2014年4月25日金曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(66) 「三十五 日中戦争下の日々」 (その2) 「政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや」

ハナミズキ 北の丸公園 2014-04-25
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アウトサイダーぶりが徹底している。当時の日本の知識人にここまではっきりフランスの勝利を願った者は他にいなかったのではないか。
「断腸亭日乗」が公刊されるのは戦後になってからだから、人は荷風が当時何を考えていたか正確には知る由もないが、大佛次郎は興味深いことに『敗戦日記』のなかで、当時の荷風の〝我、時局に関せず″という高踏的態度に触れている。

昭和19年10月28日
「好色大鑑やひとり寝など読むと荷風の因って来たった脉(ミヤク)が明瞭である。そのことはいよいよ荷風の文学が日蔭の芸術だと云う感じを証明するだけである。その荷風が当代(戦時下)の無二の人気を読書家に持っていると云う事実は、政治が人を日蔭に追込めている現状を一番強く示しているのだ」
「力にはならぬが荷風には人が慰められるのである」

大佛次郎は荷風の文学を「日蔭の芸術」と正確に捉えている。そして彼自身は荷風の対極にある「未来に希望を持たせる文学」を目ざそうと思うもののいまの時代ではそれは無理だと嘆かざるを得ない。
「未来に希望を持たせる文学と云うのはこの日本にはなかなか生れ得ないのである。何が人々の力となり光明となるのだろうか。横行する戦争ものが士気を鼓舞する力さえ持ち得ぬか、稀れにあっても百に一つである。この奇怪さに世の所謂指導者が気がつかぬ」

大佛次郎はこうして戦争末期に荷風の随筆を読んだことを日記に記している。
大佛次郎が荷風を先輩と意識していたことは「断腸亭日乗」昭和13年11月10日に「小包郵便にて大佛次郎の著書三冊を贈らる。邦枝完二の友人なるが如し」とあることからうかがえる。

大佛次郎は「日記」に「荷風が当代(戦時下)の無二の人気を読書家に持っている」と書いているが、軍部と戦時体制にもっとも批判的な荷風の本が戦時下によく読まれていたことは事実である。

しかも皮肉なことに、軍部が荷風の本を買い上げた。
昭和19年9月20日
「三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや」

僅か数日前、9月7日、荷風は「日米戦争は畢竟軍人の腹を肥すに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得と謂ふ可しと。これも世の噂なり」と痛烈な軍部批判を書きつけている。
その荷風の花柳小説「腕くらべ」を軍部は出征兵士のために買い上げるという。
タテマ工とホンネの分離、日本の軍隊のダブルスタンダードの結果とはいえなんとも皮肉で「滑稽」な出来事である。

当時の市民レベルの厭戦気分のなかでは、戦意高揚文学よりも荷風の「日蔭の芸術」のほうがよく読まれた。
この点でも『大佛次郎 敗戦日記』には興味深い記述がある。
軍部が「腕くらべ」を買い上げようとしたまさにその時期。昭和19年9月18日、大佛次郎は横浜の伊勢佐木町の古本屋に立寄る。

「古本やに比較的英仏文の本が多い。退去せし外人の家より出でしものならんも大したものなしただ数は相当のものなり。ドンキホーテの英訳三冊本あり。古本やで左千夫歌集合評あり。交換でなければいやだと云う。高くてもいいと云うと去月あたり発行の四・八〇銭のものを拾円と云う。交換の本には何がよいかと云うと荷風だと云う。荷風も戦争で男を上げしものなり」

戦時状況と一切関係を持たなかった荷風の本が、他ならぬ戦時下によく読まれていたのである。
一般には荷風ブームは終戦後におきたとされているが、実は、戦争末期から荷風は読まれていた。それだけ厭戦気分が世に広まっていたのだろう。

