2014年10月15日水曜日

應徳3年(1086)10月~12月 白河上皇が院政を開始。 白河天皇(34)が自分の子善仁親王(8)を皇太子にたて譲位し堀川天皇とし、上皇として院政を開始。その後、孫の宗仁親王=鳥羽天皇、ひ孫の顕仁親王=崇徳天皇の三代にわたり院政を続ける。

北の丸公園 2014-10-14
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應徳3年(1086)
10月
・ムラービト朝ユースフ、セビーリャ・グラナーダ・マラガ・バダホース諸王連合軍とバダホースからトレードに向け進発。カスティーリャ王アルフォンソ6世はサラゴサ包囲を止め、バダホスに進軍。
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10月7日
・朝廷、源義家の申文のことを議する。
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10月23日
・サグラーハス(ザッラーカ)の戦い。バダホース北東5マイル、ゲレーロ河畔。
ユースフ・イブン・ターシュフィーン率いるムラービト朝イスラム教徒軍とレオン王アルフォンソ6世率いるキリスト教徒連合軍の戦い。
イスラム軍の勝利。ムラービト朝ユースフの軍事技術の優位性(ラクダの騎兵隊、太鼓による伝達、騎兵密集陣の使用)。
ターイファ諸王、アルフォンソ6世への貢納を中断。
ユースフは戦いの後、追撃せずモロッコに帰国。

両軍はゲレーロ川両岸に布陣。
イスラム教徒軍がキリスト教徒軍前衛アンダルシア軍を攻撃して戦闘を開始。
まもなくアンダルシア軍は潰走。ユースフは追走し、全兵士を虐殺。
アルフォンソ率いるキリスト教徒軍主力部隊が突撃を開始、イスラム教徒軍最前線を攻撃。
ユースフは最前線にモロッコ軍をあて、自らはサハラ軍を連れて戦場を大きく迂回し、キリスト教徒軍を背後から攻撃。
キリスト教徒軍は善戦し、更にアンダルシア軍の多くが再び戦場に戻ったため、ユースフは最後の切り札・自分の護衛部隊を戦闘に投入。黒人4千の精鋭部隊は、敵をなぎ倒しながらキリスト教徒軍司令官アルフォンソを目指す。アルフォンソは脚を負傷するも、戦場から脱出。
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11月1日
・越前に来航した「唐人」を、越前国が中央政府に報告した後、陣定で審議の結果、大宰府に廻船する。
「越前国の唐人の事、国解に申す」(「後二条師通記」応徳3年11月1日条)。
「予(摂政藤原師通)定文、数年の間、一言定め申す事三事也。代初め唐人越前に寄り、大宰府に下す」(「同」別記寛治元年8月6日条)。
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11月2日
・藤原師実、源義綱に奥州合戦のことを問う。
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11月2日
・東大寺、若狭封戸からの米50石の代物の仮納返抄を出す。
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11月26日
・白河上皇、院政開始。
白河天皇(34)、自分の子善仁親王(8)を皇太子にたて譲位し堀川天皇とし、上皇として院政を開始。
嘉承2年(1107)、善仁が没すると、孫の宗仁親王(4)を帝位に付け(鳥羽天皇)、宗仁が成人して扱いにくくなると更にそれを退位させて保安4年(1123)ひ孫の顕仁(4)を即位させ崇徳天皇とする。(72白河-73堀河-74鳥羽-75崇徳)

(白河院政期の政治状況)
①上皇が荘園許認可権を持ち、院領荘園(御願寺荘園の形態)増大。
②摂関家、荘園群の確保・拡充に努力。
③寺社、上皇・摂関家の祈願寺化。
④封戸・納物未納に悩む貴族・寺社・中央官司と受領の不和へ。
⑤受領、武装集団確保へ。
⑥地方豪族、上皇・摂政関白へ私領寄進(寄進型荘園)。下司職・地頭預所職などを確保。
⑦堀河外舅藤原公実、摂関家でないので摂政になれず。
平正盛、白河上皇の側近に奉仕。
輔仁親王、仁和寺あたりに幽居。

