2014年10月26日日曜日

日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(5) 1937(16歳)~1939(18歳)

横浜港大桟橋 2014-10-25
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1937(昭和12)年 16歳
この年
サン・ぺドロ高校に入学。メアリー、地域ボランティアと地元紙のスポーツ記者を始める
「『サン・ペドロ・ニュース・パイロット』という地元新聞のスポーツ欄編集者がチャンスをくれたおかげで、私は高校からジュニア・カレッジを卒業するまでの三年間、カメラをぶら下げて取材に駆けまわり、テニスや水泳、ボクシングのようなマイナー・スポーツの記事を新聞に書いていた。
週に数回、原稿が仕上がると、夜中に自転車に飛び乗って新聞社まで届ける。私の夢はスポーツ・レポーターになることだった。」(ユリ 大統領行政命令九〇六六号)

1月
・産業別組合委員会(CIO)指導下に自動車・鉄鋼産業労働者のスト広がる(~1937年6月)。ゼネラル・モータースで労働者5万がスト入り。44日間の工場占拠闘争の末、勝利。産別労働運動は一気に拡大。

1月
・ヘミングウェイ(38)、「アメリカ・スペイン民主主義友好協会」を主宰。

1月3日
・スペイン、日本人義勇兵ジャック白井、ピレネー越え。6日アルバセーテ着。

1月6日
・内戦中のスペインへの武器禁輸を合同決議。

2月末
・ヘミングウェイ(38)、「北米新聞連合」協会(NANA)の特派員として内乱中のスペインに渡る。
翌3月、・ヘミングウェイ(38)、共和国政府軍と合流、バルセロナ、バレンシアなど転戦。J・イフェンスらと共にスペイン市民戦争記録映画『スペインの大地』に製作協力。フランス人アンドレ・マルローやロシア作家イリヤ・エレンブルグ等とは共同取材活動を通じて親交。雑誌「コリアーズ」特派員・女性作家マーサ・ゲルホーンと恋愛関係に。

3月1日
・USスチール社が団体交渉権を認めその後の大量生産産業での大規模な労働組合化につながる。

3月1日
・モスクワ裁判監視のデューイ委員会発足

3月29日
・最高裁、ワシントン州の女性最低賃金法を支持。

4月22日
・ニューヨークの第4回平和デモ、過去最高人数の市民参加。

5月
・ヘミングウェイ(38)、5月帰国。
6月、第2回全米作家会議で「作家と戦争」について演説。
7月、ヘミングウェイ(38)、F・D・ロ−ズベルト大統領の招待晩餐会で記録映画『スペインの大地』を公開、解説。

5月27日
・「ゴールデンゲート橋」完成。

7月11日
・ジョージ・ガーシュイン(38)、没。ハリウッド

7月11日
・スペイン、ブルネテの戦い、第15国際旅団アメリカ人大隊(リンカン大隊)兵站部将校付兼炊事兵ジャック・白井、ビリャヌエバ・デ・ラ・カニャーダ村で戦死。37歳(推定)

7月16日
・コーデル・ハル国務長官、国際政局に対し一般方針(武力不行使、内政不干渉、条約遵守等)声明。各国に通牒。8.13 政府回答。

7月22日
・農場小作法が制定

8月
この頃、急激な景気後退。

8月
・ヘミングウェイ(38)、再びNANAの特派員としてスペインに渡り、12月には混乱のマドリッドで三幕劇『第五列』の執筆にも集中。

8月23日
・ハル米国務長官、上海の事態に関し声明書を発表(第2次ハル声明)。

9月14日
・ルーズベルト大統領、政府所属船舶の兵器・軍需物資の中国への搬入禁止宣言

9月16日
・国際連盟理事会、支那事変(日中戦争)に関する中国の提訴を諮問委員会に付託することを決定。

9月27日
・国際連盟23国諮問委員会、日本の中国都市爆撃非難決議を提出。

9月28日
・国際連盟総会、23国諮問委員会提出の「(中国)都市爆撃にたいする国際連盟の対日非難決議」を全会一致採択。
「諮問委員会は、日本航空機に依る支那に於ける無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤の念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」

