2022年8月31日水曜日

〈藤原定家の時代104〉治承4(1180)年11月4日~8日 頼朝の佐竹氏(常陸)追討 金砂城合戦 

 


〈藤原定家の時代103〉治承4(1180)年10月23日~11月2日 頼朝、相模国府にて勲功行賞 大庭景親斬首 頼朝、佐竹討伐に出発 「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」) より続く

治承4(1180)年

11月4日

・頼朝の常陸佐竹氏追討軍(先陣、熊谷直実。下河辺行平・土肥実平・和田義盛・佐々木定綱・平山節重)、常陸国府に到着。金砂城合戦。佐竹隆義は上洛して不在。隆義嫡男秀義は佐竹郷馬坂城を捨て、西金砂山城に篭城。頼朝方に寝返った隆義弟佐竹義季の謀略により陥落、秀義は逃亡。常陸の所領は頼朝に没収、佐竹隆義は失意のうちに没(1183年)。

上総介平広常、佐竹義政・秀義兄弟不和を利用、佐竹忠義を誘い出し誅殺、常陸国府大矢橋において佐竹義政(佐竹隆義嫡男)を謀殺。

5日、頼朝軍、佐竹義季を味方に金砂城搦手諸沢口から攻撃。佐竹秀義は奥州へ敗走。熊谷次郎直実、先陣をとり軍功挙げる。大掾昌義嫡男忠義、討死。

7日、国府で頼朝に合戦報告。頼朝の叔父2人志田義広・新宮十郎行家、頼朝に帰属。

8日、頼朝、佐竹所領の常陸奥6郡と太田・糟田・酒出を没収、これを御家人に分与し、鎌倉への帰途につく。この日、捕虜の佐竹氏家人岩瀬与一太郎、同族追討は上策でないと進言し、佐竹秀義は許され太田に帰国。

「武衛常陸の国府に着き給う。佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。・・・先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その従兵義政を軼す。また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上すべからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる。然れども義政は、廣常が誘引に依って、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦足逃走す。その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。所謂下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥の次郎實平・和田の太郎義盛・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷の次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。数千の強兵を相率い競い至る。佐竹の冠者金砂に於いて城壁を築き、要害を固む。兼ねて以て防戦の儀を構え、敢えて心を揺さず。干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「四日、王子。武衛(源頼朝)が常陸国府にお着きになった。佐竹は、その権威は国外にまでおよび、郎従は国中に満ちている。そこで、軽率な行動をせず、よくよく計略を練って誅罰を加えられるようにと、(千葉)常胤・(上総)広常・(三浦)義澄・(土肥)実平以下の宿老たちが話し合った。まず佐竹の考えている事を確かめるため、縁者という事で、上総権介広常を遣わし、事情を問うたところ、(佐竹)太郎義政は、すぐに参上すると言った。(佐竹)冠者秀義は、その従兵は義政より多勢であり、父四郎隆義が平氏方に味方しており、考えるところもあって、すぐには参上できないと言って、常陸国の金砂城に引きこもった。義政が広常の誘いにより大矢橋の辺りに来たところ、頼朝は義政の家人らを外に退け、義政一人を橋の中央に招くと、広常に謀殺させた。とても素早い処置だったので、従っていた家人のある者は首を垂れて降伏し、ある者は早々に逃走した。その後秀義を攻撃するため、軍兵を遣わされた。下河辺庄司行平・同(下河辺)四郎政義・土肥次郎実平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直実・平山武者所季重以下の者たちである。数千の強い兵を率いて競って向かっていった。佐竹冠者(秀義)は金砂山に城壁を築き、要害を固めて以前から防戦の備えをしていたので、少しも動揺せず、戦いを始めて矢石を放った。その城郭は高山の頂上に構えられていた。頼朝方の軍兵は、山麓の渓谷を進んだので、双方の位置は、まさに天と地の隔てであった。そうしているうちに城から矢石が飛んできて、多くが頼朝軍の兵士に当たった。頼朝軍から射た矢は、ほとんど山の上に届く事はなかった。また巌石が道をふさいで、人も馬も進む事が出来なかった。これにより、兵士の心労はつのり、どう戦えばよいのか分らなくなった。とはいえ退去する事も出来ず、やむなく矢を番えて様子を窺っているうちに、目が西に沈み、月が東から昇ったという。」。

