2014年4月30日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(31)「王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場」(4) 「ようやく人間が人間相互を見る眼に、相対性が宿りはじめたのである。それこそがデモクラシーの萌芽であり、その基盤でもあった」

北の丸公園 2014-04-24
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ゴヤは、芸術家として、人間的たらざるすべてに対して興味を抱いていなかった
「狩猟をテーマとしたゴヤのカルトンが凡庸であるのは・・・彼が芸術家として、人間的たらざるすべてに対して興味を抱いていなかったことによるのである。・・・
・・・」

遊びとしての狩猟:獲物は予め調達して運び込まれた
「それからもう一つ、ヨーロッパにおける、王侯貴族などによる狩猟なるものについて、少しのことを言っておかなければならないであろう。狩猟は、要するに古代ヨーロッパ人にとっては、それは生活の糧であった。
けれども、一八世紀まで時代が下って来て、どこの国の森にもそんなにも多数の野獣がうろついている筈はなかった。・・・
鳥の類は別として、野獣は、別のところから調達をして来て、それを狩猟用に放して、それを撃つ、という仕掛けになっていたものであった。・・・」

「狩猟が生活の糧をかせぐことでなくなり、それが王侯貴族の遊びの対象となったときには、野獣は、すでに姿を消したに近くなっていたのである。・・・
・・・
ある動物は、山深いピレネー山脈やシエラ・ネバーダ(降雪山脈)でつかまえて運んで来なければならぬ。またあるものは、グアダルキビール河の河口近辺にひろがる、広大無辺の湿地帯-ここは現在でもヨーロッパ第一の狩猟場であるーでつかまえて、はるばるマドリードまで運んで来なければならぬ。」

王侯貴族が毎日狩猟をしていたということ:彼らは退屈していた
「狩猟のことなどにかかずらわって、横道へそれているといわれるかもしれないが、私のつもりとしてはそうではなかった。というのは、私たちのもつヨーロッパ史経験というものが、実はあまりにも歴史的事件、出来事に集中されすぎているか、思想史的にすぎるか、あるいは年代記的でありすぎて、王侯貴族から庶民にいたる、その日常性、生活の実態に触れることがあまりに少ない、少なすぎると思われるからであった。

カルロス三世は、狩猟の帰途、マドリードにわけるエスキラーチェ暴動の勃発を知った。

あるいは、

カルロス四世は、天気のよい日はほとんど毎日狩猟をしてすごしていた。雨の日は、王宮で靴をつくった。

などと教科書風に言われても、これに対しては、そうですか、としか返答の仕様がない。実態が欠落しているからである。そうしてこういう生活の全体を蔽うものが、退屈、というものであった。」

もっと身近かな、親身なもの、暖かいテーマをもつもの、ファッショナブルなものであってもよい
「ところで、王宮の、ある部屋を狩猟を主題としたタビスリーで裸の壁を蔽ったとすれば、他の部屋はどういう主題のものにするか。
公式用の間、つまりは国政についての報告を聴取したり、あるいは外国からの大使を接見したりするための部屋は、やはり威儀を正して公式の、あるいは高貴な主題をもつものでなければならない。すなわち神話や、歴史に、宗教に主題を求めたものでなければならない。
けれども、王族の私的な部屋、公式の食堂ではない私的な食堂、居間、寝室、化粧部屋などにまで歴史や神話や宗教ものが出張って行かなければならぬということはない。・・・
そういう私的な用途をもった部屋の装飾は、もっと身近かな、親身なものであってよい筈である。それは、いわば暖かいテーマをもつものてあってほしい筈でもある。それに、いまのことばで言っての、ファッショナブルなものてあってもよい。・・・」

社会の上層部に文化創造の力がなく、すべてを外国に依存している時に、生き生きとしたファッションを創造するものは、つねに民衆である
「しかし、王や王妃、王族などと称される人種にとって、身近かな、親身なものとは何か?
そんなものは、本来的にありえない。
・・・
社会の上層部に文化創造の力がなく、すべてを外国に依存しているとなれば、そこでどうして親身なもの、血のかよった、暖いものをつくることが出来るか。
そういう時に、生き生きとしたファッションを創造するものは、つねに民衆である。そのほかには、事実として誰もいない。・・・」

ファッション・流行・時代の好尚は、時代の哲学の仮面ですらありうる
「私はこのファッション・流行・時代の好尚というもの重視するものだ。それは時代の哲学の仮面ですらありうる筈である。」

身のまわりを飾る”民衆”の”生活情景”は、王族の者どもにとっては一種のフィクションである
「宮廷の私生活の部分が、王族たちには直接何のかかわりも関係もない、民衆の生活情景によって飾られ、それらにとりかこまれ、しかも実生活としてははっきりと隔離をされて、私生活を送る。つまり、身のまわりを飾る”民衆”の”生活情景”は、王族の者どもにとっては一種のフィクションである。
王宮の窓からはるかに望み見る、あるいは馬車の窓からちらりと瞥見をする現実は、フィクションでしかありえない。つまりは王宮内の囚人である。
フランス革命の勃発時に、ヴェルサイユ宮殿へ押しかけたパリの貧民たちが、パンが食えない、と嘆いたとき、マリー・アントアネットが、それじゃお菓子を食べたらいい、と答えたという挿話は、彼らの在り方を明瞭に物語るものであろう。」

ようやく人間が人間相互を見る眼に、相対性が宿りはじめたのである。それこそがデモクラシーの萌芽であり、その基盤でもあった
「マドリードでの、あるいはスペインの田園・・・での民衆の生活情景に主題を求めることは、例によって・・・ゴヤの創案ではない。彼以前には、ベネチアのティエポロと同道して来ていた息子のロレンツォ・ティエボロがそれを行なっている。
・・・最盛期のベネチアからやって来たこの画家にとって、たとえば農民や牧童などというものは珍しいものに属したであろう。
蜜柑を売る女、二人のマホ(伊達男)、ギターを弾くマホ、獲物を売る女と盲人、レモン水売り、マホとアセローラを売る女、蜂蜜む売る女、男女の語らいなどという、街頭風景もまたこの画家の興味をひいたものであった。・・・
ようやく人間が人間相互を見る眼に、相対性が宿りはじめたのである。それこそがデモクラシーの萌芽であり、その基盤でもあった。」

ゴヤは宮廷のために働き出してはじめて、民衆の生活情景を描く機会をえた
「・・・ゴヤは宮廷のために働き出してはじめて、民衆の生活情景を描く機会をえたのであった。それは彼がもっともよく熟知する情景であった。・・・」

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