2023年6月8日木曜日

〈藤原定家の時代385〉建仁3(1203)年9月2日~6日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅳ 北条氏の陰謀(『吾妻鏡』の虚構) 慈円『愚管抄』が記す事件のあらまし 頼朝の未完の路線を継承した頼家の不幸 政子の役割         

 


〈藤原定家の時代384〉建仁3(1203)年9月2日~6日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅲ 『吾妻鏡』の記述 病気から回復した頼家、和田義盛・仁田忠常らに時政の暗殺を命じるが失敗 より続く

建仁3(1203)年9月2日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅳ

□北条氏の陰謀(『吾妻鏡』の虚構)。

定家『明月記』によれば、9月7日、幕府の使者が上洛、「頼家が没し、この一幡は時政が討った。弟千幡を跡継ぎにするので許可して欲しい」と言ったという。しかし、その時点で頼家はまだ生存している。通例で推測すると、この使者は遅くとも9月1日には鎌倉を出発している。つまり、時政はこの時点で頼家・一幡の殺害を予定していたことになる。

また、『小代文書(しようだいもんじよ)』によれば、比企能員は単身・平服で時政邸にきたことが確認できる。頼家の家督相続が焦点となっている緊迫した状況で、こんな隙だらけの無防備な行動をとるだろうか。

頼家が重篤な病気に罹った。これを機に能員を暗殺して、比企一族を不意打ちする、というのが時政の考え付いた陰謀ではないか。

まず、京都に使者を立てて、頼家の弟である千幡嗣立の準備をしておく。次に、法事と称して能員を呼びつけて暗殺する。そして、すかさず能員殺害を正当付けるための家督相続に関する能員の強い不満について御家人の間に広め、比企一族を壊滅させる。という推測が成り立つ。

「吾妻鏡」で、頼家近臣として所領没収・遠流とされた信濃国の御家人中野能成は、時政の子の時房と深い関わりがあり、比企氏滅亡2日後の日付で、時政によって所領を安堵される。

近衛家実(いえざね)の日記『猪熊関白記』建仁3年9月7日条には、7月1日に頼家が薨去した、その遺跡をめぐって郎従が「権を争」った、翌2日には比企能員が実朝によって討たれたと大略伝えられたとある。同日(7日)には、頼家の弟・千幡の将軍任命、従五位下叙任、実朝の名のりが後鳥羽上皇によって与えられているという手回しの良さ。

「故比企判官能員残党中野の五郎義成以下の事、猶以てその沙汰有り。所領等を収公せらると。」(「吾妻鏡」19日条)。

「信濃の国春近領志久見郷地頭職の事 藤原能成(中野の五郎) 右件の人、本の如く彼の職たるべし。抑も能員が非法に依って、安堵し難きの由聞こし食すに依って、得分に於いては免ぜらるる所なり。然れば安堵の思いを成し、官仕の忠を致すべきの状、鎌倉仰せに依って、下知件の如し。 建仁三年九月二十三日 遠江の守平(時政花押)」(「市河文書」)。 

時政と中野能成は、能員一族の滅亡以前から手を組んでいた。能成は、頼家が鎌倉中での狼籍を不問とした5人の1人で、頼家が懸想した安達景盛の妾を「北向御所」に拘束し、その出入りを限った5人の1人でもあり、頼家の側近であった。また、時政の子時房も頼家が時折行う蹴鞠の相手の一人として加わっていた。時房の行動も疑惑の渦中にあるといってよい。

時政は早くから比企氏への対策を講じていたと推測できる。

□慈円『愚管抄』が記す事件のあらまし

「重病にかかった頼家が長子一幡にすべてを相続させようとしており、それによって能員が幕政の実権を握ろうとしていることを聞いた時政は、千幡こそ後継者だとして、能員を呼び寄せて刺殺してしまった。

つづいて時政は、8月末に出家をとげ、大江広元邸で療養中の頼家を監視させる一方、一幡の館を襲撃させた。一幡は母親が抱いて脱出したが、立てこもっていた郎等はみな討たれた。建仁3年9月2日のことである。なお一幡は11月3日、北条氏方の追手に捕えられ、刺殺された。

