2022年8月15日月曜日

〈藤原定家の時代088〉治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その3) 〈内乱期の御家人制〉 〈千葉・上総氏の思惑〉

 


〈藤原定家の時代087〉治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その2) 〈源氏勢力における三つの磁場〉 〈東国武士団の諸相〉 より続く

治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その3)

〈内乱期の御家人制〉

頼朝の旗揚げ

東国が11世紀の源頼義・義家以来の源氏の基盤であり、平氏政権下で圧迫されていた代々の源氏家人が頼朝の挙兵と同時に一斉にそのもとに馳せ参じた。

8月、相模国衣笠城で平氏方軍勢と戦った三浦義明が、「われ源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋(トキ)に達うなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛(*頼朝)に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す」(『吾妻鏡』治承4年8月26日条)と述べ、「源家累代の家人」として、源氏の嫡流にあたる「貴種」頼朝の挙兵のときにめぐり逢えたことの喜びを語って、討死したとされている。

しかし、頼朝の伊豆国への配流は永暦元年(1160)3月で、治承4年8月の挙兵までにすでに20年の歳月が流れ、この間、頼朝の父義朝の配下にあった武士団が、実際に実現するかどうかわからない頼朝挙兵を待ち続けていたとはとうてい考えられず、むしろその多くは平氏軍制に編成されていた。

命からがら逃亡した石橋山合戦での惨敗を見ればわかるように、頼朝の挙兵は当初からスムーズに進行したわけではない。

恩こそ主よ

石橋山合戦における大庭景親と北条時政との間の「言葉戦い」。景親は、源義家に仕えた先祖鎌倉権五郎景正の武功を誇りながらも、いまでは平氏のもとで多大な御恩を受けていることを強調し、「恩こそ主よ」と言いはなつ。

「景親また申しけるは、「昔、八幡殿(*義家)の後三年の軍の御共して、出羽国金沢城を責められし時、十六才にて先陣駆けて、右目を射させて、答の矢を射て其の敵を取りて、名を後代に留めたりし、鎌倉権五郎景正が末葉、大庭三郎景親を大将軍として、兄弟親類三千余騎なり。御方の勢こそ無下に見え候え。いかでか敵対せらるべき」。時政重ねて申しけるは、「そもそも景親は、景正が末葉と名乗り申すか。さては子細は知りたりけり。いかでか三代相伝の君に向かい奉りて、弓をも引き、矢を放つべき。速やかに引きて退き候え」。景親また申して云わく、「されば主に非ずとは申さず。但し昔は主、今は敵、弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも探し。昔を存じて、降人になるべきに非ず」とぞ申しける。(『延慶本平家物語』第二末「石橋山合戦事」)

ひとえに汝を恃む

おそらく東国武士団の多くは同じような反応だったと推測できる。同じ源氏一門であった上野国の新田義重ですら、「故陸奥守(*義家)の嫡孫をもって、自立の志を挿む」(『吾妻鏡』治承4年9月30日条)と、新田氏こそが義家の嫡流にあたるとして、頼朝が源氏嫡流であることを認めず、その挙兵に当初は応じょうとしなかった。

頼朝のもとには、姻戚の北条氏、安達盛長や三善康信などの頼朝の乳母関係者、近江国の佐々木氏や伊勢国の加藤氏などの浪人、伊豆国内において平氏家人として勢力を伸ばしていた伊東祐親や目代山木兼隆と対立する在地武士などが参向していたにすぎなかった。

挙兵にさいして、頼朝が武士一人一人を閑所によんで「ひとえに汝を恃む」と「慇懃の御詞」をつくしたという逸話も(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)、頼朝の政治家的体質を物語るというよりは、むしろ正直な感情の吐露であった。

石橋山合戦後に安房国に逃亡して、千葉常胤や上総介広常の大軍を味方に引き入れるまでは、とても関東に覇権を確立する実力など頼朝は有していなかった。

〈千葉・上総氏の思惑〉

なぜ千葉常胤や上総介広常は頼朝のもとに参向したのか。

親通の孫で皇嘉門院判官代藤原親政は平忠盛(清盛の父)の婿となって平清盛とつうじ、その姉妹も平重盛の妾となって資盛を生んでいる(「吾妻鏡」治承4年9月14日条)。中央の平氏とこのように密接に結合し、千田荘を本拠に下総国内で一大勢力を築きあげた藤原氏の最大の被害者こそ、同国の最有力在庁の千葉氏であった。

常胤は治承4年9月13日、子の胤頼らを遣わし平家方の下総国目代を襲撃させ、翌日には藤原親政の軍勢と戦って勝利をおきめたのち、17日に下総国府において頼朝のもとに参向(「吾妻鏡』治承4年9月13、14、17日条)。