院庁に別当・年預・判官代・主典代などの職員(院司)をおき、北面の武士をおいて警護させ、院の軍事的基礎とする。
白河上皇43年、鳥羽上皇27年、後白河上皇34年、3代104年の院政
摂政・関白は実権なく、専制政治。
院庁下文や上皇から出る院宣は、朝廷の太政官符や天皇の詔勅・宣旨よりも重んぜられる。
院近臣は、中流以下の貴族で朝廷官職は高くないが、院勢力が伸びるにつれて、朝臣と対立するようになる。
3上皇は、法皇となり、造寺・造仏を行い法会を営み、熊野・高野参詣も多く、費用は莫大。
売官・売位がはびこり、重任も復活し、政治は乱れる。

■白河の18歳年下の異母弟、実仁と輔仁(母は源基子)
白河天皇の譲位は、異母弟との関係が大きな原因となっている。
白河天皇の母は、権中納言藤原公成(きみなり)の娘茂子である。公成は藤原北家ではあるが、嫡流・摂関家とは別の閑院流と呼ばれる家系に属す。閑院流は、兼家(道長の父)の弟、太政大臣公季(きみすえ)が父・師輔から閑院邸を譲られたことから、この子孫にこの名称が伝えられている。公成の曾孫、実行(さねゆき)・通季(みちすえ)・実能(さねよし)の代に至り、三条・西園寺・徳大寺の三家に分かれた。
後三条天皇は東宮時代に、茂子を妃に迎えた。公成の女きょうだいが藤原能信の妻であった関係から、茂子は能信の養女となっていた。そして、東宮時代の後三条を、この能信が支えていた。

ところが、延久3年(1071)、後三条と源基子との間に、第二皇子(実仁親王)が生まれた。
茂子は後三条の寵愛をうけて、白河天皇以外に、聡子(そうし)内親王をかしらに四女(末娘の篤子(とくし)は堀河天皇の中宮となる)をもうけたが、康平5年(1062)、夫の即位を見ぬまま没した。こうして、白河にとって、18歳年下の弟が生まれることになった。

基子は、もともと聡子内親王の女房であったが、茂子没後に後三条の寵愛をうけたらしく、実仁誕生の直後に女御になっている。父は参議源基平で、既に康平7年(1064)に没していた。その子季宗も公卿にはなれず、朝廷での地位はそれほど高いものではない。

■白河の子、敦文(夭逝)と善仁(母は源賢子)
延久3年(1071)、村上源氏顕房の娘賢子(けんし)が、摂関家の藤原師実(頼通の嫡男)の養女として、東宮貞仁の妃となった。この婚姻は後三条の意志によると『愚管抄』は述べているが、『愚管抄』は摂関家出身の慈円によって書かれた歴史書であるから、この記述にはいささか疑問がある。摂関を弟・教通に譲って、宇治に引退していたとはいえ、隠然たる勢力をもっていた頼通のはたらきかけがあったと考えられる。後三条と基子の間に実仁が生まれた直後であることから考えて、頼通と東宮貞仁との提携関係が推測できる。

貞仁の賢子に対する寵愛はことのほか深かった。賢子は貞仁が即位すると承保元年(1074)中宮になり、その年、敦文(あつふみ)親王を生む。

前年に後三条上皇は没し、この年頼通が、そして翌年には関白教通も没する。
また、この年10月には上東門院(じようとうもんいん)彰子が没する。彰子は、道長の娘、一条天皇の中宮となり、後一条・後朱雀天皇を生んだ女性。
この数年で、旧世代の代表的人物がつぎつぎに没し、いっきに世代交代が進んだ。
教通のあとの関白は、賢子の義理の父で、敦文の外祖父にあたる師実。
白河天皇の師実に対する信頼は厚く、新体制は承保2年(1075)、23歳の天皇と34歳の関白というかたちで発足した。

ところが、敦文が承保4年(1077)、わずか4歳で病没。
承暦3年(1079)、賢子との間に第二皇子(善仁親王、のちの堀河)が生まれる。
そして5年後、白河最愛の賢子は28歳で没する。

