2014年5月17日土曜日

延久2年(1070)~延久3年(1071) 延久の新政 北宋・王安石の改革 東ローマ帝国軍、イタリアでノルマン軍に、小アジアでトルコ軍に敗れる。

北の丸公園 2014-05-16
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延久2年(1070)
・延久の新政。
中世の土地制度・荘園公領制形成過程に、また京都の都市制度形成において画期的な意味をもつ。
京都では、王城、官町の整備、検非違使庁の機能などを規定する一連の重要な新制が定められた。また、三条~五条の祇園社の境内が、官符によって一円神領と認めらる(「八坂神社文書」)。*
・1068年北部反乱参加のエドマンド剛勇王孫エドガ・アセリング 一行、母アガタの里ハンガリーに亡命途中、難破してノーサンブリア・ウェアマスに漂着。
マルカム3世妻マーガレット、ウィンチェスタ南西ラムジー 尼僧院長クリスティーナ、母アガタ(ハンガリー王聖イシュトヴァーン孫)共。
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・エリー(イーリ)反乱。
ウイリアム征服王にイギリス人(アングロ・サクソン人)がゲリラ活動。指導者ヘレワード、ピーターバラーを略奪、仲間の勢力が征服王に降伏した後も逃亡して抵抗。
しかし、この年、ウィリアムは残存勢力を制圧しイギリスの支配をほぼ固める。
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・ウィリアム1世、チェスタ伯領州(北部ウェールズ)設置、ヒュー・オヴ・アヴランシュを伯に任命。
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・フランスでのコミューン運動開始。
ル・マンで略奪者たる領主達の城に向け、教会の旗をなびかせた市民軍が進軍。
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・ハインリヒ4世(20)、バイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイム(任1061~1070)を国王暗殺計画を理由に罷免。
ヴェルフェン家ヴェルフ4世(41、1030?~1101、任1070~1101)をバイエルン大公に授封。
ヴェルフ4世、妻エテリンデ(オットー娘)と離婚(1071年ユーディト・フォン・フランドルと結婚)。
バイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイム、ザクセン大公息子マグヌス・ビッルングと同盟して反抗。共に敗北し捕らえられ拘禁。
(ヴェルフ4世は忠誠心より利益の方に傾く。最初ノルトハイムとバイエルンのオットー婿として皇帝に敵対する立場。1170年バイエルン大公に任命されるや皇帝側について岳父の敵に廻る。オットー娘と離婚。息子ヴェルフ5世は世襲のバイエルン大公となる)。
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・教皇アレクサンデル2世(位1061~1073)、聖職者が絡んだ事件での「神明裁判」禁止
1215年第4回ラテラノ公会議、司祭がこの宗教儀式(神明裁判)を執り行うことを一切禁止。
「神明裁判」は「免責宣誓」での恥知らずの宣誓の濫用の代替として登場し、教会が中心的な役割を果たす(神明裁判は教会の中か外で行われた)。
「神明裁判」の種類(熱湯、火、水につける)。
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・ロベール・ギスカールの包囲下のバーリ(南イタリアにおける東ローマの拠点)の内部崩壊始まる。
指導者ビザンティウスが暗殺。物資不足。東ローマ艦隊長パテラノスはロベール・ギスカール暗殺を刺客に命じるが失敗。
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・ムラービト朝、フェズの反乱鎮圧、徹底的破壊。
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・サルジューク朝アルプ・アルスラーン、アレッポを占領。
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・聖エメラムのオトロー、没。「聖ボニファティウス伝」著者。
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・北宋、第6代皇帝神宗(1048~85、位1067~85)、政治・財政改革に着手。
地方官・王安石(1021~86)を抜擢、宰相(中書省と門下省の長官を兼ねる官職)に任命。
「新法」と呼ばれる富国強兵策を実施
(王安石の改革; 青苗法・均輸法・市易法・募役法などの富国策と保甲法・保馬法などの強兵策)。
一方、司馬光(1019~86)は急激な改革に反対して中央政界を去り、以後編年体の歴史書である「資治通鑑」(294巻)の編纂に専念。
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1月
・藤原師実、左大臣。
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2月7日
・絹布(けんぷ)の制、制定。絹や布の品質を統一する制度。