「廣常申して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依ってその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。・・・侍中忽ち和順す。本より案内者たるの間、廣常を相具し、金砂の城の後に廻り、時の声を作す。その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。仍って秀義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、逃亡すと。秀義跡を暗ますと。」(「吾妻鏡」5日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「五日、癸丑。寅の刻に、(土肥)実平・(土屋)宗遠達が武衛に使者を送ってきて言った。「佐竹が構えている要塞は、人の力で破る事は出来ません。その中に籠もっている兵士はまた、一人が千人に当たるものです。よくよくお考え下さい」。そこで老将たちの意見をお聞きになると、(上総)広常が言った。「(佐竹)秀義の叔父に佐竹蔵人(義季)という者がいます。義李は、智謀が優れていて、欲心は人並み外れております。恩賞をお授けになるという約束があれば、きっと秀義を滅亡させるための計略を練るでしょう」。頼朝は広常の提案をお許しになり、すぐに広常を侍中(義季)のもとに遣わされた。義季は広常の来臨を喜び、急いで広常に会った。広常は言った。「最近東国の親しき者も疎き者も、武衛に従い奉らぬ者はいない。しかし秀義主は独り仇敵になっており、まことに理由のない状況である。親族でありながら、あなたはどうして秀義の不義に味方なさるのか。早く武衛に参じて、秀義を討ち取り、その遺跡を手にすべきである」。義季はたちまち帰順した。もとより事情をよく知っている者であったので、広常を連れて、金砂城の背後に回り、ときの声をあげた。その昔は城郭の一帯に響き渡った。これを予測していなかったため、秀義とその郎従たちは防御する術を失い、あわてふためいた。広常はますます力を得て攻め立てたので、逃亡したという。秀義もその跡をくらましたという。」。

「丑の刻、廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う。」(「吾妻鏡」6日条)。

「廣常以下士卒、御旅館に帰参す。合戦の次第及び秀義逐電・城郭放火等の事を申す。軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、直に仰せ下さると。また佐竹蔵人参上し、門下に候すべきの由望み申す。即ち許容せしめ給う。功有るが故なり。今日、志太三郎先生義廣・十郎蔵人行家等、国府に参り謁し申すと。」(同7日条)。

「秀義が領所常陸の国奥七郡並びに太田・糟田・酒出等の所々を収公せられ、軍士の勲功の賞に宛て行わると。」(同8日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「六日、甲寅。丑の刻に、(上総)広常は秀義の逃亡した跡に入り、城壁を焼き払った。その後軍兵らを方々の道路に手分けして派遣し、(佐竹)秀義主を捜したところ、深山に入り、奥州の花園城に向かったとの噂であるという。」

「七日、乙卯。(上総)広常以下の兵士が(頼朝の)御宿所に帰参した。合戦の経過や、秀義が逐電した事、城郭に放火した事などを報告した。軍兵のうち、熊谷次郎直美と平山武者所季重には特に勲功があった。所々で真っ先に進み、さらに自らの命をも省みず、多く敵の首を取った。そこで彼らの恩賞は他の武士よりも厚くするようにと、直々に仰せがあったという。また、佐竹蔵人(義季)が参上し、配下に加わりたいと望んできた。(頼朝は)すぐさまお許しになった。功があったからである。今日、志太三郎先生義広と(源)十郎蔵人行家たちが(常陸)国府に参り、面会したという。」。

「八日、丙辰。(佐竹)秀義の所領である常陸国奥七郡と太田・糟田・酒出などを収公され、軍士の勲功に対する恩賞に宛て行なわれたという。また逃亡していた佐竹の家人が十人ばかり現れたという噂が流れたので、(上総)広常・(和田)義盛に生け捕らせ、すべて庭中に召し出された。・・・」。

○金砂城:

常陸国久慈東郡、佐竹氏の根拠地太田の北方にあろる山城。現、茨城県常陸太田市上宮河内。土塁の一部が残る。

○政義:

行義の子、行平の弟。志田義広討伐に功があり、常陸国南郡地頭を与えられる。義経に連坐して河越重頼が罪に問われると、重頼女婿である為、政義も所領没収される。

○季重:

武蔵国の住人。武蔵七党の一流。保元の乱、平治の乱で源義朝に従う。治承・寿永の内乱でも源氏軍にあって武名を高める。

○義季:

隆義の弟、秀義の叔父。事績は不明。

○常陸国奥七郡:

常陸国北方の七郡。那珂東・那珂西・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・多珂の七郡を指す。

○太田:

常陸国佐都西郡。現、茨城県常陸太田市。佐竹隆義が居住して以来、佐竹義量が天正19年(1591)に水戸に移るまで、同氏の本拠。

○糟田:

常陸国佐郡西郡。現、茨城県那珂市額田北郷・額田南郷・額田東郷付近。

○酒出:

常陸国久慈西郡。現、茨城県那珂市北洒出・南酒出付近。

○志田義広(?~1184元暦元)。

為義の子。母は六条大夫重俊の女。兄義朝の養子になったという。本名は義範、のちに義広と改める。常陸国信太に土着し、志田三郎先生と称す。大掾氏と結んで南常陸に勢力をもつ。常陸に侵攻した頼朝のもとを訪れるが、その後、反頼朝の兵を挙げ、3万余騎で下野に向かい、小山朝政の計略により敗退。「吾妻鏡」はこれを養和元(1181)閏11月のこととするが、寿永2年(1183)2月と考えられる。この敗退後、甥の義仲軍に加わり、寿永2年10月に検非違使・右衛門尉に補任。元暦元年(1184)正月、義仲が敗れると京を脱出するが、5月4目、伊勢国羽取山で波多野三郎盛通らに討ち取られる。



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