こうなると、賢子の面影を残した善仁に位を譲りたいという思いが、日に日につのっていく。
そして、応徳2年(1085)、父後三条の意志で東宮の地位にあった異母弟・実仁が病没。

しかし、実仁のあと、すぐにわが子善仁(7歳)を東宮にすることは、難しかった。
実仁の下には同母弟の輔仁(13歳)がいた。
しかも、生前の後三条は、実仁のあとには輔仁を即位させるつもりだったと伝えられ、白河天皇の祖母である陽明門院禎子が健在で、ことあるごとに「先帝のご遺志」というものを持ち出していた可能性もある。

そして、工作が功を奏したか、この年(応徳3年(1086))、ついに8歳の善仁が皇太子となる。
しかも白河天皇は同日にその新東宮に譲位してしまう。

8歳の新帝の摂政には、摂関家嫡流の藤原師実が任命される。白河の即位後、まもなくその関白に就任して以来、すでに10年余。白河にとって、師実はかなり気心の知れた廷臣である。

白河にとって亡き最愛の賢子は村上源氏顕房の娘であったが、師実の養女として白河の妻になった。善仁=堀河にとっては、血縁はないが、師実は外祖父ということになる。

師実にとっては、父頼通がどうしても天皇の外祖父になれなかったことを知っているから、この堀河天皇との関係は何ごとにも代えがたい。
これに対して、輔仁親王の母は源基平の娘基子であり、師実は外戚の地位にない。
こうしたことから、白河・堀河父子と摂関家の師実は、対輔仁の点から、強い提携関係をもつことになる。

そのような権力関係にあるために、ふだんの政治は幼帝の代理、つまり摂政師実を中心に行われることになる。

鳥羽殿造営
鳥羽殿は、平安京の朱雀大路の南延長である鳥羽作道(つくりみち)が、鴨川と桂川との合流点において、ちょうど交わったあたりに造られた離宮。
最初の計画は、応徳3年(1086)に白河院譲位後の院御所としてであったが、造営は、その後、白河・鳥羽院政期のほぼ全期間にわたって断続的に続けられた。
鳥羽殿に先行して、平安京に隣接する白河地区には、九重塔をはじめとする法勝寺の主要堂舎が完成していた。

しかし、国家的な法会が行われる法勝寺を中核として、平安京の条坊制に似た碁盤目状の都市計画がなされていた白河地区と鳥羽殿とは大きく異なっている。
白河には応徳3年時点で院御所はなく、白河南殿(しらかわみなみどの)という御所が造営されたのは、10年後の嘉保2年(1095)になってのこと。
対して、鳥羽殿では院御所造営が先行し、南殿付属の御堂として証金剛院が康和3年(1101)に完成するまで寺院はなかった。

『扶桑略記』によると、鳥羽殿は100町の規模をもった地域を囲い込んでいたが、その半分の面積にせまる「南北八町、東西六町」という大きな池、そして「築山」などが最初に造られたという。
しかも「五畿七道(ごきしちどう)六十余州皆共に役を課し、池を堀り、山を築き」とあるように、全国に課役を課す国家事業(国宛きにあて)として、池と築山が造営された。
そして「讃岐守高階泰仲(たかしなのやすなか)、御所を作るに依り、已に重任(ちようにん)の宣旨を蒙る」とあるように、院御所建設は受領の成功(じようごう、造営費などを提供して希望の官職に任じられること)によって行われた。

また『扶桑略記』には、鳥羽殿が「後院」として建てられたとある。
後院というのは、譲位後の御所であることに加え、天皇家の私的な所領・財産を管理する機関という意味を含んでいる。
離宮としては、嵯峨院のように平安京外に設けられたものもあったが、後院として京外に出たのは鳥羽殿がはじめて。