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3月
・関白藤原教通、太政大臣を兼務。
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4月
・春~夏、イングランド、教会会議。
ローマ教皇庁の使節3名、ウィリアム征服王にイングランド教会改革の約束履行求める。アングロ・サクソン人大司教・司教5名免職。アングロ・サクソン人司教3名に減少(以後数世代アングロ・サクソン人司教任命なし)。カンタベリ大司教スティガンド、免職(在職1052~1070)、ランフランク、就任(65、北イタリア出身、ランゴバルド人、1005?~1089、在職1070~1089)。ウィリアム1世の信任厚く教会改革を推進。
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5月
・後三条天皇が延暦寺の勝範を天台座主に任じたことに反発した園城寺が、座主の交替と独自戒壇の設立を後三条に要求。
後三条は、後朱雀や頼通のように狼狽したり責任回避はせず、機が熟していないと要求を拒絶。
ただし、寺門の反撥を緩和するため、一つは園城寺内に御願寺(天皇のために祈願を行う寺)を建立し、もう一つは円宗寺に法華会を創設した。
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・イングランド、デンマーク軍、再度来襲。呼応してヘリウォード指揮反乱軍が蜂起。
デンマーク軍は再び買収されて帰国。取り残されたヘレフォード反乱軍は翌年夏にまで抵抗、
最終的に鎮圧。最後にイギリスでの反乱はほぼ完全鎮定。
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7月14日
・レオン王アルフォンソ6世、カスティリャ王サンチョ2世を破る。
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7月17日
・フランドル伯ボードワン6世、没(位1067~1070)。
アルヌール3世、即位(位1070~1071)。母リシルドゥの後見の下で統治。
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8月1日
・下野守源義家、陸奥守源頼俊を授けて陸奥の賊藤原基通を降す(『扶桑略記』延久2年8月1日、12月30日条)。
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8月15日
・石清水八幡宮放生会に初めて勅使を派遣。以後恒例となる。
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10月20日
・~23日、山城・大和で地震が連続。堂舎の多くが倒壊。
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延久3年(1071)
・フィリップ1世(20、位1060~1108)、フランドル伯ロベール・フリソンに敗退、和解。
フランドル伯義理の娘ベルト・ド・フリースと結婚、1092年離婚。
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・(1067?)スコットランド王マルカム3世(40?、1031?~1093、位1058~1093)、マーガレット(25、1046?~1093、エドマンド剛勇王孫、ヘンリ1世妃エディス・マティルダ母)と結婚。
スコットランドはウィリアム征服王に敵対するアングロ・サクソン人の亡命の地となる。
マーガレット、スコットランドのイングランド化に大きな力をふるい、後に「聖マーガレット」と呼ばれる。
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・イングランド・ウィリアム征服王、スコットランド侵入。
スコットランド王マルカム3世、パース南方アバーニシで和議。
長男ダンカン人質に(以後もマルカム3世はイングランドの侵入続けるが、人質のダンカンはイングランドで厚遇うける)。
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・ウィリアム1世、ウェールズ辺境3伯領州の一つシュロウズベリ伯領州設置、ロージャ・オヴ・モンゴメリを伯に任命。
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・バイエルン大公ヴェルフ4世、ジュディス(ユディス、ユーディット、フランドル伯ボードワン5世?娘、1094年没)と結婚(1051年?ノーサンブリア伯トスティヒと結婚、1066年トスティヒ戦死。1071年ヴェルフ4世と再婚)。
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・ミラノ大司教グゥイド、没。
皇帝ハインリヒ4世、宮廷官僚ゴトフライ(ゴテフレドゥス、教皇庁・ミラノ市民に評判悪い)をミラノ大司教に指名。ミラノ市民、大聖堂書記アト(アットー)を大司教に選任、教皇アレクサンドル2世がアトをミラノ大司教として承認。
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・カープア候リカルドゥス1世と息子ヨルダヌスとの和解成立。
1067年~1071年カープア候リカルドゥス1世は2回も息子の反乱(義理の息子ウィレルムス・デ・モスタローロの反乱。実の息子ヨルダヌス(ジョルダーノ)の反乱)に見舞われる。
