶ条」でサクソンの教会制度導入。
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3月
・イギリス王ウィリアム、ロンドン塔を建設してロンドン防備を固め、この月、凱旋の為に一時ルマンディのルーアンへ帰還、盛大な征服祝賀の式典を行う。
ウィリアムに対する反発。
①プーローニュ候オースティスによる攻撃、これきっかけとしてドーバーで反乱、ドーバーが一時占領。
②ウェールズ方面支配の要であるヘレフォードに蛮勇者エリック率いるウェールズ軍が来襲。ウィリアムはたて続く反乱の報に、1067年末頃にイギリスへ帰還。
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3月3日
・この日、伊勢平氏の在地伊勢奄芸(あんき)郡の稲生社で事件。
この日の祭礼の日、神宮検非違使河内常重と駿河前司維盛・左衛門尉季衡の従者らが口論に及び、常重父子および従者が弓で射られ、神民であった従者は即死、父子はかろうじて命をとりとめた。下手人である季衡の従者は三重郡衣比原御厨の住人。
祭主は下文を下し犯人を追捕せんとし、御厨内の住人200余家が完全に損亡。
これにより平季衝には上祓の罪が課せられ、殺害した神民の「替人」弁替が義務づけられた。
これは河曲郡神戸預太鹿武別が殺害せられた時、宣旨によって平正度が「替人」を弁替した先例にもとづくものという(『太神宮諸雑事記』治暦3年12月条)
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夏
・カープア候リカルドゥス1世とロレーヌのゴフレドゥスとの和解成立、軍事衝突回避。
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9月1日
・フランドル伯ボードワン5世(リールのボードワン)、没(位1035~1067)。
ボードワン6世、即位(位1067~1070)。
1045年皇帝ハインリヒ3世からアンヴェルス・マルクを一時封与、1051年エノー伯エルマン未亡人リシルドゥと結婚、エノー伯領併合。
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10月
・後冷泉天皇、藤原頼通の平等院に対して封戸300戸を施入。
頼通は、この機に平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出る。要望は認められ、不輸の権を与えられ立券荘号される。
これらは、実際には平等院の荘園は9ヶ所全てに適用される。
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12月
・藤原頼通、病気のため関白を辞す。准三宮を宣下される。
翌年4月、同母弟の教通が関白となる。
摂関家の成立
頼通は新しく外戚関係を創出することができなかったが、50年間関白を務めることによって、道長が築いた他の公卿たちとは隔絶した地位を、摂関家という家格に発展させた。
院政期に摂関家の立場を確立した頼通の曾孫藤原忠実(1078~1162)は、先例として頼通の例を「宇治殿(頼通)の仰」「宇治殿の御説」として重視した。
儀式の中で摂政として天皇のすぐ後ろに控えたり、叙位・除目などに際して執筆(上卿)を務めないで関白として天皇御前座に仕えるなど、他の公卿たちの中には入らず、天皇の側に身をおくという摂関の立場を明確にしたスタイルのことである。
また忠実は、宇治平等院に参詣し経蔵を開いて文物を検知する「宇治入り」の儀を創始するが、頼通が建立した平等院を重視していたことがわかる。浄土を具現したこの美しい寺院は、摂関家嫡流にとって政治的・文化的な優位を可視化する装置として作用した。
さらに鎌倉時代には摂関は五摂家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)に固定されるが、この時代、摂関になると継承される「摂籙渡領(せつろくわたりりよう)」という荘園群は、基本的に頼通の時代の荘園を継承している。
つまり、法成寺領は道長の、東北院領は上東門院彰子の、平等院領は頼通が建てた寺院の所領である。
頼通の時に、のちの摂関家領の基盤が築かれた例は多い。
院政期には、貴族社会において父から子へと継承される「家」が成立し、家格や家業が成立してくる。
頼通は道長の築いた地位を継承し、天皇家に次ぐ摂関家という家柄を形成していく。
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