10月5日
・ルーズベルト大統領の「隔離演説」、米シカゴ。
ルーズベルト大統領、侵略国は伝染病。国際社会の健康のため隔離必要。日独の侵略を批判し、中立主義を放棄。翌6日、国務省、日本を9ヶ国条約違反者と断じ、国際連盟の9ヶ国会議開催を支持。
「世界の国の九割は、一般的に認められる法と道義の標準にしたがい、平和な生活をしたいと力めているにもかかわらず、残りの一割の国は極めて好戦的で、他国の内政に干渉しあるいは他国の領土に侵入することにより、世界の秩序及び国際法を破壊しつつある。現に宣戦の布告もせず、何等正当な理由もなくして婦女子を含む非戦闘員を空爆により無慈悲に殺害しつつある状態である。これは特定の条約違反などという問題ではなく、国際法及び人道の世界的問題で、いかなる国も無関心であることはできない」。
ルーズベルトは、この世界的無法状態を「流行病の蔓延」にたとえ、「肉体的な流行病が広がり始めると、共同体は、病気の蔓延に対し健康を保護するため患者の隔離に協力するのである」と、共同制裁の呼びかけとも受け取れる姿勢を示す。

10月6日
・連盟総会、日本は9ヶ国・不戦両条約違反。非難の決議を採択。
・米国務省、日本の行動を9ヵ国条約及び不戦条約違反と正式に声明を発表。

10月30日
・ブリュッセルで国際連盟の9ヶ国条約会議、開催。日本は招請を拒否。中国の期待する対日制裁決議は成立せず。~11月24日。日本の国際法違反批判、警告のみに終わる。
アメリカの同意、イギリスの要請に基づき、「極東の事態を検討し、かつ該地域における遺憾なる紛争の終結を促進すべき友好的手段を考究するため」。
しかし、開催前のかけ声に反し、この会議で中国を全面的に支持したのはソ連だけ。英米仏は消極的、イタリアは日本を支持(日中直接交渉を主張)、ノルウェー・デンマーク・スウェーデンは棄権、ドイツは欠席。

11月
・ルーズベルト大統領、住宅建設や公共事業の振興によって企業活動を活性化する計画を導入。
・ルーズベルト大統領、日独伊ファシズムの脅威を食止めるための国際関係調整会議(軍縮、原料の公平な分配など)を翌年1月22日に各国大使をホワイトハウスに集めて開催する構想を持つ。事前にイギリスの同意を取ろうとするが、チェンバレン首相はこれを拒否。

12月13日
・ニューヨーク、デューイ委員会、トロツキーを無罪とする評決、モスクワ裁判のペテン性

12月20日
・「ニューズウイーク」(この日付け)に「南京陥落、蒋介石は逃亡」の記事。
「東洋では、メンツは生命以上に大切なものとされる。日本軍の勝ち誇った軍靴の響きは、一三世紀以来の中国の歴史に最も屈辱的な一貫を刻み込んだ。それはジンギスカンが中華帝国の大都市群を羊の牧草地に変えてしまって以来の出来事である。そして南京の陥落は、日本の東アジア侵略の第一段階が終わったことを告げた」

1938(昭和13)年 17歳
1月
・ヘミングウェイ(39)、1月帰国、3月スペイン行き、5月帰国、9月スペイン行きと多忙な移動生活。

1月11日
・ルーズベルト大統領、国際状況改善のための諸国会議開催と、事前での英との討議を英に提案。
13日、英チェンバレン首相、米ルーズベルトの提案に対して延期することを回答。外相イーデンは休暇中で不在。
18日、米ルーズベルトの回答。チェンバレンの意見に従い諸国会議提案は延期、しかし、英が伊のエチオピアにおける現状を承認するかもしれぬとのチェンバレン回答には十分注意を払うと回答。

