2020年7月22日水曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その5)「それで僕がお父さんと一所に石川へしつこしいくときつっちこち朝鮮人の死外がうんといました ひびともいるしほんとうにくさくてへいこうしました」(ママ) 「〔二日朝〕松山へゆきました。道を通って見ると朝鮮人がころされて居ました。」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その4)「内に行ってみると、しばの上で朝鮮人がころされていました。」 「男の人が大ぜいで、棒を持って朝鮮人をぶち殺していました。」 「私は橋の下の方に朝鮮人がしんでいる所を見ました.頭がなくているのを見ました。」 「すこしでもあやしいとすぐつかまえて切ってしまった。その頃はだれでも殺気立って居た。それが為になんにもしない朝鮮人や又日本人をまちがって大勢殺された。」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言
(8)石川尋常小学校の作文集(「震災に関する作文」)
高等科二年女子8 〔家、二日〕明け方である、巡査が来て、今、桜町方面へ十五、六人の鮮人が松明をつけて残家を焼き尽くすと言って押し寄せたから用心せよ、と言って走った。〔・・・〕夜は明けた。先ず一安心する間もなく、相沢の方からときの声を揚げて来たから、其れ逃げろと私達は逃げた。〔・・・〕意外にも意外、其れは鮮人ではなく日本人の強はく者である。

高等科二年女子12 二日の朝になって家の様子を見に行くと幸い焼けてなかったので其処で飯を炊き、有合わせを煮て飯をすませた。昼頃になると〔・・・〕〔たずねてきた伯父の話によると〕道路、又川にはたくさんの死がいがあったと言ふことである〔・・・〕晩には、朝鮮人の為におどかされたので、二日の夜も寝られなかった。

高等科二年女子14 二日の朝は、私たちは越中島の原へ小屋をたてて中へ入っていると、朝鮮人が来たから朝鮮人のものはかってはいけないといっている内に朝鮮人が来て、朝鮮人の頭をぶったりなぐったりして、朝鮮人さわざになりました。私たちはせっかく地震でたすかってまるで生きた空がない皆は口ぐちにいいました。

高等科二年女子15 二日の晩、之はとうてい私の頭から去ることの出来ない恐ろしい日、鮮人騒ぎ。あの日を思ふと身震ひする。

(10)フェリス女学院の作文集(「関東大震災女学生の記録」)
本科五年2 〔二日〕やっとの事で神奈川へ着いた。食物を頂き、ふとんの上で寝られる事の出来た時はうれし涙が出た。又夜になると鮮人騒ぎで恐しい一夜を過した。それから二三日は夜昼鮮人で一寸も安心して休む暇もなかった。

本科五年3 〔浅間町の山〕色々の流言が伝はって来る。〔・・・〕第二日目は唯怖れのまに過ぎていった。暗黒の第二夜は近づいて来た。どこからともなくおそろしい噂が伝って来た。朝鮮人襲来。一時に火の起きたのは、地震の結果ばかしではなく鮮人が火を放ったのであると知らせが伝わって来た。こゝに於いて町内の警備の人は、俄に殺気立ち日本刀を持ったり短刀、木剣を手にして、俄に竹槍を造って持つものもあった。これらの人は半町おきぐらい固めた。あゝ又この恐ろしき噂、私共は唯驚くより外はなかった。

本科五年4 九月二日。〔車橋→おほぎ橋→松影町の川岸〕幸に付近を探したらおぢいさんは舟の中に居られた。一同は山手へとひき上げた。夜になって恐ろしさは一層増した。「鮮人をつかまえろ」といふさげび声はそこかしこに聞こえた。

本科六年 〔鎌倉で地震→二日、母と横浜へ向かう〕ところが鮮人騒ぎでとても女、子供は帰れないと、横浜から逃げて来る人々に聞いたので、私はあまりの恐ろしさに母にさからってまた鎌倉へ戻る事にした。〔・・・〕其の間、夜も昼もしきりなしに鮮人騒ぎと地震で私達はおびやかされ、身体も精神もすこしもやすめることは出来なかった。

学年不明 〔二日〕やっとの思ひで伯父の家〔蒔田〕に付き、ほっと安堵の胸をなでおろす間もなく、朝鮮人の襲来!と云う報を聞いては、じっとしてはいられませんでした。之な事なら地震で死んだ方がよほどよいと想ひました。亦ひどい動揺がきたので私は夢中で外に飛び出しました。そこに小屋を作って私達は三日三晩外に夢をむさぼりました。その間でも地震と朝鮮人騒ぎで生きた心地はしませんでした。

