2023年6月9日金曜日

〈藤原定家の時代386〉建仁3(1203)年9月2日~15日 頼家「尼御台所計らい仰せらるるに依って」出家 朝廷は頼家弟・千幡(11)を鎌倉第3代征夷大将軍に任じ、名を実朝とする 政子、一旦は時政邸に移した実朝を自邸に戻す(時政の後妻、牧方への不安)    

 



建仁3(1203)年

9月2日

・女院の御所に参ず。今日、御堂の御前、日野に参じ給う。御供すべきの由仰せあり(実は女院の御参りなり)。巳の時に出でおわします。出車一。日野に於て御車を寄せ終る。予、京に出づ。資頼朝臣等、七ヶ日何候すと。御参籠なり。夜に入りて、中納言中将殿に参ず。雑熱の事御坐すと。見参するの後、冷泉に帰る。(『明月記』)

9月3日

・早旦、嵯峨に行き、心神を養う。病気により籠居。(『明月記』)~3月6日。

9月5日

・辰の時許りに、冷泉に帰る。(『明月記』)

9月7日

・頼家、政子の計らいで出家。

この日、朝廷は頼家弟・千幡(11)を鎌倉第3代征夷大将軍に任じ、名を実朝とする。 

近衛家実の日記『猪隈関白記』によれば、7日朝に関東(幕府)の使者が院のもとに到来し、去る朔日(ついたち)に頼家が死去したため、12歳の舎弟千幡を征夷大将軍に補任するように要請があり、その日のうちに補任が行われたという(建仁3年9月7日案)。家実の耳には同時に比企能員が討たれた情報も入っているから、幕府の使者は9月2日に鎌倉を出発したと推測され、その時点ですでに実朝の擁立が決定されていたことがわかる。

「亥の刻に将軍家落餝せしめ給う。御病悩の上、家門を治め給う事、始終尤も危きが故、尼御台所計らい仰せらるるに依って、意ならず此の如し。」(「吾妻鏡」同日条)。
「閭巷馳走す。左衛門の督頼家卿薨ず。遺跡の郎従権を争う。その子(六歳、或いは四歳)外祖遠江の国司時政(金吾外祖)の為に討たる。その所従等京の家々に於いて追捕磨滅すと。金吾弟童家を継ぐべき由宣旨を申すと。」(「明月記」)。

「かくて京へかくりきのぼせて、千万御前元服せさせて、実朝と云う名も京より給わりて、やがて将軍宣旨下して、祖父の北條が世に関東は成って。」(「愚管抄」)。 

9月7日

・辰の時、東山に行き、栗を拾う。(『明月記』)

9月9日

・越中内侍を通じて、定家に石清水神社の臨時祭の使いを勤めるよう内示。定家は費用が賄えないので辞退したいが、特別の指示なら引き受けると申し入れ。この頃、定家は何かにつけて越中内侍を通じて申入れ。
9月9日

・良経、定家に対して後鳥羽院御願寺(最勝四天王院)の御障子の名所について語る。

召しあるによりて、先ず良経の許に参ず。御願寺御障子の名所の事等を仰せらる。良経御教訓あり。一日、親国奏する猿楽の如き、極めて不便なり。もっともかねて訓練すべき事なりと。戌の時許りに、御供して八条殿に参上す。一品宮、御節供の陪膳に奉仕す。九条に入り、日没の頃、冷泉に帰る。(『明月記』)
9月10日

・時政、御家人に所領安堵の下知状を発給。

頼家が落飾し、比企氏が滅びるという劇的な変化のなかで、政権交代をアピールするとともに、幕政内での強い立場を示した。

「今日、諸御家人らの所領、元のごとく領掌すべきの由、多く以て遠州(時政)の御書を下さる。これ、世上危うき故なり」(『吾妻鏡』同10日条)
・実朝(12)、政子の住む大御所から時政の名越邸に移る。

「千幡君を吹挙し、将軍に立て奉らるるの間、沙汰有り。若君今日尼御台所より遠州の御亭に渡御す。御輿を用いらる。女房阿波の局同輿に参る。江間の太郎殿・三浦兵衛の尉義村等御輿寄せに候ず。今日諸御家人等の所領元の如く領掌すべきの由、多く以て遠州の御書を下さる。これ世上を危ぶむが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月10日

・良経の御供して院に参ず。院に於て、良経・大相国、九十の賀の事評定あり。(『明月記』)
9月15日
・政子、義時(41)らを遣わして実朝を時政邸から再び自邸に迎え入れる。

阿波局(政子の妹、頼朝の異母弟阿野全成の妻)が、実朝が時政邸にいることは当然としても、牧方の対応への不安を政子に伝えた。政子も同じように考えていたらしく、すぐさま義時・三浦義村・結城朝光を派遣して実朝をふたたび政子邸に迎え入れた。

「阿波の局尼御台所に参り申して云く、若君遠州の御亭に御座すこと然るべしと雖も、つらつら牧の御方の躰を見るに、咲いの中に於いて害心を挿むの間、伝母を恃み難し。定めて勝事出来せんかと。この事兼ねて思慮の内の事なり。早く迎え取り奉るべきの由御返答。即ち江間の四郎殿・三浦兵衛の尉義村・結城の七郎朝光等を遣わし、これを迎え取り奉らる。遠州子細を知らず周章し給う。女房駿河の局を以て謝し申さるるの処、成人の程は同所に於いて扶持すべきの由、御返事を仰せらると。」(「吾妻鏡」15日条)。

「頼家入道をば、伊豆の修善寺と云う山中なる堂へをしこめてけり。頼家は世の中心ちの病にて、八月晦日にかうにて出家して、廣元がもとにすえらる程に、出家の後は一万御前の世に成ぬとて、皆中よくて、かくしなさるべしとも思はで有けるに、やがて出家のすなはちより病はよろしく成りたりける。九月二日かく一万御前をうつと聞て、こはいかにと云て、かたはらなる太刀をとりて、ふと立ければ、病のなごり誠にはかなはぬに、母の尼もとりつきなどして、やがて守りて修善寺にをしこめてけり。」(「愚管抄」)。 

「時政は遠江守といひて、子二人あり、太郎は宗時といふ。次郎義時といふは、心も猛く、魂まされるが、左衛門の督をば、ふさはしからず思ひて、弟の実朝の君に附き従ひて、思ひかまふる事などもありけり。督は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭をおろす。世の中のこり多く、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそくちをしかりけめ。雅き子の一萬といふにぞ、世をゆづりけれど、うけひくものなし。入道は、かの病つくろはむとて、鎌倉より伊豆の国へ、いでゆあびに越えたりける程に、かしこの修善寺といふ所にて、遂に討たれぬ。一萬もやがてうしなはれけり。これは、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。」(「増鏡」)。 


つづく

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