2023年6月7日水曜日

〈藤原定家の時代384〉建仁3(1203)年9月2日~6日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅲ 『吾妻鏡』の記述 病気から回復した頼家、和田義盛・仁田忠常らに時政の暗殺を命じるが失敗    

 

〈藤原定家の時代383〉建仁3(1203)年9月1日~2日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅱ 比企能員は時政に謀殺され、一族は政子の指示により強襲され滅亡 より続く

建仁3(1203)年9月2日 

『吾妻鏡』

「今朝、廷尉能員息女(将軍家の愛妾、若公母儀なり。元若狭の局と号す)を以て北條殿を訴え申す。・・・将軍驚いて能員を病床に招き、追討の儀を談合せしめ給う。且つは許諾に及ぶ。而るに尼御台所障子を隔て、潛かにこの密事を伺い聞かしめ給う。告げ申されんが為、女房を以て遠州を尋ね奉らる。・・・遠州下馬しこれを拝見す。頗る落涙し、更に乗馬の後、駕を止め暫く思案等の気有り。遂に轡を廻し大膳大夫廣元朝臣が亭に渡御す。・・・大官令答え申して云く、幕下将軍の御時以降、政道を扶けるの号有り。兵法に於いては是非を弁えず。誅戮の実否は宜しく賢慮に有るべしと。

遠州この詞を聞き、即ち起座し給う。天野民部入道蓮景・新田の四郎忠常等御共たり。・・・蓮景云く、軍兵を発するに能わず。御前に召し寄せこれを誅せらるべし。彼の老翁何事か有らんや。・・・遠州工藤の五郎を以て使いとし、能員が許に仰せ遣わされて云く、宿願に依って佛像供養の儀有り。御来臨聴聞せらるべきか。

・・・廷尉子息・親類等諫めて云く、・・・家子郎従等をして甲冑を着し弓矢を帯び相従えらるべしと。能員云く、・・・急ぎ参るべしてえり。遠州甲冑を着け給う。・・・小時廷尉参入す。・・・時に蓮景・忠常等造合脇戸の砌に立ち向かい、廷尉の左右の手を取り、山本竹中に引き伏せ、誅戮に踵を廻さず。・・・

廷尉の僮僕宿廬に奔帰し、事の由を告ぐ。仍って彼の一族・郎従等、一幡君の御館(小御所と号す)に引き籠もり謀叛するの間、未の三刻、尼御台所の仰せに依って、件の輩を追討せんが為軍兵を差し遣わさる。所謂江間の四郎殿・同太郎主・武蔵の守朝政・小山左衛門の尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山の次郎重忠・榛谷の四郎重朝・三浦平六兵衛の尉義村・和田左衛門の尉義盛・同兵衛の尉常盛・同小四郎景長・土肥の先次郎惟光・後藤左衛門の尉信康・所右衛門の尉朝光・尾籐次知景・工藤の小次郎行光・金窪の太郎行親・加藤次郎景廉・同太郎景朝・新田の四郎忠常已下雲霞の如し。各々彼の所に襲い到る。比企の三郎・同四郎・同五郎・河原田の次郎(能員猶子)・笠原十郎左衛門の尉親景・中山の五郎為重・糟屋籐太兵衛の尉有季(已上三人能員聟)等防戦す。敢えて死を愁えざるの間、挑戦申の刻に及ぶ。景廉・知景・景長等並びに郎従数輩疵を被り、頗る引退す。重忠壮力の郎従を入れ替えこれを責め攻む。親景等彼の武威に敵せず、館に放火し、各々若君の御前に於いて自殺す。若君同じくこの殃に免れ給わず。廷尉嫡男余一兵衛の尉姿を女人に仮て、戦場を遁れ出ると雖も、路次に於いて景廉が為に梟首せらる。その後遠州大岡判官時親を遣わし、死骸等を実検せらると。夜に入り渋河刑部の丞を誅せらる。能員が舅たるに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「能員が余党等を捜し求めらる。或いは流刑或いは死罪。多く以て糺断せらる。妻妾並びに二歳の男子等は、好有るに依って和田左衛門の尉義盛に召し預け、安房の国に配す。今日小御所跡に於いて、大輔房源性(鞠足)、故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲するの処、焼ける所の死骸若干相交りて求める所無し。而るに御乳母云く、最後に染付けの小袖を着せしめ給う。その文菊枝なりと。或る死骸の右脇下の小袖僅かに一寸余り焦げ残り、菊文詳かなり。仍ってこれを以てこれを知り、拾い奉りをはんぬ。源性頸に懸け高野山に進発す。奥院に納め奉るべしと。」(「吾妻鏡」同3日条)。