公卿会議は、京中で開かれることが多い。
白河院政期の98例のうち、鳥羽殿で8例、白河殿で2例以外はすべて京中院御所での開催。

「愚管抄」によれば、京極師実は源師房の女麗子を妻とし、その姪(師房の2男顕房の子)の賢子を育てる。これを聞いた後三条天皇は賢子を東宮に納れるよう師実に命じる。師実は宇治に閑居する父頼通に報告すると、頼通は「サウナクハラハラト涙ヲオトシテ」喜ぶ。
賢子は姓も藤原を称し、延久3年皇太子の宮に入り、皇太子即位に伴い皇后(中宮)に立ち、養家・実父顕房に恩恵を及ぼす。
賢子は天皇の「ヲボエガラノタグヒナク」(「愚管抄」)、2皇子・3皇女をもうける。
応徳3(1086)年、第2皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇)が践祚し、顕房は天皇の外祖父として廟堂に重きをなし、村上源氏の嫡流の座を占めるに至る。
永保3(1083)年、顕房は兄俊房が右大臣より左大臣に進んだ後を承けて右大臣に昇り、以後12年間その座を占める。寛治8(1094)年9月赤痢に罹り没(58)。

「第七十二代、第三九世白河院。諱ハ貞仁、後三条ノ一のノ子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実ハ中納言公成ノ女也。壬子年即位、甲寅に改元。・・・天下ヲ治給コト十四年。太子ニユヅリテ尊号アリ。世ノ政ヲハジメテ院中ニテシラセ給。後ニ出家サセ給テモ、猶ソノマゝニテ御一期ハスゴサセマシマシキ。オリイニテ世ヲシラセ給コト、昔ハナカリシナリ。・・・マシテ此御代ニハ、院ニテ政ヲキカセ給ヘバ、執柄ハタダ職ニソナハリタルバカリニナリヌ。サレドコレヨリ又、フルキスガタハ一変スルニヤ侍ケン。執柄世ヲオコナハレシカド、宣旨・官符ニテコソ天下ノ事ハ施行セラレシニ、此時ヨリ院宣・庁ノ御下文ヲオモクセラレシニヨリテ、在位ノ君又位ニソナハリ給ヘルバカリナリ。世ノ末ニナレルスガタナルベキニヤ。又城南ノ鳥羽ト云所ニ離宮ヲタテ、土木ノ大ナル営アリキ。昔ハオリ位の君ハ朱雀ニマシマス。コレヲ後院ト云。又冷然院ニモオハシケルニ、彼所々ニハスマセ給ハズ、白河ヨリノチニハ鳥羽殿ヲモチテ上皇御座ノ本所トハサダメラレケリ。御子堀河ノミカド、御孫鳥羽ノ御門、御ヒコ崇徳ノ御在位まで四十余年世ヲシラセ給シカバ、院中ノ礼ナンド云コトモ、コレヨリサダマリケル」(「神皇正統記」)。

白河院は譲位以来一貫して「国家大事」の最終決定を行ったが、独断的・恣意的ではない。
摂関と繰り返し協議を行い、公卿議定を開催させ、それらの意見を踏まえて決断を下し、摂関以下公卿は院の決定に従っている。頼通時代の天皇と摂関の責任の押しつけ合い、公卿の審議ボイコットなどはみられない。

だが一方で、「国家大事」を審議する公卿議定の場が、白河院政初期の陣定から堀河天皇期の御前定・殿上定を経て、鳥羽天皇即位後に院御所議定へと変わっていくこと、また審議メンバーが、摂関を除く現任公卿だけから摂関や前摂関・前任公卿を含む限定された有能な公卿に変わっていくことが指摘されている。
そもそも陣定は、上卿(議長)を定め外記(太政官書記)に公卿を召集させ、服装(正装の束帯)・座順・発言順序・発言記録など堅苦しい作法に縛られ、摂関に内覧したうえで奏聞しなければならなかった。殿上定もほぼ同様である。どちらも内裏と院御所の間を勅使が何度も往復しなければならない。
それに対し院御所議定は、ラフな服装(直衣)で、院の間近で摂関を含む有能な公卿だけで本音で議論し、院もその議論に口をはさむ。
このような実質的審議をもとに院は自らの意思を形成し、最終決断を下した。
鳥羽即位後の院御所議定の増加は、白河院が「国家大事」を直接裁断するため公卿議定を自己の直属会議に再編したものといえる。
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12月19日
・堀河天皇即位。越前守源高実が右大将代を務める。
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