9月2日の事件を聞いて驚いたのは、すでに一幡の世となり、人々が仲良く暮らしていると思っていた頼家である。頼家は太刀をとって立ちあがったものの、病みあがりのため、どうすることもできず、さらに母の政子らにすがりつかれたりして、やがて修善寺へ押しこめられ、翌年7月18日、刺し殺されてしまった。首に紐を巻きつけられ、ふぐりを取られるなどして殺害されたという。

一方、千幡は実朝の名を賜わって、将軍宣下をうけ、関東は外祖父時政の世となった」。

そこには、

①一幡の具体的な殺害の様子、

②大江広元邸における頼家の病気療養、

③頼家の修善寺下向を政子・北条氏による幽閉としていること、

④頼家の死を、暗殺者による刺殺としていることなど、『吾妻鏡』には見えない、あるいはそれと異なる話がいくつも載せられている。

『愚管抄』は、比企氏の乱 - 頼家殺害も含めて - は、将軍一幡を擁する外祖父比企氏の権勢の強大化を恐れた北条氏側によって仕組まれたものにほかならず、『吾妻鏡』の記事の不自然さも、北条氏側の立場から事実を改変したがゆえに生じたものではないかということである。

□頼朝の未完の路線を継承した頼家の不幸。

頼朝の路線には、①東国独立路線と②王朝協調路線があり、この両者が頼朝時代は均衡を保っていた。頼朝の前半の内乱期に①、後半の建久年間は②で、大姫・乙姫の入内方策は②産物である。

しかし、②は、御家人の総意ではなく、上総介広常は、その貴種性の持つ危うさに危惧を表明し誅殺される。東国出身御家人の多くは、独立路線への傾きが強く、頼朝自身が内在的に持つ協調路線とは方向性を異にしていた。大江広元・三善康信などの京都出身者が、政権内部に参画しているのは、そうした頼朝の意志の反映である。頼朝の独裁は二つの路線を調和させることで成立しており、頼家の不幸は、未完に終わった頼朝の政治を、どのように受け継ぐべきかの用意がないままに鎌倉殿の立場についたことである。

更に、御家人との関係における「独裁」か「合議」かの選択がこれに絡んでくる。将軍になるべくして生まれ、将軍としての父の威厳を見て育った頼家は、独裁志向をを持つが、父のカリスマ性を継承できる筈もなく、御家人たちの不満は募ることになるが、政子は、これが御家人の離反、内部抗争となり関東の秩序破壊を危惧する。

□政子の役割

「吾妻鏡」では、比企氏討伐・頼家幽閉は政子の「仰」とされ、頼家没後の一幡と千幡の諸国守護分掌も政子の積極的関与が見られる。実朝の代でも、政子が決定的役割を担う事も多く、政子は、北条氏を含む東国御家人勢力とは別個の調停者として機能していると考えられる。

政子は、頼朝の後家として、頼朝の法事を含め幕府の宗教体制の中心的存在であり、また、実務官僚である大江広元ら京下りの吏僚たちを掌握している。彼らは、幕府内で将軍権力と有力御家人の間の中間勢力をなしおり、彼らを掌握している政子は調停者として振る舞うことが出来る。頼朝没後の将軍権力は、将軍職は頼家が継ぐが、頼朝が持っていた地位と権力は実際は政子と頼家が分掌していた見ることも出来る。政子の関与により、頼家から実朝へ将軍職委譲がなされた訳だが、幕府の権力構造の中で、後の執権職に繋がる役割の萌芽がここに見て取れる。

□その後の比企氏

比企能員の末子能本は、京都に落ちのびて学問で身をたてる。のち、姉の若狭局の長女竹の御所(4代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に戻る。能本は、日蓮に深く帰依し、自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建。これが日蓮門下最初の寺となる。寺号は長興山妙本寺という。日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼の法号に「妙本」を授かり、寺号はこれに由来する。能本は文永8年の竜の口の法難の際、日蓮救済に奔走。安達泰盛とは書を通じての友人であり、日蓮の「大学三郎御書」には、「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」とある。


つづく


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