このとき、頼朝が常胤を「父となすべし」とまで語る。常胤にとっては「藤原氏は父常重以来の怨敵であり、頼朝の挙兵はこれを打倒する絶好の機会」だった。千葉氏の藤原氏との合戦は「下総国における覇権を争う両者の歴史的決着をつける」性格を色濃くもっていた。

上総氏は、上総国最大の武士団で、玉崎荘を中心に上総国内~下総国まで勢力をもつ両総平氏の族長の地位にある武士団で、治承4年9月19日、上総介広常は「二万騎」をひきいて頼朝のもとに参向したという。

上総介広常は、治承3年11月の清盛のクーデタの際、上総国司に補任された平氏家人藤原忠清と深刻な対立状況にあったと云われている。広常もまた千葉氏と同様に、国内での地位や地域社会における現実的利害と密接にかかわって、頼朝の挙兵に参加するという政治的選択をおこなった。

千葉氏にとっての佐竹攻略の意義

頼朝の父義朝と千葉氏との関係は、義朝による相馬御厨(現在の取手市をふくむ北相馬郡と手賀沼以北の我孫子全域)への介入に端を発している。

千葉氏は平良文(高望王の子)を祖とする坂東平氏の一流(平忠常はその流れ)。後に相馬御厨と呼ばれる地域は、常将-常永(長)へ継承され、その後、常胤の祖父常兼へ相伝される。しかし、子の常重(常胤の父)が幼少であったために、上総氏系の常時に一時譲られる。

その後、常重は常時の養子として相馬郡を譲られ、大治5年(1130)、同郡の布施郷を皇太神宮に寄進し、ここに相馬御厨が誕生する。常重は、御厨の下司職を確保し、その他の諸権利を保延元年(1135)に子の常胤に譲る。しかし、翌保延2年、国守藤原親通が御厨内の官物未進(税の滞納)を理由に常重を捕縛し、御厨を没収する。

この御厨の領有を巡る混乱に義朝が介入し、義朝は常重の従兄弟の(上総氏)常澄と共謀し、領主権を奪おうとする。常澄の父常時は一時的に、相馬郡を領有しており、常澄はそれを根拠に支配権を主張したと推測される。義朝は「上総御曹司」と名乗り、上総氏系の常澄と関係をもっていた。

その後、常胤は、義朝と主従関係を形成し、保元の乱では、上総・千葉両氏は義朝側に参じるに至る。

その後、義朝が平治の乱で没落し、相馬御厨は没官領(没収地)となり、新たに常陸方面から源義宗(佐竹氏の祖昌義の子)の介入により、最終的に義宗の帰属となる。

常胤の相馬御厨の回復・領有の実現には、この佐竹氏との対決が残されており、頼朝に佐竹攻略を進言するに至る。

国衙・国司の公的権限が、源氏の私的実力者義朝の前で無力さを露呈し、源氏の義朝の私的実力こそが、自身の権限の保証者であると常胤は認識し義朝を選択する。こうした私的実力者との結合(主従関係の形成)は、多くの東国武士たちの共通した状況。関東における源氏の家人化はこうした形で進められた。

前九年・後三年の合戦の時代、源頼義・義家とつづく時代は、武家の棟梁を誕生させ、源氏の神話形成の原点に繋がる。源氏の棟梁と、従軍した武士たちとの間の主従の意識は大きく、義家以降の源氏は衰退するものの、東国を拠点とした基盤整備のなかで、曾孫の義朝の時代には南関東での権力が増幅し、この流れの中で相馬御厨・大庭御厨への介入事件が起る。

11月4日、頼朝は常陸国府(石岡)に着し、佐竹氏の居城金砂攻撃の準備にかかる。苦戦のなか秀義の逃亡で、この方面を手中におさめた頼朝は、常陸国奥六郡と太田・糟田・酒出を没収し、これを御家人に分与し、17日、鎌倉に帰還。この間、佐竹攻略が奏功し、2人の叔父志田義広・源行家が常陸国府に参じる。

さらに12月には、上野の新田義重も鎌倉を訪れ、遅参を弁じ、近江で平氏を撹乱していた近江源氏の山本義経も、連携の意志を明らかにする。

こうした頼朝勢力の高まりを見て、12月24日、義仲は、上野から撤兵し信濃へ退くが、依然、頼朝の圏の外にあった。義仲には、頼朝の軍門に降るか、上洛することで劣勢を回復するか、の選択が残される。


「概観」おわり




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