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・カスティーリャ王サンチョ2世、弟支配のガリシアを併合(最高司令官ロドリーゴ・ディーアス(エル・シッド、28)率いるカスティーリャ軍がガリシアを征服)。
ガリシア王ガルシーア、セビーリャ王ムータミド(位1069~1091)の許に亡命。翌年(1072年1月)アルフォンソ6世のレオンを併合。父フェルナンド1世の帝国を統一。
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・東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカス、即位(位1071~1078)。ミカエル7世妻はロベール・ギスカール娘。
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・マンジケルトの戦い(1071/8)に敗れたビザンチン帝国の混乱に乗じて、ブルガリア貴族が反乱。
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・サルジューク朝トルコ、首都をイランのイスファハーンよりバグダードに移転。
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・セルジュク・トルコ、アルプ・アルスラーン、エルサレム 占領。シリアでファーティマ朝進出阻止。その後、エジプト・ファーティマ朝よりマッカとアル・マディーナを奪回。
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2月22日
・フランドル伯アルヌール3世(不幸)、没(位1070~1071)。
ロベール1世(ル・フリゾン)、即位(位1071~1093)。母リシルドゥ(1051年ボードワン6世と再婚)の後見の下で統治。
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3月29日
・故参議源基平の娘基子を女御とする。
この年、後三条と源基子の間に第二皇子(実仁親王、白河にとって18歳年下の異母弟)が生まれる。
直後、村上源氏顕房の娘賢子(けんし)が、摂関家の藤原師実(頼通の嫡男)の養女として、東宮貞仁の妃となる。
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4月16日
・ロベール・ギスカール(ノルマン軍)、バーリ(東ローマの南イタリアでの橋頭堡。1068年8月5日~3年弱包囲)攻略、入城。すぐにブリンディジも陥落。アプーリア征服完了。
東ローマはイタリアでの領土を完全喪失(以降永久にイタリアにおける東ローマの支配はなし)。
バーリ攻略を支援したロベール・ギスカール弟ロゲリウス1世、バーリ陥落後はシチリア島征服に専念。
(バーリ:841年~871年イスラム教徒支配下。871年ルイ2世・東ローマ軍・ヴェネツィア艦隊が奪回。876年東ローマ軍人皇帝バシレイオス1世(位867~912)派遣軍、バーリ征服)  
包囲下にある東ローマ艦隊長パテラノスは本国に救援を求め、ビザンツ艦隊20隻が来援。ロベールを支援のロゲリウス1世艦隊に撃破されバーリに着けず。旗艦の司令官ジョスラン(亡命者)、またも敗者として捕縛。
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8月
・ロゲリウス1世(40)、カターニア(シチリア島)攻略、8月半ば、パレルモ城門に到着。ロベール・ギスカール率いる艦隊を迎えるためオレト川河口ヤヒヤ城を攻略。
パレルモ港守備のイスラム艦隊は次第に壊滅、パレルモはノルマン軍に包囲。
ノルマン軍は攻城戦専用の巨大はしごを導入し歩兵を侵入させ、門を内側から開け、都市内に兵を乱入させ、翌年明け早々に勝負は決す。
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8月19日
・マンツィケルト(マンジケルト、マラズギルト)の戦い。
東部アナトリア・ヴァン湖北方。東ローマ(ビザンチン)皇帝ロマノス4世ディオゲネス20万、セルジュク・トルコ(サルジューク朝アルプ・アルスラーン(位1063~1072))に大敗。ロマノス4世捕虜。セルジュク・トルコ、小アジア半島制圧。
小アジア新領土の監督者スライマーン・イブン・クトルミシュ(アルプ従弟)。
以後、トルコ人が小アジア(アナトリア)になだれ込み、先住の人々を圧迫・同化し、地域のトルコ化が進む。
1077年ルーム(ローマの意)・サルジューク・スルタン国建国。
(アナトリアは東ローマの重要な兵員徴収地域で、東ローマは絶望的な兵員不足に陥る。1095年皇帝アレクシオス、教皇ウルバヌス2世に西方で傭兵予備軍募集の協力を依頼、十字軍派遣に繋がる。)
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10月1日
・カプア侯リシャールと息子ジョルダーノ、モンテ・カッシーノ修道院聖堂の献堂式にそろって出席。
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10月29日
・天皇、初めて日吉社に行く。
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