荷風自身は戦時下、敬愛する鴎外を再読していた。

昭和17年7月4日
「鴎外先生書簡集岩波版全集本を讀む」

8月26日
「毎日鴎外全集再讀」

その日記の文体に大きな影響を受けた成島柳北の「航薇日記」を書き写していたのも、この頃。

昭和19年11月16日
「雨。成嶋柳北の航薇日誌を写す」

11月21日
「微雨。柳北の航薇日誌三巻を写し終りぬ」

時代状況への抵抗である。

昭和19年6月29日
「兎に角東京の繁華は昭和八九年を以て終局を告げたるものと見るべし。文藝の一方面について論ずれば四迷鴎外の出でたる時代は日本文化の最頂點に達せし時にしてこは再び帰り来らざるものなり」

荷風は鴎外を読んでいただけではない。
他方で、戦時下においても私娼たちへのまなざしを失なっていない。
昭和12年以降の「日乗」にも私娼が頻繁に出てくる。
荷風にとっては私娼もまた時代状況への抵抗の拠点になっている。ここが「艶(ヤサ)隠者」荷風の真骨頂である。

昭和14年4月1日
「夜九時(平井呈一と)別れてひとり人形町の里美に至り、その主婦と相談し道子とよぶ私娼上りの女を外妾とすべきことを約す。十一時過其女来りたれば件ひて家にかへる」
(4月11日の記述によれば、この女とは「性行あまりに淫蕩」などの理由で短期間で別れている)

昭和15年11月1日
「正午ちかく久保藤子といふ女たづね来る。去月中かきがら町なる怪しき周旋屋野口といふものゝ一室にて知り合になりしなり」
「藤子半日わが家に在り台所の掃除をなし夜具寐巻の破れをつくろひくれたり」

同年11月10日
「晡下かきがら町アパート秀明閣に野口老婆を訪ふ。私娼二人居合せ赤飯をくらへり。今日は紀元二千六百年の祭禮にて市中の料理屋カフヱーにても規則に依らず朝より酒を賣るとの事なれば待合茶屋また連込旅館なども臨検のおそれなかるべしと語り合ひ、やがて打連れていづこにか出で去りぬ。老婆茶を入替へ赤飯をすゝむ」

「私娼を家に入れたり、足繁く私娼の周旋屋に通ったりしている。紀元二千六百年祝典の日にわざわざ周旋屋を訪ね、遣り手の老婆と茶飲み話を楽しんでいる。鴎外を繰返し読む荷風が他方でいかがわしい私娼の宿に出かけている。」(川本)

昭和15年9月30日(荷風らしい私娼礼讃)
「燈刻銀座に飯して後淺草に行く。オペラ館薬屋に少憩して、九時頃上野邊まで歩み行かむと、入谷町の陋巷を過ぎ根岸へ出るに、とある喫茶店の門口に立ち通行人の袖を引く女給あり。其様子いかにも淫卑なれば誘はるゝまゝに入りて見るに、年頃いづれも廿二三の女三人ぼんやりして片隅に腰かけ居るのみにて客は一人も居らず、飲食物の用意もおぼつかなき様子なり。其時裏口より入り来りし一人の女給余の顔を見てあら旦那わたし気まりが悪いわと言ひながら抱きつきたり。この女去年の夏頃まで銀座二丁目裏通の怪し気なるカフヱーにゐたるものなれば心安きを幸ひに此邊の様子を問ふに、この店の女給は裏鄰の家の二階に間借りをなし、大丈夫のお客と見れば裏口より誘ひ行き一時間三圓、十一時よりおとまりは五圓の商ひをなす由語りぬ。表の看板はカフヱーならず喫茶店なれば午後にても客の出入自由なり。四時五時頃最も都合好しと言へり。入谷より坂本邊は明治のむかしより怪しげなる小家多かりし處。今日猶旧習を墨守する勇気大に感心すべきなり」
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浅草に出遊した帰り、上野駅近くの根岸で、あやしげな女に呼びとめられ、喫茶店に入ってみる。そこでは女たちが相も変らず日かげの商売をしている。荷風はそのことに大いに感じ入る。
「入谷より坂本」あたりは明治のころからいかがわしい家が多かった。
「今日猶旧習を墨守する勇気大に感心すべきなり」というのだから、荷風の私娼への想いは生半可なものではない。

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