「小笠原の彌太郎・中野の五郎・細野兵衛の尉等を召し禁めらる。この輩外祖の威を恃み、日来能員に與し骨肉の昵みを成す。去る二日合戦の際、廷尉の子息等に相伴うが故なり。島津左衛門の尉忠久、大隅・薩摩・日向等の国の守護職を収公せらる。これまた能員が縁坐に依ってなり。加賀房義印手を束ねて遠州の侍所に参ると。」(「吾妻鏡」同4日条)。

「能員をよびとりて、やがて遠景入道にいだかせて、日田の四郎にさしころさせて、やがて武士をやりて頼家がやみふしたるを、大江廣元がもとにて病せて、それにすえてけり。さて本体の家にならいて、子の一万御前はある人やりうたんとしければ、母いだきて小門より出逃にけり。されどそれに籠りたる程の郎等のはじあるは出ざりければ、皆うち殺てけり。その中にかすや有末をば由なし。出せよ出せよと敵もうしみて云けるを、ついに出ずして敵八人とりて打死しけるをぞ。人はなのめならずをしみける。その外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ。ひきが子共、むこの兒玉党など。ありあいたる者は皆うたれにけり。」(「愚管抄」)。

9月5日

・頼家、死病から生き返る。既に、北条氏は朝廷には死去と報じている。

頼家、和田義盛・仁田忠常らに時政の暗殺を命じる。和田義盛、時政に密告。対応をためらった忠常は、6日、北条氏に討たれる。(「吾妻鏡」同日条)。

仁田忠常の弟ら、義時を討たんとして失敗

頼家は、病が回復し、舅の比企一族の滅亡と一幡、若狭局の死を知り激怒。頼家は、和田義盛と仁田忠常に御教書を送って北条討伐を命じる。しかし和田義盛はこの御教書を北条方へ送って頼家を裏切り、仁田忠常は滅ぼされる。その日(9月7日)のうちに尼御台(政子)の命で頼家は将軍職を剥奪され、伊豆修善寺へ幽閉され、実朝が将軍職を継ぐ。

仁田忠常;伊豆の住人。新田とも書き、四郎と称す。源頼朝の挙兵以来の家人として信任が厚く、文治元年(1185)源範頼に従い平氏追討のため西海に転戦。同5年の奥州合戦、建久元年(1190)の頼朝の上洛にも従う。同4年の富士の巻狩に曾我祐成を誅す。源頼家の信任厚く、建仁3年北条時政が外戚の比企一族を滅亡させたことを憤った頼家から、時政追討を命ぜられ、局外に立とうとしたが、一族郎従たちの誤解もあり、北条氏に討滅される

「将軍家御病痾少減す。なまじいに以て壽算を保ち給う。而るに若君並びに能員滅亡の事を聞かしめ給い、その欝陶に堪えず。遠州を誅すべき由、密々に和田左衛門の尉義盛及び新田の四郎忠常等に仰せらる。堀の籐次親家御使いたり。御書を持ち向かうと雖も、義盛思慮を深め、彼の御書を以て遠州に献ず。仍って親家を虜え、工藤の小次郎行光をしてこれを誅せしむ。将軍家いよいよ御心労と。」(「吾妻鏡」同5日条)。

「晩に及び、遠州新田の四郎忠常を名越の御亭に召す。これ能員追討の賞を行われんが為なり。而るに忠常御亭に参入するの後、昏黒に臨むと雖も、更に退出せず。舎人男この事を怪しむに於いて、彼の乗馬を引き帰宅す。事の由を弟五郎・六郎等に告ぐ。而るに遠州を追討し奉るべきの由、将軍家忠常に仰せ合せらるる事、漏脱せしむの間、すでに罪科せらるるかの由、彼の輩推量を加う。忽ちその憤りを果たさんが為、江間殿に参らんと欲す。江間殿折節大御所(幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御座)に候ぜらる。仍って五郎已下の輩奔参し矢を発つ。江間殿御家人等をして防禦せしめ給う。五郎は、波多野の次郎忠綱が為に梟首せらる。六郎は台所に於いて放火自殺す。件の煙を見て、御家人等競い集う。また忠常名越を出て私宅に還るの刻、途中に於いてこれを聞く。則ち命を棄つべしと称し、御所に参るの処、加藤次景廉が為に誅せられをはんぬ。」(「吾妻鏡」同6日条)。

「日田の四郎と云者は、頼家がことなる近習の者なり。頼家まだかかるべしともしらで、能員をもさしころしけるに、このように成にけるに、本体の頼家が家の侍の西東なるに、義時と二人ありけるがよきたたかいしてうたれにけり。」(「愚管抄」)。 


つづく



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