1月28日
・ルーズベルト大統領、太平洋艦隊と大西洋艦隊の増強計画を議会に提案。

2月5日
・マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』刊行。

2月16日
・新農業調整法(AAA)可決。余剰農産物貯蔵の政府援助により価格の安定をはかる。

4月4日
・新聞編集長の75%が日貨排斥に反対。

5月3日
・アメリカにおける対スペイン武器輸出解禁の動き。国務長官コーデル・ハルは、武器輸出禁止解除を決定するが、国内の抗議の声にルーズヴェルトはこれを破棄。

アメリカ政府に対し、あらゆる団体からスぺインに対する武器輸出禁止解除を求める圧力がかけられる。時事評論家ドルー・ピアスンは、「ワシントンでは議員にたいするあらゆる種類の裏面工作が行なわれてきた・・・しかし、そこからなんらの物質的利益をうけない、そうした運動のために、人々が金をつかって全国からやってきた例は、今までめったにないことである」と述べる。前国務長官スティムスンと引退したばかりの駐独大使ウイリアム・ドッドは、輸出禁止反対の請願書に署名し、アインシュタインらの科学者も運動に参加。下院議員バイロン・スコットと上院議員ナイは、輸出禁止終結を勧告する決議案を国会に提出。
5月3日、国務長官コーデル・ハルは、ナイ上院議員の決議案を検討するため、国務省で顧問と会談し、輸出禁止解除に意見が一致。この決定に関する漏洩記事が「ニュ-ヨーク・タイムズ」に掲載されると、新任のロンドン駐在アメリカ大使ケネディ(カトリックでチェンバレンの支持者)が、こうした措置が市民戦争を拡大させはしないかとの彼の不安を、電信で伝えて来る。カトリック信者も、「ポルシェヴィズムと無神論者」の為の援助に対し強硬に抗議。カリブ海へ魚釣りの休日に出かけていたルーズヴェルトは、決定延期をハルに伝え、彼がワシントンに戻ると輸出禁止解除決定は破棄される。

5月11日
・ルーズベルト大統領、ドイツへのヘリウム輸出禁止案を支持。 

5月14日
・国際連盟、中国山東省での日本軍の毒ガス使用に対して非難決議案採択す 

5月17日
・ビンソン海軍拡張法が成立。

5月26日
・下院、非米活動調査委員会を設置。共産党員は7万人に増加。

6月16日
・独占調査の臨時全国経済委員会(TNEC)設立。

6月23日
・民間航空法制定。

6月25日
・公正労働基準法成立。

7月1日
・政府、民間業者に対日道徳的(道義的)禁輸を要請。

7月1日
・駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー、「とうとう日本人は本気になりだした」(日記「滞日十年」)と書く。本格的に中国との武力行動に向って、国内体勢全般を切り替え始めたと指摘。

8月18日
・ルーズベルト大統領、カナダと綿密に軍事提携することを発表。

9月27日
・ルーズベルト米大統領、ズデーテン問題に関して、英・仏・独・チェコスロバキアによる会談を促す。

10月6日
・4月の抗議に続き、この日、中国における自国権益確保に関し日本に強硬申入れ。日本が「門戸開放主義の実際的適用を破壊しかつ米国市民より機会均等を剥奪」していると強く抗議。
イギリスは中国の反帝運動強大化を怖れ、日本に対しても宥和的態度をとる面をもつが、国民政府に対し「英国は頗る積極的に武器売込みに奔走し・・・あたかも英領香港は対支各国武器輸出のエーゼントのような役割をさえなしつつある」(「東京日日」10月2日)と、一貫して日本の敵視の対象となる。

10月24日
・公正労働標準法成立。

11月7日
・米・英・仏、日本が作戦上の理由で列国船舶の通航を禁止した揚子江の開放を日本に要求。

11月8日
・中間選挙。議会では下院で民主党が261議席、共和党が164議席、他4議席、上院では民主党が69議席、共和党が23議席、他4議席。共和党が巻き返し。

11月17日
・米・英・カナダ互恵通商条約調印。英語圏での相互協力関係の進展を示す。

11月18日
・産業別組合会議(CIO)がアメリカ労働同盟から独立

11月18日
・有田八郎外相、米抗議(中国における日本の行動を機会均等門戸開放に反するとして日本の独占または特恵の停止を要求(10.6))に対しアジア新情勢につき事変前の観念・原則は修正を要すると回答

12月2日
・航空機用物資対日モーラルエンバーゴ実施を強化。

12月5日
・米リンカン大隊第1陣、スペインより帰国、ニューヨーク着。歓迎陣2~3千、市内行進。

12月5日
・パール・バックにンーベル文学賞授与。

12月31日
・駐日アメリカ大使グルー、日華事変による米権益侵害、東亜新秩序不承認の対日通牒。翌年1月14日イギリスも同調。

1939(昭和14)年 18歳
この年
カンプトン・ジュニア・カレッジに入学。かたわら、日曜学校で教え始める
「私がジュニア・カレッジで専攻したのはジャーナリズムだ。」(ユリ 大統領行政命令九〇六六号)

「暴力沙汰や犯罪の多いことニューヨーク市随一の学校 - ヘルズキッチンにあるハーレン高等学校 - をビルは一九三九年に卒業した。でも、あんな学校にはなんの親しみも感じていないとか、やっと卒業したんだ、という口ぶりだった。」(回顧録 私のビルへの賛辞)

1月3日
・海軍省、太平洋根拠地の増設を議会に勧告。

1月4日
・ルーズベルト大統領、中立法廃止。軍備拡大。反全体主義国家。ニューディール政策緩和打出す。

1月14日
・対日飛行機及び部分品禁輸について声明を発表。

1月21日
・カリフォルニア州下院、日本農民排斥の土地法案が提出。

1月27日
・フランスに軍用機を提供。

2月9日
・サンフランシスコで反日大会。

2月22日
・マディソンスクエア・ガーデンでドイツ系米人団体「ブント」の会員の2万人集会.

