妻籠のツバメ 2014-05-10
*三十六 「門松も世をはばかかりし小枝かな」 - 戦時下の物資窮乏
昭和16年1月1日、荷風は侘しい正月を迎えた。
「炭もガスも乏しければ湯婆子を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。晝は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餅を焼き夕は麺麹と林檎とに飢をしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり」
日中戦争の拡大とともに物資が次第に不自由になりつつある。
既に前年昭和15年6月、東京・大阪の両市での米・味噌・醤油・塩・マッチ・砂糖・木炭など10品目の切符制が実施されている(11月には全国で実施)。
東京ではマッチ1人1日5本、砂糖1人月に約300gといった細かい規制が定められた。
荷風は窮迫していく世相を逐一日記に記していく。
6月4日
「砂糖マッチ切符制トナル」(実際は6月5日)
7月、貴金属や高級織物などの奢侈品の製造を禁止するいわゆる「七・七禁令」が公布、実施。
7月6日
「奢侈品制造及賣買禁止の令出づ」
8月、東京市中の食堂では米食が禁止される。
8月1日
「正午銀座に至り銀座食堂に飯す。南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す」
国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ」の立看板千五百本を東京市中に配置したのも8月。
8月1日
「此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛國婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり」
「今日の東京に果して奢侈贅澤と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり」
紀元2600年の祭典が行なわれたこの年は、国民生活に不自由さが急速に増していった年でもある。
戦時下にひそかに執筆された小説「問はずがたり」の一節
「町々に二千六百年祭とかいた提灯がさげられ、朝の中から酔ツ払ひが市中をぶらつき、處かまはず食べた物を吐きちらして行った事がある。全国の踊場が閉鎖せられ、市中の飲食店が規定の時間以外には客を迎へないやうになったのも、其年に始ったことだ」
戦勝気分に酔うたまさかの祭りの裏で市民生活の逼迫が確実に進行している。
それは荷風の日常にも急速に及んできている。
もちとパンだけの佗しい正月を過ごしたこの日のあと、「日乗」には、市中の物資窮乏のさまが頻繁に描かれるようになる。
昭和16年1月15日
「晩間銀座竹葉亭に飯す。米不足なりとて芋をまぜたる飯をどんぶりに盛りて出す。寄宿舎の食堂の如し」
1月21日
「三越にてメリヤス肌着を購はむとするに品不足にて上下揃はず」
米ばかりではない。砂糖、タバコ、マッチ、石鹸はじめ日常の生活必需品が次第に手に入りにくくなっている。
1月25五日
「人の噂にこの頃東京市中いづこの家にても米屋に米すくなく、一度に五升より多くは賣らぬゆえ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。パンもまた朝の中一二時間にていづこの店も賣切れとなり、饂飩も同じく手に入りがたしと云ふ」
こういう状況のなかで荷風はアメリカと戦おうとする政府軍部に対して怒りを隠さない。
「政府はこの窮状にも係らず獨逸の手先となり米国と砲火を交へむとす。笑ふべく亦憂ふべきなり」
この年12月に日米開戦となるのだから荷風の怒り、憂いはまっとうであり、その知性はあくまでも醒めている。アメリカとの戦争がいかに無謀であるか見通している。
7月16日
「数日来市中に野菜果實なく、豆腐もまた品切にて、市民難渋する由。銀座通千疋屋の店頭にはわづかに桃を並べしのみ。牛肉既になしこの次は何がなくなるにや」
9月1日
「写眞フイルム品切。煙草もこの二三日品切なり。町の噂に近き中民家にて使用する鐡銅器を召上げらるゝとて、鐡瓶釜の如きものは今の中古道具屋に賣るもの尠からぬ由なり。刻烟草のむ烟管も隠さねばならぬ世とはなれり」
9月8日、浅草、上野から近在農家への買出しの光景が記されている。
「淺草に飯す。東武鐡道淺草驛及上野停車場の出入口には大根胡瓜など携へたる男女多く徘徊して、争つてタキシに乗らむとするを見る。市中野菜払底なれば思ひ思ひに近在へ出掛けるものなるべし。日本の食事にお茶漬に香ノ物を味ふことはむかしの夢とはなりしなり。戦争の災害如何ともすべからず」
単身者の荷風は食事、買物を自分でしなければならず、そのぶん、通常の男に比べはるかに日常生活に敏感だった。
世捨人、隠棲者である筈の荷風が実は誰よりも世事に敏感だったことも、荷風の逆説のひとつである。
荷風は毎日のように生活必需品を自分で買うことによ㌧て、現実社会の変化を実感していた。いわば荷風はモノ、さらにいえば物価によって社会と深くつながっていた。
町に出るたびに目に入るのは物資窮乏の市民生活である。
食料品店の前には行列が並び、食堂や料亭は品不足のために営業が困難になってくる。
昭和15年7月12日、上野の有名な豆腐料理店「揚出し」で豆腐料理を食べ、味が昔のままなのに喜んだ。
ところが、1年後の6月7日に行ってみると、「豆腐料理品切なり。この店にても既にかくの如し。市中に豆腐なきこと推して知るべし」。
行きつけの新橋の小料理屋金兵衛でも事情は同じ。
昭和15年9月26日には、「小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚任し。この店にては仙台より精白米を取寄する由、久振りにて茶漬飯を食し得たり」と豊富な食材を記しているが、この金兵衛もまた1年後には品不足に悩まされている。
昭和16年12月4日
「牛肉屋今朝に入るに十一月末より肉類なしとて蛤鍋を出すと云ふ。去って金兵衛に入る。魚類少ければ鰻の蒲焼を兼業となす由。鰹節海盬先月来品切となれりと云」
一人暮しの荷風は、芝口(新橋)の料理屋金兵衛はじめ何軒かの懇意にしている店から時折り、食料の差入れを受け、それでなんとか食いつないでいる。食料をもらった時は、うれしさを隠さない。
昭和16年12月4日
「余砂糖なくて困難の由を告げしに(金兵衛の)おかみさん蓄へ置きたる砂糖二斥(ママ)程恵贈せられたり。謝するに言葉なし」
頑迷狷介の荷風が料理屋のおかみから砂糖をもらって素直に喜んでいる。
それだけ物不足にこたえているのだろう。とくに甘党の荷風は砂糖や菓子がうれしかったらしい。
昭和17年2月2日
「金兵衛にて歌川氏より羊羹を貫ふ。甘き物くれる人はどありかだ(ママ)さはなし。過る日には熱海大洋旗館の主人よりコゝアと砂糖を貰ひぬ。このよろこびも長く忘れまじ」
砂糖を貰って「謝するに言葉なし」「このよろこびも長く忘れまじ」と大喜びしている姿はどこか微笑ましい。
人からもらったリンゴと砂糖で、夜、ひとりでリンゴジャムを作ったこともある。
昭和18年2月7日
「夜讀書の傍火鉢にて林檎を煮ジャムをつくる。砂糖は過日歌舞伎座の人より貰ひたるなり」。
荷風の甘党ぶりがうかがえる。
もらうばかりではない。荷風のほうが人に余分なモノを与えるときもある。
昭和18年2月9日、浅草のオペラ館を訪ね、親しくしている踊子たちに石鹸を与えている。
「午後オペラ館楽屋を訪ふ。わが家に配給せらるゝ石鹸、粗悪にて使用せざるもの数個に及びたれば持行きて踊子に贈る」
浅草の踊子に石鹸を持っていくところが荷風らしいが、その石鹸が「粗悪」で自分で使わないものだというところがまた後年しばしば「吝嗇」のそしりを受けた荷風らしく、思わず笑ってしまう。
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