(11)南吉田第二尋常小学校の作文集(「震災記念綴方帖」)
四年女子6 二日・・・夜るになると鮮人さわざで夜るもろくろくねむりませんでした。

五年男子12 山へ逃げました。二日の朝家のものでぎょくせんぢへほったをつくってその中に入っていました。夜になったから私はねようとしましたら、朝鮮人といったので私はねません。するとらっばの音や鉄砲の音がするので私は二夜ねませんでした。

五年女子3 九月二日になるとしるごろちうせんちんさはぎで大さはぎでした。ばんになるとちしんをけてくださとどなてきました。私はかなくてたまりませんでした。私の内はかなくてたまりませんでした。

五年女子8 〔山→かめのはし渡る→じざう坂のをてらがもへて・・・山へ登る〕 〔二日目〕 その日はその日でをはりましたが夜になるとせんじんがくるといふので私らは山のうちにはいっていましたがにいさんたちや局長さなどがせんじんのばんをしてをりましたからそんなにくらうはしませんでした

六年男子4 そこでねむくなったからねて おきるとお父さんがいましたので いとこのところへいってごはんをたべていると しやうじんだといってさわいでいます〔二日〕そのうちにたんたんしがくれてきました またしがくれるとしやうじんがかんないのふに百人くみをそろへているといふと僕もお母もみをふるあせています

六年男子10 〔二日〕もう夕方になりましたからごはんを食べてねました それからすこしたつと朝鮮人がらん隊で来たといつたから僕はまたねているところでした 家のお母さんが教へてくれました 僕はびつくりしておきました すると其所に一間の家がありました それで其所の家へとめてもらいました そして家のお父さんが鉄の棒を持って番をしていました それからすむともう夜が明けましたから家のお母さんと一所に焼跡へ来きました するともう横浜市はもう見るまにみんなすつカリ焼けてしまいました まるで野原のやうになってしまいました それで僕がお父さんと一所に石川へしつこしいくときつっちこち朝鮮人の死外がうんといました ひびともいるしほんとうにくさくてへいこうしました 僕はつくづくやんなってひまいました

六年男子11 〔→松山〕夜ノ八時頃朝鮮人ガサワギダシマシタ、二日目ニワ人々ハ山川山川とホウボウデ朝鮮人をシラベテアルイテイマシタ、三日目に父ヤ姉にアイマシタガ兄ガイナイノデサガシマシタガ兄ワウンワルク死ニマシタ、父や僕ワゼイカンヘイツテカンツメヲタクサントツテキマシタ又コメモトツテ来マシタ

六年男子16 八幡様のおくの山に逃げて畠けで心をおちつけていたその中朝鮮人がせめてくると言う人があるので胸がどきどきと又して来たが僕の居る所にはせめてこなかった その夜はそこで野に寝て二日目の朝はやく焼跡に行って見るとどこもかしこも焼け野原でした

六年男子22 〔二日朝〕松山へゆきました。道を通って見ると朝鮮人がころされて居ました。

六年男子25 〔二日〕夜は明けて来ました。・・・朝鮮人があばれてきたといぶことです。

六年女子3 〔堀内で野宿〕二日めのあさは朝鮮がでて日本の人おころしたりした 二日めのぽんわ朝鮮がててきてさわいだのでねることができませんでした うちのおとうさんが三日めのしるにおとこのしとたちがけんおこしらえでおうぜい朝鮮せいばつにいきました 三日めのしろすぎにかへいてきた

六年女子6 もうそのうちに橋はをちてしまいました その晩はごほんもたべずに一夜をすごしました 二日目の夜は朝洋大さはぎでした 四日めには田舎へいきました

六年女子18 九月二日の夜になりますと、よその男の人が朝鮮人が来たから用心しろ、とどなってゐました。その時ばかりは胸がどきっとしました、よその男の人は皆竹やりを持って朝鮮人をおっかけてゐます、山の下では病人が泣いてゐたり親にはぐれた女の子が泣いてゐたり大さはぎでした、それかだんだんと夜が明けてきました。

六年女子22 二日のばんは朝鮮人さわぎでこわくてどうしやうもありませんでした。三日間山にいました 四日の朝保土ヶ谷の在の方へ行きました

つづく


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