2月27日
・最高裁、座り込みストライキに違法判決を下す。

3月
・ヘミングウェイ(40)、この時よりキューバのハバナ市に移りホテル・アンボスを拠点に『誰がために鐘は鳴る』の執筆を開始。 

3月3日
・ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演「駅馬車」封切り。

3月30日
・駐日アメリカ大使、日本軍の在中国アメリカ教会爆撃に抗議。

4月1日
・スペインのフランコ政権を承認。

4月3日
・行政機構改革法成立。

4月9日
・アルト歌手マリアン・アンダーソン、黒人との理由でコンスティテューション・ホーでの公演阻止され、青空コンサートとなる。

4月14日
・ルーズベルト大統領、ヒトラーに親書。欧州30ヶ国に対して不侵略の約束を求める。ヒトラーは28日の演説で、これに応える。

4月15日
・ルーズベルト大統領、ヒトラーとムッソリーニに対し欧州と中東平和を保障するよう請願を送るが失敗。

4月20日
・宝塚少女歌劇団「振袖使節」、アメリカに到着。

4月20日
・黒人女性歌手ビリー・ホリデイ、「奇妙な果実」レコーディング。

4月30日
・ニューヨーク万国博覧会開幕(テーマ「進歩と平和」)。初めて工業デザインが装飾デザインより注目される。

5月1日
・米・英での巡回展を終えた「ゲルニカ」、ニューヨーク着。この後42年間ニューヨークにとどまる。ニューヨーク近代美術館保管。

5月18日
・平沼首相、帰国のグルー米大使に、欧州対立激化回避の協力をハル長官に提議することを託す。7月8日、ハル米国務長官、5月18日の平沼首相提議に関し、まず東亜の事態収拾を勧告。8月8日、初めて日本政府に手交される。

5月21日
・堀内謙介駐米大使、日独伊関係強化はアメリカの態度を硬化させ深刻な影響があると意見を述べる。

7月26日
・「日米通商航海条約」廃棄通告(予告通牒)。6ヶ月後の翌'40年1月26日失効。全面的対日経済断交。
日本が積極的な中国進出政策を改めない限り、アメリカには対日協調の余地は無い。日本は従来の対米依存経済の修正が必要となる。豊富な産油量とボーキサイトやニッケルを産出する蘭印・仏印は日本にとって死活問題となる。

8月2日
・アインシュタイン,ルーズベルト大統領に、ナチス・ドイツに先駆けて原爆を開発するよう進言する書簡.

8月2日
・ハッチ法制定。連邦官吏の政治活動を禁止。

9月5日
・欧州戦争中立宣言、武器輸出禁止

9月8日
・ルーズベルト大統領、限定的国家非常事態宣言

10月4日
・イングリッド・バーグマン、「別離」でハリウッド・デビュー。

10月21日
・原爆の可能性を探る「ウラン諮問委員会」第1回会合。

10月27日
・アメリカ中立法案上院を通過。

12月11日
・国際連盟、ソ連に対してフィンランド侵攻の停止を要求。

12月22日
・アメリカ大使グルー、日米新通商航海条約または暫定取極め締結拒否。日本の対中政策変更迫る米との妥協、不成功。
7月26日米が通商条約を破棄通告したことにより6ヶ月後には廃棄される事になる。日本にとっては重大な事態のため、野村吉三郎外相(9月25日就任)は、軍と折衝し、軍が封鎖中の揚子江のうち南京から下流を開放する諒解をとりつけ、この日本側の努力を評価して、暫定通商協定締結に応ずるよう求める。
しかしアメリカ政府は、日本が中国の広汎な地域に、外国人の経済活動を制限し、アメリカの通商権益に対する均等待遇を不可能にするような措置が講ぜられる恐れがある限り、新協定締結はしないと、野村の提案を拒否。
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